2011.12.23
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百八十六回

 「七人の侍」と都築さんのトークショー


 あっち亭の師匠へ。
 近況ご報告申しあげます。
 きのうは有楽町へ「七人の侍」を見にいきました。同行者は、中原館長です。
 彼女にはずいぶん世話になっており、まだこの映画を見ていない彼女に、「七人も侍」を見てもらうことは、私の生前の彼女へのお礼であり、プレゼントの一つであるという思いが、以前からありました。
 私はこの映画を封切時に見ており、その後もチャンスがあるたびに、くり返し見ております。計十数回にもなりましょうか。
 テレビの画面でも数回見ており、各シーンの細部まで、頭の中にきざみこまれております。
 セリフがほとんどない端役の一人一人にも、数十年前の私の、その時代時代の記憶がよみがえり、そういう役者の顔がスクリーンに現われるたびに、寸時、思い出に浸ったりしました。
 たとえば、ドングリ目玉の谷晃(たにあきら)が出てくると、
(この人はいい味をもった役者だったけど、途中で自殺をして死んだのだったな。東宝の役者としてどんな悩みがあったのか知らないけど、首を吊って死ぬなんて暗い話だな)
 と、ショックをうけた若き日の私を、ふと思い出したりしました。
 野武士の手下に扮して、百姓たちにつかまって引きずり回される上田吉二郎を見ると、とたんに私は、美濃村晃を思い出していました。
 美濃村晃は「奇譚クラブ」へ入る前の、うんと若いころ、京都の撮影所でエキストラをやっていたことがあるそうです。
「上吉(うえきち)さんはね、あんなこわい顔をしてるけど、やさしい人でね、ボクにいろいろ親切に声をかけてくれたよ」
 など、など。
 上田吉二郎と長谷川一夫とは姻戚関係にあったという話なんかも、ふと思い出したりしました。
 長谷川一夫の妻女が、上田吉二郎のお嬢さんだったということ。いや、林成年のほうだったかな?
 忘れました。うろおぼえです。
 天下に名を轟かした二枚目と、悪役専門の役者が、近い姻戚関係にあるというゴシップが若い私にはおもしろく、記憶のすみに、いまでも残っています。
 そういえばそのころ、私は上田吉二郎の声色(こわいろ)が得意でした。
 いまでもできます。ですが、いまやっても、もうだれもきいてくれない。
 左卜全(ひだりぼくぜん)は、これはもう実際に、舞台姿を何度も見ています。
 敗戦直後、渋谷の東横デパートが、売る商品がなくて、五階と六階あたりを、すべて映画館と実演劇場としていたとき、そこで軽演劇の役者をしていた左卜全をずいぶん見ました。
(私は軽演劇ファンだったのです)
 あるとき、芝居の進行とは無関係に、いきなり左卜全が舞台へ現われ、キョトンとしてあたりを見回し、
「ああ、まだわたしの出番ではなかったか」
 と言って引っ込んだときには、「七人の侍」の、あの百姓のじじいさながらに、すごくおもしろく、腹をかかえて笑いました。
 そういうゴシップの多い、楽しい役者さんでした。
 浅草の大都劇場とか、花月劇場でも、左卜全を見ました。出ただけでおもしろかった。
 それから、有楽町の日劇小劇場でも見ました。
 横溝正史原作の「獄門島」で、重要人物である寺の和尚の役をやっていました。
 そのときのとぼけた、独特のセリフが妙に生き生きとしていて、ふしぎなリアリティがあり、いまでも私の耳にはっきりのこっています。
 この日劇小劇場の舞台では、黒澤明の「七人の侍」の、その七人の中の一人を演じた千秋実も、私は見ています。
 千秋実は、薔薇座という劇団の座長で、菊田一夫脚本の「東京哀詩」という芝居を、佐々木踏絵という女優と一緒にやっていました。佐々木踏絵は千秋実の妻でもあります。
(こんなこと、どうして当時少年の私が知ってるんだろう。そして、どうして八十二歳にもなって覚えているんだろう?)
「東京哀詩」は、アメリカ軍の空襲で消滅した東京の盛り場の、その焼け跡が舞台になっています。
 浮浪児とか、パンパンガールと呼ばれた売春婦が登場します。
 そういう時代に即した芝居でした。

 ……ああ、こんなことばかり書いていたら、キリがない。こんな思い出話を書くはずではありませんでした。
「七人の侍」を、中原館長は、私が予想していたとおりに、感動して見てくれました。
 いや、その感動の度合いは、私の予想以上だったかもしれません。
 じつは、きのうは「七人の侍」を見てから、そのあと、さらに都築響一カメラマンの作品展と、会場で開催される都築氏ともう一人の方(戌井昭人氏)とのトークショーへも、彼女と行く予定でおりました。
 で、映画が終わると、私と彼女はすぐに映画館のあるビルの外へ出ました。
 私は体が重くなっていました。
「どしゃぶりの雨の中を、十三人残っている野武士と闘って疲れてしまった」
 四時間近くもある気力のこもった映画を一気に見終えて(途中で十五分ほどの休憩はありましたが)私は疲労を感じていました。
 私の全身には、テーマ音楽が高く低く鳴り響き、刀をぬいて身構える志村喬の島田勘兵衛がのりうつっていました。
 私のセリフをきくと、彼女はすぐにわかってくれて、
「私も疲れました」
 笑いながら言いました。
 有楽町の駅前には雨は降っていなかったのですが、私の目の前には雨が斜めにざんざぶりに降っていて、すぐ鼻の先を、馬に乗った野武士が、泥のしぶきをあげて駈けぬけていくのが見えました。
 私たちがこれから行く都築さんのイベントの会場は、恵比寿駅近くにあるのです。
 そこは、私も彼女もまだ行ったことのない「ナディッフ アパート」という名の会場です。
暗夜小路」(あんやこうじ)
 上野〜浅草アンダーグラウンド・クルーズというサブ・タイトルがついている個展のトーク・イベントが、夕方六時から始まるのです。
 おもしろそうです。
 浅草、という文字がついていれば、おもしろいにきまっています。
 私の故郷は、浅草です。
(偶然ですけど、最近私は志賀直哉の「暗夜行路」を読みなおそうと思い、中央公論社から出た本を、いまベッドの枕もとに置いてあります)
 時任謙作。
 都築さんに会いに行くには、有楽町駅から電車に乗って、山手線を約半周しなければなりません。
 駅から徒歩で約六分と案内状にあります。
 なんだかきれいに図案化されて、わかりにくそうな地図をたよりに歩かなければなりません。
(まさしく「暗夜小路」だな)
 と私は胸の中でつぶやきました。
「タクシーに乗って行こう」
 と、私は彼女に言い、目の前にきた車をとめました。

 会場の展示室には、私が浅草木馬亭の舞台で、浪曲の梅光師と並んで立っている大きな写真が飾られてあるのにびっくりしました。
 都築さんのような、強靭な、真実の詩精神を有するすぐれた芸術家に、このように表現していただくなんて光栄です。
 この夜、じつは私と中原館長は、都築さんのトークの絶妙のうまさに感動しました。
 その感動は、私にとっては、ある意味において「七人の侍」に匹敵するほどでした。
 で、今回のこの「おしゃべり芝居」のタイトルを、書く前から、
 ――「七人の侍」と都築さんのトークショー
 と、きめていました。
 後半は、都築さんの話芸を賞賛する文章を一生けんめい、心をこめて書こうと思っていたのです。本当に、勉強になりました。
 そして、あっち亭の師匠もよく顔ぶれをご存知の私たち「ともしび」の写真集完成記念の集まりを、都築さんのこういうあたたかい情感に充ちたムードを見習ってやれたら、どんなにいいだろうかと、きのうの夜は、喜多方ラーメンをたべながら、彼女と熱く語り合いました。
 そのへんの様子は、つぎにご報告することにいたします。
 あっち亭の師匠には、いつのまにか、ずいぶん長くおつきあいさせていただき、感謝しております。
 なんだかんだと口先ではいつもいっぱしのことを言いながらも、師匠にはいつもいつもわがままばかり言って、甘えさせていただいてきました。
 中途半端な文面になりました。
 では、また。ごめんください。

つづく

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