2012.1.9
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百八十九回

 たのしいお尻のなで方


 目の前の小さな椅子にすわっている落花さんのお尻を、うしろから両手ですっぽり抱えると、固く締まった弾力のある感触が、私だけのものになる。
 うすい布地にぴっちり包まれているそのお尻を、思いをこめて撫でまわすと、なんともいい気持ちで、うっとりしてくる。
 尻をのせる台は、直径二十数センチほどの円型で、中央に丸い穴があいている。
 椅子の中でも最も安価で軽い粗末なもので、私でも片手で持てる。
 背もたれなど、もちろんついていない。飾り一つない味気ない椅子だ。
 だが、これがこの芝居小屋では、満員になるといつも使われる補助椅子となる。
 なので、客席の片隅に、いつも重ねられて積まれている。
 彼女が腰をおろした丸椅子のすぐ後ろに、私がすわっている同じ形の丸椅子がある。
 ほとんど密着している。
 つまり、私は両足をひろげて、落花さんの下半身に、背後からぴったり密着している形である。
 私と彼女の背後にはブリキ板のドアがあって、そこがこの芝居小屋の非常口になっている。
 ここは二階なので、そのブリキのドアを押すと、すぐ一階へおりるコンクリートのざらざらした階段がある。
 申しわけていどに階段には屋根がついているが、そこはもう小屋の外なのである。
 非常口とは反対側の客席のドアをあけると、正面の入り口につながるチケット受け取り場がある。
 ぎゅうぎゅう詰めに詰めても、せいぜい二百人ちょっとしか入らない小さな芝居小屋であり、私と彼女がここへ到着するときの客席は、ほとんど満員状態なのだ。
 ふつうの客席にはもうすわることができず、私も落花さんも、丸くて固い補助椅子で三時間半をすごしたことが、この四、五年間に数回、あるいは十数回ある。
 補助椅子が置かれる場所も、舞台のすぐそばの下手、非常口を背にした上手、客席と客席の間の通路など各所にあり、客が押し掛けるときは、空間という空間がすべて埋まってしまう。
「どこにすわります?」
 一見不愛想だが、根は親切な案内係にきかれると、私はブリキ板の非常口のドアを前をお願いすることが多い。
 なぜかというと、そこはまた、他の客席からは見えにくい、一種の盲点みたいになっていて、落花さんの下半身に私の手が密着していても、だれも気がつかないのだ。
 いや、ここへくる客は、みんながみんな、滅法芝居好きで、化粧した役者たちが好きなために、幕があくと同時に、私のほうなんか見る人間はいないのだ。
 たとえ私の気配に気づいたとしても、私の手の動きなんかより、舞台のほうがずんとおもしろいので、すぐに美しい役者の顔や姿のほうに、目も心も行ってしまうのだ。

 私がどんなにしつこく落花さんのお尻をなでまわしても、彼女は平気な顔で、いやがりもせず、避けもせず、むしろ毅然として、私のなすがままにしている。
 無反応といっていい。
 どんなにしつこく、と書いたが、実際はそれほどしつこくない。
 むしろ軽く、さわやかな(?)タッチである。
 彼女が平然として背筋をのばしたままなので、私はいつも安心して、お尻だけでなく、ウエストから胸のあたりまで両手でなで上げる。
 すこしずつ大胆になってくる。
 どうして私の手を避けないのだろうかと、ふしぎに思うことがある。
 避けたり、いやがったりするそぶりを見せたりすると、私が不愉快になることを、彼女は知っているからだろうか。
 男が不愉快になり、白けた気分になるのを知っていて、こういう場面で、本能的に、反射的に忌避する女がいる。
 こういうときには体をひねって避けなければいけないと信じて避ける女がいる。
 そういう女は、男にとって確かに不愉快である。
 もっとも、その種の女には、私ははじめから、さわろうとは思わない。
 一緒に映画や芝居を見る気にもならない。
 どんなに落花さんのお尻の形が官能的であっても、私は飢えている若者のように、ガツガツと強くなでたりさすったりはしない。
 そんな野暮な、不粋なまねはしない。
 そろそろと、やさしくさわる。
 やさしくさわったほうが、私は気持ちがいい。
 彼女の丸いお尻を、ショーツ一枚のハダカにした眺めを想像しながら、てのひらと指で、やさしく味わう。
(ショーツにぴっちり包まれた彼女の丸いお尻の美しさ、エロティックなことといったら、筆舌につくしがたい)
 超満員の客席の熱いざわめきの中でひそかに味わうこの上質な快楽は、絶妙というより他はない。
 二人だけの密室の中で、裸にむいた彼女のお尻を実際に眺めたり、さわったりするよりも快楽的かもしれない。
(ああ、やっぱり私は変態だ!)
 このとき、あるいは、彼女のほうも、もしかしたら、私と同質の快楽を得ているのではないか。
 つまり、共犯者というわけだ。
 彼女のお尻の形を、文字で表現するのはむずかしい。
 具体的にいうと、「週刊現代」の二〇十二年一月二十一日号に掲載されている藤原紀香の、黒い下着をつけたセミヌードの写真(撮影は松井康一郎氏)の中の、大きな窓ガラスの手前に立って、背のびしている斜め背面のポーズの、そのぷっくりと盛り上がっている尻の形に似ている。
 美しくエロティックで、下着の黒とのバランスがいい尻である。
 落花さんのときには「お尻」と書き、藤原紀香の場合は敬称ヌキの「尻」になっているところに注意。私の「芸」のこまかいところである(笑)。
 藤原紀香はプロポーション保持のために、よほどの節制と努力をしているのだろう。尻の丸みにつながる太腿の肉が細すぎる。
 この太腿は実際に見たら、やや貧弱な感じになるにちがいない。
 観賞用にはいいかもしれないが、密室で一対一になったら、男の側はややものたりないのではないか。腕なんか筋張っている。
(やせている女のほうが好き、という男にはいいかもしれないが)
 落花さんの太腿のほうが肉感的で、お尻とのバランスが絶妙にとれていて美しい。
 彼女と二人きりのとき、あまりの美しさ、あまりのエロティックなお尻と太腿に、私はいつも思わずうめき声を発し、
「この美しさを、どうかいつまでも保っていてもらいたい、たのむよ」
 と、おがみながら口に出してお願いしてしまうのだ。
 左右の太腿を片方ずつ両手で抱きしめて頬ずりしたり、唇を這わせたりしながら、何度もお願いするのだ。
 一度だけではない、かぞえてみると、もう三十回も四十回も、密室に入って彼女を縛るたびに、私は同じ言葉をくり返している。
 表面的な形の美しさだけではない。
 落花さんのお尻の、若い弾力を秘めた、張りのある固さが、私は好きなのだ。
 だから満員の芝居小屋の中で、小さな円型椅子にすわった目の前の彼女のお尻に、つい手がのびてしまうのだ。
 ぶよぶよした、あるいはフニャフニャした柔らかい尻の肉は、なぜか無知無教養で、すべてに締まりのない女のような気がして、私はあまり好きではない。
(あと五日後に満八十二歳になろうという男が、何をぜいたくなことを言っているのか!)
 舞台の上では、きれいに化粧をし、きらびやかな衣装を着た若い男の役者が、テープの音楽にのり、ずらりと七人並んで踊っている。照明が華やかにあたる。
 全員が、着物をきっちりと隙なく格好よく着ている。
 一人一人が、それぞれ粋である。この場では、野暮は罪悪である。
 役者たちは、すべて素肌を見せていない。
 潔癖である。
 潔癖であることの効果を知っている。
 足には純白の足袋をはいている。腰巻をつけている。
 ときどき着物の裾がはね、脛がちらりと見えるだけである。
 客席は中年の女性が圧倒的に多い。
 彼女たちは自分の好みの役者の動きを目で追いながら、妄想をかきたて、無上の快楽の中に体温を上昇させ、場内に熱い歓声を鳴りひびかせる。
 私の眼に、若い役者たちの頭のてっぺんから、足のつま先までが男の性器に見えてくる。
 私は落花さんの耳もとに口を寄せてささやく。
「これはさながら男根ショーだね」
 芝居は質が高く、役者たちはきわめて巧妙な演技力を発揮して、おもしろかった。
 私も落花さんも、心の底から楽しく、何度も笑った。
 若い役者たちのしたたかな芸に、私は舌を巻いた。男優も女優もみんな達者である。

 先日、私のむかしからの知り合いから電話があり、
「このごろ、おしゃべり芝居の中に落花さんが出てきませんね。どうしたのですか。もう別れたのですか」
 なんて言ってきた。
 以上、その返事です。さしさわりがあると困るので、芝居小屋などの固有名詞は書けませんけど、これは、きのうのことです。

つづく

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