2012.1.30
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百九十回

 凄いものを見た


 凄い芝居を見た。
「凄い」といっても、凄いにもいろいろあって、中身を具体的に説明しなかったら、何が凄いのか、いきなり言われたってわからないでしょう。
 で、これから説明しようと思うのだが、どこから手をつけていいのか迷ってしまう。
 凄いなあと思うところがあちこちにあるので、私の貧しい頭の中では整理がつかない。
 こんなにひどく移り変わってしまったいまの時代に、私が子供のころ(昭和十年前後である)、毎日のように見ていた浅草の芝居が、ほぼそっくりの形で生き残っているということが、まず、凄いと感嘆するところである。
 感動のあまり、やや錯乱している私のまぶたの裏側に残った舞台面を、整理がつかないままに、順序不同に書いていこうと思う。
 いわゆる遊侠股旅物の、時代劇である。

 いちばん印象に残っているのは、雇われている女郎屋から逃げ出してきて、海辺でいたわり合う二人の女郎の姿である。
 寒風吹きすさぶ北国の港町で働く二人の安女郎(やすじょろう)が、よろめきながら現われるそのシーンは、この物語のラストまでを暗示させる悲運と不幸がそのままにじみ出していて、観客の心をたちまち哀感の中に誘い込む力がある。
 赤いペラペラの着物や、くずれた髷や、不健康な青白い顔色に表現されている雰囲気以上に、二人の女郎の内面が現われていて、私は圧倒された。
 うすっぺらな小手先の芸ではなく、妙にリアルな、重厚な演技なのである。
 毎日舞台へ出ているプロの女優なんだから、淫売婦だろうがお姫さまだろうが、与えられた役を、それらしく演ずるのは、当然といえば当然なのだろうが、このとき私の目の前にいる二人の女郎は、女優が扮している女郎以上のわびしさがあり、不幸と悲運の境涯にうちひしがれた凄惨な姿があった。
 要するに、芝居とは思えない写実性があった。
 二人の女郎の名は、おあいとおりくというのだが、若いおあいのほうは目がみえない。盲目なのである。
 姉さん女郎のおりくが、哀れなおあいにそそぐ情愛の演技に、こまかいやさしさがあって人間味を感じさせる。
 おりくのほうには、亭主と男の子が一人いて、同じこの海辺の町に住んでいる。
 亭主は、やくざ相手のバクチに負けて借金をつくり、それを返すために女房を女郎屋に売るような男なのだ。その上、子供をつれて金の無心にくるような甲斐性なしである。
 おりくは子供の手を握りしめ、
「かならず家に帰れる日がくるから、もうすこし辛抱していておくれ」
 と言って泣く。このあたりの芝居は、古典的といっていい位に見慣れた、わかりやすいものだが、母親役の女優の演技に、臭さはまったく感じられない。達者である。
 女郎屋の主人というのは、このあたり一帯を縄張りにもつやくざの親分である。
 その子分たちが、二人の女郎を探しにくる。
 死ぬ気になって海へ飛び込もうとするおあいを、子分たちがつかまえて引きもどす。
「死なれてたまるものか。てめえにはもっと働いてもらわなけりゃならねえ。めくらの女を抱いてよろこぶ客もいるんだ」
 と言っておあいの顔をなぐりつける、親分のセリフが凄い。
 テレビなんかでは絶対に出てこないセリフである。
 子分たちは二人の女郎を引きずって舞台から去る。

 海辺での二人の女郎の悲惨なたたずまいがあまりにも印象的だったので、先に書いてしまったが、その前に、下北(しもきた)の弥太郎という一匹狼の股旅やくざが登場している。弥太郎は幼い時に人買いにかどわかされた妹を探し求めて諸国を放浪し、津軽三味線をひく盲目の門付けの口から噂をきいて、この港町へやってきたのだ。
 おりく夫婦やその子供との愁嘆場に行き合わせて、金を恵んでやったり、そのおりくの口から、行方不明になっている妹のお千代が、この海辺の町では、おあいという名で女郎になって働かされているということを聞きだしたりする場面がある。
 弥太郎は女郎屋一家のやくざたちと争いながら、妹を救い出すことを決意する。
 下北の弥太郎は、いつもは一座の座長がやる主人公なので、格好いいし、強い。
(私が見た日は、一座の若手の二枚目役者の誕生日ということで、ヒーローの弥太郎を、その若手二枚目にやらせていた。誕生日なんていうのは一俳優のプライベートな事柄なのに、観客を無理矢理巻き込んで、舞台全体の祝祭行事にしてしまうところが「凄い」!)

 この弥太郎と、やくざたちとの剣戟シーン、つまりチャンバラがいい。
 刀のぬき方、かまえ方、腰のおとし方、両足をひろげて踏んばる、その形がいい。
 短いが効果的な殺陣(たて)が、何度かくり返される。
 よく訓練されていて、隙がない。
 子分たち一人一人の動きが生きていて迫力がある。爽快感もある。
 この種の劇団のチャンバラとしては、ずばぬけていい。殺陣の流れに、よどみがない。
(新国劇マニアだった私が、そう思う)
 一座の者全員が、けいこを真面目に、熱心にやっていることがよくわかり、二人の女郎の迫真の演技同様、この殺陣も「凄い!」のうちに入る。結束力の強い劇団だということがわかる。芯もカラミもいい呼吸である。

 弥太郎は妹のお千代と再会し、しっかり抱きしめて、こんなところから逃げ出して、しあわせになるんだ、と力強く言う。
 盲目のお千代は、はじめのうちは弥太郎のことを兄だとは信じない。
 信じることができない。
 そういう救いの手が、自分の前にはもう現われないという盲目の女郎の、絶望感にうちひしがれたあきらめの演技が、また凄い。
「私はもう汚れきっている。死ぬより他はない」
 と、悲痛な声で兄に訴える。
 死神にとりつかれたような、この場のマゾヒスティックな女の青白い顔も、演技とは思えないほどの病的な迫力があって凄艶であった。やくざに傷つけられた顔のアザも生きている。こういう役柄に没入するとき、役者はときにマゾ的な快感に浸り得ることを、私は知っている。悲惨な自分の運命に酔うことがある。
 役者をやっている醍醐味の一つといっていいだろう。
 死にたいと言って泣くお千代を、弥太郎はなおも励まし、かつぐようにして逃げるが、途中で女郎屋一家に取り巻かれ、ふたたび斬り合いとなる。
(一度斬られた子分たちが、何度も生きかえって登場してくるが、そんなことは気にしない。それが芝居というものだ)

 雪が降ってくる。
 この小さな舞台には不釣合いなほどに大量に、ぜいたくに雪を降らせている。
 舞台下手に津軽三味線と太鼓が登場し、ラストの大立ち回りに迫力を加える。
 降りしきる雪に合わせて三味線と太鼓の音が、時に高く、時に低く鳴りひびく。
 この種の一座にとってはぜいたくな趣向であり、それが決してチャチにならないところが凄いと思う。
 刀を斬りむすぶとき、チャリンチャリンという効果音が入るが、これも不自然にならず、うまく合わせている。
 大量に舞い落ちる雪の中のこの美しい視覚と聴覚の迫力は、観客にとっては、即快感である。あっけにとられた顔つきで客は酔っている。役者も客席も陶酔している。
 このあと、ふつうの大衆芝居とはいささかちがう展開と、そして結末になる。
 定石としては、弥太郎とお千代の兄妹は、この大立ち回りのあと、やくざ一家の追撃を断ち切って、無事に逃げおおせることができる。
 そして兄妹はこれまでの苦労を忘れ、明かるい笑顔になって抱き合い、幕となるところだ。
「これから江戸へ行って、いい医者にみてもらおう。そうすれば、その目もきっと見えるようになる」
 と、弥太郎が元気に言ったりする。
 ところが、この芝居はちがう。
 お千代は結局はやくざたちに斬り殺されてしまうのである。
 それを見て弥太郎は怒り、残りのやくざたちをすべて斬り倒す。
 そして、降りつもった雪を両手ですくっては舞台中央の妹の死体をおおい、
「これがお前の、花嫁衣裳だ」
 と、悲痛に叫び、嗚咽する。
 これで幕になるのかと思ったら、女郎屋一家には、まだ親分が一人、残っていた。
 死闘の末、親分は弥太郎を斬り、同時に弥太郎も親分を斬り倒す。
 息もたえだえの声で弥太郎は妹の名を呼びつつ、舞台中央の奥に、しめ縄を張って立つ大木の根もとに倒れ込む。
 すると、その大木の樹上に降りつもった大量の雪が、弥太郎の体に、どどどっと落ちてきてかぶさり、音楽高揚して幕となる。
 なんと、兄妹ともに最後は斬り殺されてしまうのだ。
 その前の場では、姉女郎のおりくも、やくざたちに斬られて死んでいる。
 この芝居の登場人物の中で生き残っているのは、女房を女郎屋に売った哀れな男とその子供だけなのである。
 やっぱり凄い芝居である。
 大衆演劇の常識の枠から、逸脱している。
 この種の芝居にはかならずある、観客の笑いを誘うための息ヌキの場面は一切ない。
 始めから終わりまで、まじめ一点張りである。
 役者の一人一人が、真剣すぎるほど真剣に芝居をやっている。
 この一座は、座長をはじめとして、全員芝居好きばかりが集まっているのだ、と思わずにはいられない。
 幕がしまって、やっと場内が明かるくなった。
 私は中原館長と顔を見合わせ、
「なんとまあ、救いのない芝居があることよ……」
 と言い、なんともふしぎな、裏切られたような、疲れたような気分になって笑った。
 いや、この一座はいつも私たちを気持ちよく裏切ってくれるのだった。
 だが、全員が無残に斬り殺されてしまうとは……。
 裏切られたような気分と同時に、私の胸にはなにやら感動めいたものが生まれていた。
 見応えのある芝居だったことは確かである。
 中原館長の感動が、私よりも大きいことを私はもう知っていた。
 彼女は私以上に、凄いものを見た、と思っているにちがいなかった。
 この感動を、早く話し合わねばならない、と私は思った。
 この感動の正体は何か。何がこんなに私と中原館長を感動させ、興奮させるのか。
 そして、ふと思ったのだ。
 私は子供のころ、こういう救いのない、破滅の快感に浸るために作られたような剣劇芝居を、浅草の公園劇場や昭和座で何度も見ている。私の芝居好きの源流は、じつはこの時代にある。
 梅沢昇一座、そして金井修一座。
 この思いは、私の単なる懐古趣味ではない。七十年むかしの、この一座のプログラムがボロボロになってはいるが、まだ私の資料棚のどこかにしまってあるはずだ。
 それを探し出して、読みなおしてみよう。中原館長にも見せねばならぬ。
 少年時代の私に会うことにしよう。
 きょう「下北の弥太郎」と演じたこの劇団「荒城」には、まだまだ凄いところがある。
 この際、それも記録しておかねばならない。
「書いておいてください」
 と、中原館長からも頼まれている。
 頼まれなくても、私は「弥太郎」の幕がおりた瞬間に書くつもりになっていた。
 それが私の役目である。
 東京の都心から離れた町のささやかな劇場で、こんなにも激しく、一途に、純粋に、演劇魂を燃やしている一座のあることを。
 そしてこの一文は、あるいは後世、資料の一端になるかもしれないのだ。

つづく

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