2012.3.28
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百九十四回

 時次郎が唄う追分節


 あっち亭師匠へ。
 このたびは輝鶴師の会へお誘いくださいまして、ありがとうございました。
 あっち亭師やM子嬢も客演としてご出演なさるとのこと、これはぜったいおうかがい致さねば、と思い、手帳をみたら、なんとこの日は、私ども話芸の会の月例会の日なのでした。
 いま私は、昭和五年制作の無声映画「沓掛時次郎」を、師匠もご存知のR子さんと、掛け合いでけいこしているのです。
(私が時次郎、R子さんが六ツ田の三蔵女房のおきぬを、主にやっています)
 私一人で演じるのだったらともかく、掛け合いの相方と呼吸を合わさねばならない芸なので、欠席することはできません。
 というわけで、たいへん残念なのですが、輝鶴師の会にはおうかがいすることができません。
 輝鶴師の芸にも、ひさしぶりに接したい気持ちでいっぱいです。お送りいただいたご案内には、なんと通算一五六回と記されているではありませんか。
 一五六回! 凄い! ほとんど独演会なのですから。
 かなり以前、八丁堀の方の会場で演じられたとき(このときもあっち亭師とM子嬢に連れていっていただきました)より、ずいぶん芸に磨きをかけられたことと思います。
 ひさしぶりに聴きたかった、いや、見たかったという思いでいっぱいです。私のように飽きっぽい、なにごとにも辛抱のたりない軽薄な人間にとっては、輝鶴師は尊敬に価する人物です。
「五平菩薩」は、みなさんがよくおやりになられるのでそれほどでもありませんが、「寛永三馬術」の九、というのは、三馬術の中のどのへんなのか、ぜひ聴かせていただいて勉強したいところです。
 もちろん、あっち亭師、M子嬢の高座姿もひさしぶりに拝見したい、想像しただけで、なんだか胸がドキドキ高鳴ります。
 輝鶴師から以前、
「あなたももうすこしうまくなったら、私の会に出させてあげるよ」
 と言われたことを思い出しました。

 じつはわたし、きのう一日、文京区のシビック大ホールにおりました。
 あっち亭師もたぶんご存知のことと思いますが、佐渡、越後を中心とした民謡の大会があり、なんと連続七十一曲の民謡がつぎからつぎへと演じられたのです。
 私は「追分節」というものを一度じっくりと聴いて心に刻んでおきたいと思い、午前十一時から五時間、客席にすわっていました。
 ことしの秋に私がやる「沓掛時次郎」の後半は、長脇差を捨て、サイコロを捨てた股旅やくざの時次郎が、おきぬに三味線を弾かせ、自分は追分節を唄って、一文二文のわずかな銭をかせぐ門付けとなり果てます。
 セリフの中にも「追分」という言葉が出てきて重要な役割を果たします。
 ですが私は不勉強で、その「追分」を過去にしっかりと聴いたことがなく、心に把握していなかったのです。
 新国劇の島田正吾がやる時次郎は、何度も見ていますが、まあすっきりと形よく、粋なポーズをつくってちょっと「追分」を唄う真似をするだけで、格好よすぎます。
 その追分節を、民謡を専門にしておられる人たちがそれぞれ登場して、ぜんぶで十二曲もやってくださるというのですから、これは見ないわけにはいきません。
 そもそもは、碓氷峠の馬子唄だった節(ふし)が、追分、沓掛、軽井沢(これが俗にいう浅間三宿)の飯盛女郎たちによって、三味線歌の「追分節」になったというのが定説です。
 つまり、はじめは中山道を馬をひきながら唄った馬子唄が、宿場女郎たちの三味線にのり、これが越後に伝わって「越後追分」となり、さらに日本海の船によって運ばれ「酒田追分」「本荘追分」となって流布し、ついには北海道までいって、あの「江差追分」になったということです。
 深い悲哀感のこもった旋律は、不幸な運命を背負って生きた女たちの口から口へと伝わり流れていったゆえからでしょうか。
 街道が左右に分かれる所をさして追分、あるいは、二股に分かれている道を牛を追い分ける、ところから追分という地名が生まれたともいわれています。
 そういえば、いまは繁華街になってしまった新宿にも、追分と呼ばれていたところがありました。
 無声映画の大河内伝次郎が扮した沓掛時次郎は、萬屋錦之介や市川雷蔵、舞台では二枚目のスターが演じた、やたらに格好いい、半開きの扇子で顔をかくした気どった流しの芸人ではなく、落ちぶれ果てた乞食同然の、みじめったらしく無精ひげを生やした門付け芸人です。背が低く、足も短い。
 これこそが長谷川伸が描いた時次郎ではないかと私は思い、そういう気分で、いまけいこしているところです。
 シビック大ホールのステージでは、十二曲並んだこの「追分」がプログラムの最後になっているために、プロローグからラストまで延々五時間、ナマで繰りひろげられる唄と踊りにつきあうことになりました。
 ですが、結果的にたいへんな刺激をうけ、勉強させていただきました。
 唄い踊る人たち一人一人に、芸に執着する人間の魂の輝きがありました。
 新潟の羽茂高校の生徒たちの舞台には、私のような芸に対してすれっからしの人間が、感動の涙を流してしまいました。
 二十数名の男女高校生たちが、三味線を弾き、太鼓を打ち、笛を吹き、民謡・小木おけさ、相川音頭、七浦甚句、佐渡おけさを唄い、踊り、舞います。その踊りの手の指先にまで、伝統芸能の魅力に浸りきっている純粋で、ひたむきな熱い、若い魂がこもっていました。
 いい浪曲を聴いているときと同種、同調、同音の高揚感、陶酔感を味わいました。
 浪曲のようなこまかいストーリーはなくても、安易なストーリー以上に、豊かな情感のこもった、心にくいこんでくる迫力を感じました。伝統芸というものの測り知れぬ魅力の深さを知り、私の心はふるえました。
 芸を味わい、演じる者にとって、何が最も大切かを学んだ一日でした。
 他に感動して身内がふるえたのは、元力士だったという人が唄った相撲甚句でした。
 声量豊かに情感をこめて唄いあげるこの悲哀感は、いまの浪曲の数倍も切々たるもので、いやア、参りました。おそれいりました。また涙を流してしまいました。
 八十歳になられるという小林寛寿という方が、五時間という長丁場を休憩なしで、ぶっつづけた一人で司会をやり(この司会の内容がまた濃く勉強になりました)立ちっぱなし、しゃべりっぱなしで、しかも途中で、ご自分も八木節の「国定忠治」を、十五分間ほども声量高らかに、情緒たっぷりに演じられたのも一驚でした。
 本物の八木節「国定忠治」を十五分間も聴いたのは、考えてみれば初めてでした。きめのこまかい詞と節に心底びっくりしました。
 ぜんぶ語ると三十分間以上になると小林寛寿氏は言っておられましたが、いつかぜひ聴きたいものだと思いました。相撲甚句といい、八木節といい、本物は凄い。本当に凄い。
 東京にいる芸人たちが「慣れ」でやっている芸よりも、地方で伝統芸をしっかり着実に修行している人たちの芸のほうが感動させられるということを、身にしみて知らされました。
 そういえば数日前、紀伊国屋サザンシアターで、井上ひさしの「雪やこんこん」を見ましたが、主役である高畑淳子の女剣劇一座の座長が、威勢のいいタンカと共にもろ肌ぬいだとき、裸の肩や腕の肉づきの貧弱さは、目をおおいたくなるほどでした。
 あれは、太らないように必死でダイエットしているテレビタレントの肩や腕です。旅回りの女座長の肩や腕は、風雪に耐えてもっとたくましく存在感があるはずなのです。
 ああ、すっかりよけいなことを書いてしまいました。せっかくお招きいただいたのに、おうかがいできないことを、かさねておわびいたします。

つづく

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