すがすがしいエロティシズム
「まさごてん」に展示されている四十点余の絵は、意外に深く私の心のなかに刻みついてしまった。 え、なんだって? 「縄」が描かれてない絵でも、そんなに感じるのかって? おいおいおい、冗談言っちゃいけませんよ。 「縄」などというのは、私の観念をSMの官能世界に導く一つのマテリアルにすぎない。 「縄」という物体は、濃密なフェティシズムの香りに充ちた夢想の天国へ誘う道具の一つにすぎないのですよ。 第一「縄」にしか感じられない人間に、SM雑誌の編集ができますか? ついでだから言わせてもらうが、なんのイメージも魂もなく、ただゴテゴテと女体を縛り、これ見よがしに下半身をひろげさせている写真などを見ても、私のSM感覚はすこしも刺激されないのですよ。 ああいうものは、私にとっては単純直截な残酷拷問我慢大会の実況写真でしかないのです。見て得られるのは嫌悪感だけです。 え? なんですって? ああいう女の股間に何やら太いものをぶち込んだわかりやすいエロ写真を前にして何も感じないというのは、私がすでに救いのない位に老化しているっていうんですか? まあ、年からいったらそう言われても仕方がないのだけれど、風俗資料館の館長に、館内に展示されている「まさごてん」を見せてもらったとき、私はまぎれもなく感動というものを味わいました。 それも、われながら若々しい、みずみずしい感動です。一瞬、熱い血が全身を駆けめぐりました。 たとえば、水の入ったバケツを両手にさげて、廊下に立たされている女生徒の後ろ姿。 首をすこし前にうなだれた少女のこの服従ポーズの可憐な痛々しさは、たまらなくいじらしく、被虐的でエロティックなのだ。 (いじらしいという感情は、SM官能のたいせつな条件の一つです) この女生徒の足にはいている白いソックス。そして白い運動靴。 ああ、なんというつつましい可憐な形の運動靴なのだろう。赤い三本の線が入っただけの、なんの飾りもない素朴な運動靴。 この足もとだけを見ても、気が遠くなるようなエロティシズムを感じる。左右の踵をやや位置をずらして並べた運動靴の描写が正確で凄い。絶妙の角度で描かれ、画家の思いのこもった緻密なデッサン力である。 折り返しのある純白の清潔な木綿のソックスに包まれた少女の足の匂い、五本の指の足の匂いがこもっている運動靴の中から悩ましく匂い出すエロティシズムには、観賞者の全身を甘い妄想に包み込む存在感がある。 性器そのものから発生する匂いよりも、少女の官能性が濃密ににじみ出ていて、このソックスと運動靴の部分は見る者にせまって、欲情を刺激する。画家の執念がそのまま観賞者の心に伝わってくる。これこそがフェティシズムだ。 お尻のふくらみの下の位置まで下ろされているショーツ。その白い小さな布の皺のなまなましさ。 むき出された二つの肉の丘は、先生に叱られ、お仕置きされ、叩かれたために、すでに赤く腫れあがっている。 もちろん少女のお尻の形は、成熟した女のものではない。つまり、つつましく、いじらしく、可愛い。 叩かれて腫れている部分の色も、夢のようにはかない赤さだが、決してリアルさを失っていない。このむごたらしい感じは、絶妙である。みつめているとむずむずしてきて、思わず頬ずりしたくなるような、なまなましい色である。 妄想を誘い、その妄想の快楽の中に、いつまでも浸っていられるほどの多くの物語をイメージさせる赤い繊細な模様になっている。 この両手にバケツをさげた女生徒の図だけでなく、「まさごてん」に飾られた四十点余の作品すべてに、金銭を得るために描かれた澱(おり)のようなものがついていない。 自分が描きたいものを、ただひたすらに描いた、という最も純粋で熱い、画家の一途な心がある。魂がある。 その魂が、制作者としての高度な技術のもとに、みごとに結実していて、この「まさごてん」はすがすがしい。 老いさらばえた私の心と肉体に、若さを甦らせてくれたのは、このすがすがしいエロティシズムである。 私には、よくわかるのだ。私には、SM雑誌を編集していた時代があり、またSM小説と呼ばれるものを無数に書いていた過去もある。 自分が書きたいと思うものを、その思いを存分にこめて、わきめもふらずに書いたものは好評であった。 稿料を得たいと思い、雑誌の性格や程度に合わせて書いたものは、乏しい反響しかなかった。 SM雑誌全盛のころだったから、一定のテクニックさえあれば、どんなものでも活字になり、稿料がもらえた。十数誌のSM雑誌に書いて書いて書きまくった。 或るSM雑誌の編集長に言われたことがある。 「濡木さんの書いたものは、原稿の字に乱れがあるときのほうが、力と勢いがこもっていておもしろい」 この言葉は、いまでも忘れない。 私は一種の文字フェチで、原稿紙に常に手書きで、必要以上にわかりやすく、ていねいに一字一字書く(現にこの原稿がそうである)。 だが、しめきりがせまり、書いている内容に自分で興奮しているときには字が乱れ、粗雑になり、ときには脱字のままの原稿を編集者に渡すことがあった。 や、話が横道に外れてしまった。 (「おしゃべり芝居」の私の原稿はいつもこうだ) 小説の原稿とちがって、絵は作者の手を離れた瞬間に、絵そのものが完成作品となる。 ビジュアル作品で繊細なテクニックを必要とする場合は、どんなに興奮していても、制作中の手に乱れがあってはならない。 なので小説原稿とは比較にならないが、気持ちには共通するものがある。 「まさごてん」に展示されている絵には、すべて作者の思いが熱く一途にこもっている。 それが私の魂をゆすり、ふるわせる。マニアのエロティシズム感覚を甦えらせる。 むかし、私がSM雑誌の編集をしていたころの寄稿家には、それぞれの嗜好分野について微妙な違いはあっても、純粋な情熱をもつ人ばかりであった。 編集者の私が原稿料を渡そうとすると、 「えッ、自分の好きなものを、好きなように書いて、活字にしてもらって、みんなに読んでもらって、それでお金がもらえるんですか。ありがたいなあ」 という寄稿家がいた。画家の場合もそうだった。 そういうマニアの寄稿家ばかりが集まって徹夜で話し合った時代があった。 いまでもいるに違いない。この越野眞砂氏のように。 (つづく)
(つづく)