濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第二百回
大田黒明良さんへの手紙
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大田黒明良さんへ。
けさ朝刊をひろげ、広告欄を見ておりましたら、あなたが入社されたという出版社の近刊案内が出ておりました。
それを読んだとき、ああ、これだな、ウーム、なるほど、と思いました。
そして、(失礼ながら)あなたへの信頼度が、ぐんと深まりました。
じつは、これまでは、あなたがご自分の夢みたいなものを、一人で勝手に追い求めているだけだと思っておりました。希望ばかりが頭の中にふくらんで、地に足がついていない人(またまた失礼)かと思っておりました。
この出版社の広告を読むと、あなたが理想とする文学世界をぴったり一致していることが、よくわかります。
そして、よくもまあ、こういう、いってみれば特殊な、目立たない出版社を見つけて入社されたものだと感心いたしました。
しかも、この就職のむずかしい時代にです。一念巖をも通す、という言葉を、この前も書いた気がしますが、また思い出してしまいました。
私のような志の低い、何事もすぐあきらめてしまう軟弱な人間にとって、あなたのようなねばり強い精神力を持った人は、本当に尊敬に価します。
いまのように利益の追求ばかり狙っているような出版社が多い時代に、あなたが入られた出版社のような、地道な、目立たない、いってみれば渋い内容の本ばかりを出すような企業は、尊い存在のように思えます。
俗な表現をゆるしていただければ、よくまあこういう出版社をみつけ、うまくもぐりこんだ(またまた失礼!)ものだと感嘆してしまいます。まさに、あなたにぴったりの出版社ではありませんか。
渋いとはいえませんが、一時私が勤務していた久保書店のような小企業のたたずまいを私は想像します。そうです、小説を書く島本春雄、絵を描く椋陽児、絵も小説も書く美濃村晃、そして私が、同じ屋根の下に働いていた久保書店です。
さらにさかのぼって、太平洋戦争が苛烈になっていく時代、私の父が勤務していた小さな出版社のことを思い出しました。
場所も神田の出版社街の一角でした。その小さな編集部へ、学校帰りの私が遊びに寄ると、十人たらずの編集者のみなさんが私を可愛がってくれて、お汁粉をごちそうしてくれたり、休みの日にはみんなで揃ってハイキングに連れて行ってくれたりしました。
秩父や長瀞へハイキングの途次、当時流行していた高峰三枝子の「純情二重奏」を、みんなで合唱して歩いたときの楽しかったことを、いまでもおぼえています。
その出版社の社員旅行がなんと富士登山で、私は誘われてこれにもついて行きました。いまとちがって一合目から一歩一歩のぼっていくのです。
女子社員も三、四人いて、頂上近くの山小屋の中で、みんなが重なり合っての一泊も楽しいものでした。
神田神保町の小さな出版社に働く社員たちの家族的なつきあいの楽しかったことは、いまでもこうして私の記憶の中に鮮明にのこっています。
それから数年たって敗戦後、「風俗奇譚」という月刊誌を出していた出版社も、こんどあなたが勤務される会社のすぐ近くにありました。
その出版社では「風俗奇譚」の他に、双葉社のクラブ雑誌をまねた小説雑誌も出していて、私はその雑誌にも毎号ミステリじみた短編を書いていました。私が久保書店に勤務する以前の話です。この雑誌を編集していた若い人は熱心な文学青年で、私はこの人にずいぶん叱咤激励され、勉強させてもらいました。この雑誌は一年半ほどで休刊になりました。いまはもう手に入らないでしょう。私の手もとにもありません。
けさ朝刊をひろげ、偶然に小さな広告を目にしたことで、あなたが勤務される出版社の営業目録の一部を知り、改めてあなたにおめでとうを言いたくなりました。
ですが私はあなたご自身の口から、この出版社の内容を聞きたかった。たとえば出版内容のようなものを送っていただけたら、どんなにうれしかったでしょう。
それにしても、いまどき大下宇陀児の小説を集めて、三七八〇円という定価をつけて発行する出版社は、もちろん私にとってうれしい限りです。でも、どれ位の部数が売れるものか、心配になったりします。
利益のことは考えず、出したいから出す、という姿勢の出版社なのでしょう。たのもしく思えます。
「裏窓」傑作短編集を、ぜひ出してください。よろこんでお手伝いさせていただきます。
「続・天狗のいたずら」の進行があいかわらず難渋しているため、その呼び水の意味もあって、短い芝居の台本を四本書きました。これは私の関係する劇団のためのもので、まあコントのようなものです。
それと、必要があって短いエッセイを一つ書きました。これも呼び水を意識して書いたものです。台本もエッセイも、SMとは関係ありません。
この生原稿を、あなたに送ります。
不要だと思われたら、すててくださって結構です。私のほうにコピーがあります。
毎月書かねばならない連載のエッセイ(これはSMに関連した原稿)を二本書いて、いまひといきついたところです。
これから、頓挫している「続・天狗のいたずら」にかかろうと思います。
冒頭の部分は、まあおもしろく書けたのですが、肝心の「事件」がまだおきないのです。「事件」の発端をどうやって書くか、それに苦しんでいます。
まだまだ七転八倒の状態がつづくような気がします。
あなたのような読者がいることを励みにして、なんとか書きすすめるよう努力します。
(つづく)
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