濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第二百四回
六十年前の詩
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私は、三文(さんもん)小説家である。
「三文」の意味をご存知ない方に、手もとの辞書を引いてみる。
「三文」(さんもん)一文銭三枚の価。きわめて安い価。他の語の上に付けて、安っぽい、価値の低い、粗悪な、などの意味を表す。「判(ばん)」「小説」「文士」。
「三文文士」とは、劣等文士、また文士の蔑称。
自分で自分のことを三文文士などと卑下していうのは、いかにも自虐めいて忸怩たるものがある。だが、心の中では真実そう思っている。
そうは思っていても、長いあいだ生活の糧(かて)として書きつづけてきて、いささかの誇りはあるので、たまにほめられるとうれしい。天にものぼったような気持ちになる。
二〇〇八年五月、このころ河出書房新社からつづけざまに出版された私の文庫本の六冊目の「解説」に風俗資料館の中原るつ氏が「濡木痴夢男のもう一つの顔――猛烈執筆人生」という文章を書いてくださり、これはうれしかった。
お座なりの形式的なほめ言葉ではなく、私の過去の文章群(数量だけはやたらに多い)を丹念に読んでくださり、これは大変にありがたく私は感謝した。
この人の轡を取り、一介の下人(げにん)として、いくさのときは馬前で討ち死にをしてもよいと思ったほど、私は中原るつ氏の「解説文」に感動した。
なんどもなんども読み返し、胸を熱くさせた。過剰にすぎる評価だと面映ゆく思いながらも、心底ありがたかった。
とくにこの「解説文」の末尾に中原るつ氏が書かれた数行の文章の華麗さは、いまでも私をうっとりさせる。
「(略)本書『緊縛★命あるかぎり』に収録された『濡木緊縛日記』が、マニアの心にリアリティをもって迫るのは、これまで駆け足で紹介してきた数々の小説作品同様、丁寧に描かれたディテールだけでも、巧みな文章力だけでもありません。自らの快楽世界を深く追求した作品は、同じ快楽の波動を持つ読者の心と共鳴しあい、白い肌のやわらかさ、馥郁とたちのぼる甘い香り、しっとりとした手ざわり、手首のしなやかさ、体中の血が逆流するような陶酔や恍惚をも伝えてくれます。(略)」
私の稚拙な文章を、「手首のしなやかさ」と評された中原氏の表現感覚の柔軟さに、私は一驚し、尊敬した。私の小説に与えられたこの「解説文」は、私にとって死ぬまで忘れることのできないものとなった。
このときから四年たったいま、私の過去の小説を、ややアングルを変えた位置と立場から読んでくださり、評価してくださる方が、新しく現れた。
この「おしゃべり芝居」の中にたびたび登場させていただく大田黒秋良氏である。
(この名前は私がつけた仮名であり、途中から私は「秋良」を「明良」と書くようになった。このほうが本名に近いのだ。ところが最近彼が私のところへ寄越した原稿には、その署名に「秋良」としてある。明良よりも秋良のほうがお好みなのであろう。それでこれから秋良とさせていただく)
大田黒氏は、私の過去から現在に至るまでの精神史や、作品を、きわめて地道に、誠実に微証してくださっていることがわかった。
八十三歳という高齢に近づいて、かなりボケてしまった私の額を、ピシャリと扇子で叩いて、半分死んだ私の脳髄を覚醒させてくださったのだ。
過去の精神史、とやや大仰に書いたが、単なる過去ではない。
はるかむかしむかしの、私自身がもう忘れ果て、捨て去っている記憶の向こう側から、私の書いたものを引きずり出してきたのだ。
仰天した。
一九五二年(いまから六十年前である)文理書院という新宿喜久井町にあった出版社が発行していた「人生手帖」という月刊誌に、私の詩が掲載されており、それを大田黒氏はみつけだしてきたのだ。
その詩を、ここに書き写す。
若い女の死
ハルちゃん
君が息をひきとってからも
君が屍室に運ばれていってからも
の使っていた尿瓶も便器も
くらい便所の隅に残され、置かれたままだ
どんなに苦しかったろう
ハルちゃん
君の 苦痛を耐える声が
廊下をへだてた ぼくの病室まできこえ
看護婦さんを呼ぶ きれぎれの声が
毎夜 ぼくの胸をしめつけた
「手が足りないんだから
あまり呼ばないでね」
年とった看護婦が
キンキンと君に投げる言葉を
ぼくは煮えくりかえるような怒りに身をふるふせ
いくたびかきいた
汚れた便器を使うのは
それを看護婦に頼むのは
ハルちゃん
君は女だから それも若い女だから
どんなに辛かったろう
苦悶のままの死顔が
はっきり それを語っていた
そして今夜もまたきこえるよ
君が狂気のように耳をおおった
あの爆音が
きゅうんという
あの戦斗機の急降下音が
異国の爆音のなかに 歯をくいしばり
ぼくはおもう
ぼくたち結核患者はおもう
君の死を 君の死の理由を
そして 君を殺した奴らのことを
ぼくたち 動くことのできない病院の
咽喉をしめつける奴らのことを
ベッドから一途に冷たい墓場へ蹴落とす
あの憎い ぼくたちの敵を
ハルちゃん
君の残していった尿瓶と便器が
今夜も 便所の片隅に
にぶい光を放っている
この詩はもちろん、私は本名で書いている。一九五二年は昭和二十七年であり、私は二十二歳であった。
翌年つまり一九五三年十一月号の「奇譚クラブ」に、私は青山三枝吉のペンネームで「悦虐の旅役者」という短編小説を発表している。これが原稿料というものをもらった最初の小説であった。
この時代、私は他にも反戦詩のようなものを書いている。その一方で「SM小説」を書き始めているのが私という人間なのだ。
大田黒秋良氏は、当然私の本名を知っていて、この詩を探がし出してきたのである。
「同名異人かと思いましたけど、とにかくお目にかけようと思ってコピーしてきました」
と、大田黒氏は言った。
「ぼくの詩ですよ、まちがいありません。なつかしい。よく見つけてきましたね」
と、私は答えた。
私の仕事場近くのコーヒーショップで、私は大田黒氏と向かい合っていた。
彼は、六十年前の私の詩を、他の雑誌かも発見して、コピーして持ってきてくれた。
つぎの回にそのことも書こうと思う。
(つづく)
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