2011.11.20
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百八十五回

 「水の感触」自画自賛


「夕日の部屋」の撮影のときも、「木賊の庭」のときも、今回の「水の感触」のときも、山之内幸カメラマンは、人工照明つまりライトというものを、いっさい使わなかった。
 すべて自然光であった。
 無言のまま、このドラマのヒロインである早乙女宏美の動きを、冷静に、客観的にとらえ、カメラマン自身が立つポジションも、他のカメラマンのように派手にバタバタと変えずに、静かに、しかし鋭くシャッターを押しつづけていた。
 自信のないカメラマンに限ってよく発する、モデルに対してのあのこうるさい、無意味な、無駄な(無駄どころか、ときにはマイナスになる)掛け声など、山之内カメラマンはほとんど発しない。
 私はときどき自分もドラマの中の一人であることを忘れ、山之内カメラマンがシャッターを押す瞬間をみている。
 彼女は一見さりげなく、ボーッと突っ立っているようにみえるが、そうではない。
 飛んでいる鳥が、水中の魚をつかみあげるような、被写体の一瞬の動きをとらえる、あざやかな「芸」がある。
 この「芸」の芯には「感覚」があり、特殊な感覚と反射神経をもっていないと、この「芸」は光を発しない。
 特殊な感覚とは、いうまでもなく、緊縛の妙味を感受し得る才能である。
「おれはSM写真をもう何十年も撮ってきているベテランだ。だから、おれの撮る写真にまちがいはない!」
 などと、いくら豪語したところで、何十年も緊縛写真を撮ってきているうちに、そのカメラマンの「感覚」は無残にすり減って、使いものにならなくなっている。
 何十年もむかしには新鮮だった緊縛感覚が、使い古されて、磨滅して、単なる「形骸」だけになっている。
(人のことを言っているわけではない。私は自戒しているのだ)

 被写体である早乙女宏美の動きも表情も、まったく自然であり、昨今のような、ひたすらカメラマンやスタッフに迎合するような、誇張された無理なポーズ、そらぞらしい表情は、ひとかけらもない。
(いや、こういってしまっては、昨今のモデルに対して失礼であり、かわいそうだ。彼女たちはカメラマンや撮影現場にいる男たちの命令のままに動き、素直に、忠実にポーズをつくっているにすぎない)

 早乙女は単なるモデルではなく、この「水の感触」の撮影では、一人の「表現者」になっていた。
 裸にならず、足もひろげない。
 恐怖と、怒りと、あきらめと、悲しみと、忍耐を内部に秘め、理不尽な縛りをうけていても、心では強く抵抗しつづけている不運な人妻。
 誇張された演技を極力避け、内面を表現する女優として、彼女は終始した。
(考えてみれば、早乙女宏美は、はるか以前から、そういう自己主張を持った、個性のつよいモデルであった)
 私が大筋を書き、中原るつ館長が各シーンの細部を緻密に手を入れた「水の感触」の撮影台本を、十日も二十日も前からよく読み、理解し、咀嚼していた。
 縛られ責められているモデルが、やたらに顔面をゆがめ、体を不自然にくねらせて、泣いたりわめいたり、感情をむき出しにしているような写真を、私たち「ともしび」は、できうる限り避けた。
 そういう「売らんかな」の誇張の多い写真は、真のマニアたちの失笑しか誘わないことを、私たちは、いやというほど知っているからである。
 いや、他のマニア諸氏の好みなどは、いまはさておき、今回私たちは、言わせていただければ、私たち自身が満足し、胸がわくわくするような写真集がつくりたかったのである。

 山之内カメラマンが関係している雑誌に、この「水の感触」の写真の一部が掲載されることになった。
 一応フォトストーリー形式になっているので、そのための説明文を書いてくれとの依頼が編集部から私の仕事部屋にあり、私は承知した。
(じつは、私がこの「おしゃべり芝居・百八十五回」の原稿を書いている最中にその電話がかかってきたのだ)
 ストーリーを説明するために与えられたスペースはきわめてせまいものだが、写真は八ページの中に十二枚入っている。
 もともと「水の感触」は、一冊の写真集としてまとめるつもりで撮影したので、大量の枚数の中の十二枚というのは、全体のごく一部でしかない。
 しかし、この写真集がかもしだす雰囲気、そして私たちの意図は、この十二枚だけでも十分に伝えられていると思う。
(ただし、女性の露出した股間にのみしか、エロティシズムを感じない人たちにとっては、まったく無縁の写真群であることを、改めてお断りしておきます)

「ともしび」制作の三冊目の写真集に「水の感触」というタイトルを早々とつけて、
「うーん、これはわれながらいいタイトルだぞ」
 と、悦に入っていたのだが、今回写真集よりひと足さきに発表される雑誌掲載の十二枚の写真ページを「水の感触」としてしまうのは、いささかピンとこないのではないか。
 そもそも、この十二枚には「水」が出てこない。
 編集の関係で、人妻ヒロミが浴室で水責めにされる写真は、雑誌には一枚しか掲載されないのだ。
 それもラストシーンの一枚だけである。
(写真集にはこの水責めシーンはもっと多くのせることになるが)
 その点いささかものたりないが、雑誌に掲載されたこの一枚には、びしょぬれ姿にされて監禁されている人妻ヒロミの、底深く暗い陰惨な、ひえびえとした被虐の情感がある。
 何度もしつこく書くことになるが、ハダカを売り物にしない私たち「ともしび」の緊縛写真の中では、めずらしく人妻の全身が着衣のまま水にぬれ、スカートの裾がすこしばかりまくれて(わざとまくったのではない、しぜんにまくれがのだ)右の膝のあたりが、わずかに露出している。鋭い写真である。
 暗鬱の色に沈んだこの情景の中に、すこしだけ浮き上がっている膝と腿の白さが、なんと不気味にエロティックなことか。
(私はここで山之内幸カメラマンのSM感覚の鋭さ、深さを改めて賞賛したい)
 大体、早乙女宏美というのは、ふだんは色気のない女なのだ。
 その色気のない女を、いったん特異なシチュエーションにはめこむと、とたんに別人のような妖気を孕んだ存在に変身する。
 他の女にはない幽艶のエロティシズムを全身に漂わせる。
 早乙女宏美は、或る一瞬から、男たちにあらゆる淫靡な妄想を抱かせる、危険な体温を持った女に変貌する。
 暗く不気味に湿った浴室内の空気、水責めの水を存分に吸って厚く重くなっている手拭いのさるぐつわ。
 胸にぎっちりと固く食い込んでいる縄。ぬれた服、スカート。
 壁によりかかって理不尽な悲運に耐え、男を呪っている人妻の肉体から、繊細で濃密な被虐エロティシズムが匂い、湧き出している。
 この一枚だけでも、じっと見ていると、われながらうっとりしてくる。などと書いては、あまりにもベタな自画自賛になって、まことにだらしがない。
 が、じつを言うと、私よりも中原るつ館長のほうが、今回のこの撮影の出来ばえに、内心ではうっとりしている。
「いいわ、いいわ、ほんとにいい写真が撮れたわ。ね、先生、いいでしょう、凄いでしょう、ねえ、ねえ、先生、撮影って楽しいわねえ、ほんとに楽しいわねえ!」
「そうだよ、撮影って楽しいよ。楽しいからおれは、五十年間も飽きずにやってきたんだよ」
「先生のキモチ、わかるわ、おもしろいわ、自分の思いどおりの写真を撮ることができるなんて、ほんとにおもしろいわ、すごくおもしろいわ!」
 そういえば、今回の「水の感触」の現場での演出は、ほとんど中原館長なのでした。
 彼女がつねに声を張り上げ、動き回って現場の進行をとり仕切っていたのでした。
 私は、田丸という名の、どこかうす汚い、サラ金業者として出演していただけです。
 中原館長は、単なる演出家以上に、今回はもうはじめから総監督みたいな位置に立って、何から何まで、こまかいところまで気を使い、さっそうと胸を張り、私たちにむかって力強く、声高に指示を出し、命令を発していたのでした。
 たとえば、こんなふうに。
「先生、だめですよ、田丸の全身に精力がみなぎっていないわ。どこかたるんでるわ。人妻ヒロミの腕をつかむとき、もっと荒々しく乱暴に、がっちりつかんでくださいよ。もっとつよく、もっとつよく。なに遠慮してるんですか。もっと真剣にやらなきゃだめですよ!」
 私はハイハイと、従順に返事をして、おとなしく演出家の命令にしたがうだけです。
 この演出家の制作意図は、細部に至るまで私と同じなので、私は何も心配することなく、安心して彼女の言うがままに動いていればよいのです。
 それでも気の弱い私は、なかなか乱暴な金貸し男になりきれず、まごまごしていると、彼女はじれったそうに私の前まで飛んできて、
「もっとまじめに、力をこめてやってくださいよ、先生、そんなんじゃいい写真が撮れませんよ!」
 大きな目玉をギョロギョロ光らせて、まるで子供を叱りつけるように言うのでした。
 ですが、おかげで今回の撮影も、まことにスムーズに、寸時の迷いも停滞もなく、白熱した空気の中で、リズムよく進行し、予想以上に中身の濃いものになりました。
 さあ、写真は三冊分、たっぷりと撮り終えたのですから、これからは編集ですよ。
 かわいい、きれいな写真集を三冊、撮影のとき以上の気合いをこめて編集しましょう。
 たのみましたよ、中原館長、山之内カメラマン!

つづく

濡木痴夢男へのお便りはこちら

TOP | 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 | プロフィル | 作品リスト | 掲示板リンク

copyright2007 (C) Chimuo NUREKI All Right Reserved.
サイト内の画像及び文章等の無断転載を固く禁じます。