平手造酒の最期
この「おしゃべり芝居」の前回の原稿を、落花さんに読んでもらった。 「あのときテルシは、自分の病気のことを、ガンだと先生に言ったの?」 と、彼女が私に聞いた。 先生とは私のことだ。私は彼女にとってなんの先生でもないはずだが、いつの頃からか習慣でそう呼んでいる。 「言ったよ。ガンでスイゾーがわるい。入院して手術をしないと、と言ったから、おれはショックをうけたんだよ」 と、私は彼女にこたえた。 単に膵臓がわるいだけだったら、それほどの衝撃はうけなかった。彼は右手で自分の胃のあたりをおさえながら、私にそう言ったのだ。 「私にはガンとは聞こえなかったんです。スイゾーというのは聞こえたんだけど」 と、彼女が言った。 電話を使っての彼女との会話だった。面とむかってのおしゃべりではない。彼女の仕事中のはずだった。 芝居が終わってその「送り出し」のとき、舞台から下りてきてそのままの化粧と衣装で立つテルシの正面に近寄り、私は彼に声をかけたのだ。落花さんはやや離れて、私の左側の位置にいた。 まわりにはまだ他の客たちのざわめきがあり、彼の声は低く聞きとりにくかった。 しかし、私の耳には、ガンだと聞こえた。 彼の表情は元気がなく沈痛で、冗談とか軽口のような気配はすこしも感じられなかった。 だから私は、まともに衝撃をうけたのだった。いくらまともに衝撃をうけたからといって、私にはどうすることもできない。 私も落花さんも、彼らの芝居を見ることができるのは、年に数回しかない。一年のうちにせいぜい二日か三日、観客席の二つを埋めるだけの、とてもひいきとは言えない無責任な客にすぎない。べつに卑下していうわけではないが、通りすがりの人間にひとしい。 そのことを、彼も当然知っているはずだ。 ただ、彼らがこの町へやってきたとき、私と落花さんはそれぞれの住居から電車を乗り継ぎ、時間をかけて彼らの舞台を見にきた人間だということは確かである。とはいっても彼らのふところへ華々しくご祝儀をねじこむファンたちにくらべたら、やはり通りすがりの人間に近い。彼らの生活がそういうご祝儀によって支えられていることを、私も彼女も知っている。そんな私の、 「ここんところ、パワーが落ちてるよ」 などという遠慮のない、無礼ともいえる無責任な批判に対して、誠実に、素直に、 「わかっています」 と静かにうなずいた彼の性格に、私のほうも素直に感動していた。 そして落花さんも、私同様に、彼の反応に対して感動していることが私に伝わった。 「この人。あなたの芝居が好きなんですよ。ここへくるお芝居の中で、いちばんいいと言ってるんですよ」 と、横から落花さんがテルシに言った。彼女はつつしみ深い性格で、こういうことは言わない人だと思っていたので、私には意外だった。テルシは彼女に視線をむけ、軽く頭を下げた。 彼女が言ったこの人、というのは、私のことである。むろん私だけが彼の芝居が好きなのではない。私以上に彼女は、彼の一座が好きなのであった。 言ってしまえば、私は彼女に引きずられてテルシ一座の芝居にやってくるのだ。 テルシの魅力は、ひとことで言えば、彼の身辺から滲み出る、えもいわれぬ退廃味にある。 意識してそういう味を出そうとしているのではなく、彼自身が持っている体臭のようなものなのだ。 彼は兄(どうやら実兄らしい)のシンゴと共に、この一座の「座長」という位置にいる(チラシにそう印刷されている)。 客も「二人座長」という形に、いつのまにか慣れてしまった。いや、慣らされてしまうのだ。だが、考えてみれば、新国劇だって辰巳柳太郎と島田正吾が座長みたいなものである。 この系統の劇団に所属する演技者たちは、当然のことのように、ほとんど全員が舞台で女になる。 女になって芝居を演じ、そして踊る。女になることができなかったら、この世界では役者の資格が得られないのか、と思うほどである。 彼らの女装には、歌舞伎の舞台で成立している「女形」の伝統を超越した一種の倒錯味を感じる。女のエロティシズムをさらに誇張して、媚態を加えて表現しているよう思える。それでいて、下品なところがない。 つまり伝統的な「女形」よりも、リアルで美しい。コケティッシュである。 客席で見ていると、テルシよりも兄座長のシンゴのほうが目鼻立ちが整っていて、二枚目をやっても女形をやっても美しい。演技も達者である。 兄弟ともに背が高い。兄は典型的な美男子だが、テルシのほうは鉤鼻で顎がやや長く細い。しかも、しゃくれている。 癖のつよい意地の悪そうな役をやるとよく似合う人相である。女形の化粧をしていても、段のついた鉤鼻や、しゃくれてとがった顎はなおらない。一見、親しみが感じられない顔なのだ。 それなのに客席から直接舞台へさしのべられるハナ(祝儀)の数が、美男子で愛嬌をふりまく兄よりも多いことがある。 そういう人気は、やはり、テルシだけが持っていて他の役者にはない退廃味を秘めたエロティシズムに、客は無意識のうち魅了され、心をひかれているせいではないかと思うのだ。 「送り出し」のときでも、テルシは他の役者たちより、いつも二、三歩下がった位置に静かに立っている。笑顔をうかべたり、愛嬌をふりまいたりはしない。 かといってお高くとまっているわけではなく、むしろ気弱な、臆病な人間のようにひかえめなそぶりである。 舞台の上に座員たちが素のままで並んで口上、つまりあいさつをのべるシーンがある。兄座長は愛嬌たっぷりによくしゃべるが、弟はやはりひかえめな位置にいて口をきくことがすくない。芝居のセリフ以外はしゃべりたくないといった感じで、無愛想といえば無愛想である。座長としての責任を放棄しているように見える。 ところが……、ところがである。 役に扮したときの彼は、がらりと変わって大胆になる。 私にとって忘れられないシーンがある。その一つ。 この一座ではラストに舞踊ショーというものを演じる。よく知られている演目のクライマックスだけを踊りながら演じて観客へのサービスとする。 一年ほど前(いや、もう二年前になるか)「天保水滸伝」の平手造酒をテルシがやった。当然、講談や浪曲でやる笹川・飯岡の利根川べりの対決で「平手の最期」の場である。 千葉周作道場の逸材として嘱望されながら、酒のために身を持ちくずし、やくざの用心棒となり果て、さらに重い労咳に病み衰えた平手造酒が、恩義ある笹川繁蔵のために闘って最期をとげるという悲愴なシーンである。 月代(さかやき)をのばし、尾羽うち枯らした浪人の着流し姿に、鉤鼻で、頬骨のとがった長身のテルシはよく似合う。 飯岡方の数名の子分を手際よく斬り倒し(この一座はチャンバラがうまい)、激しく咳こみながらいったん下手へ引っ込んだ平手が再び舞台に現われる。 長脇差をかまえた飯岡方のやくざ共がいっせいに取り囲む。 病身の平手はすでに疲れ、もう闘う力がない。 と見た兄座長扮する親分飯岡助五郎が舞台上手の土堤の上から出てくる。そして、剣豪平手造酒と最後の対決の形になる。 ところが、助五郎親分は、とつぜん兄座長シンゴの顔になって言ったのだ。 「あ、やるぞ、やるぞ、気をつけろ、衣装よごすぞ!」 顔だけでなく、声も口調も、素にもどっているのだ。そして彼は、大刀をかまえて迫ってくる弟座長の平手の前から、おびえたようにあとずさりした。 その瞬間、私は察した。 読者の方々には信じてもらえないことだろうが、このあと起こるであろう舞台の上のやりとりを、すべて私は察した。 そして、私が察したとおりに、舞台は展開した。 いったん下手へ身を隠したとき、テルシは赤い液体つまり血糊を口いっぱいにふくみ、そして再び登場したのだ。平手造酒の頬っぺたは、あきらかに丸くふくらんでいた。 「吹くぞ、吹くぞ、気をつけろ!」 飯岡助五郎いや、兄座長は、セリフから離れてそう言った。言いながら、斬りかかろうとしている子分たちを、手で制して平手から遠ざけた。 さらに兄座長は、弟座長にむかい、片手のてのひらを横にふって笑いながら、 「やめろよ、おい、やめろ」 と言った。それにこたえて弟座長もちょっと笑いながら、首を横にふった。いたずらっぽい表情だった。そうなのだ、テルシにとって、これは一種のいたずらなのだ。いたずらではあるが、いかにも「平手の最期」らしい、いい芝居になる。 さすらいの剣士・平手造酒は、ここで博徒の親分助五郎に斬られて死ぬのだ。平手は重い労咳(肺病)なので、大勢の敵と闘い、疲れ、最後に斬られ、数本の竹槍に全身を突かれて、血を喀きながら死ぬのだ。 その瞬間に、口にふくんでいた血糊をガバッと派手に吐き出せば、迫力のある「かっこいい芝居」になるのだ。お客はアッと声をあげ、思わず拍手してしまう。 だが、この一座では、そこまでリアルにやる必要はないのだ。ゲホゲホと苦しそうな咳を出し、胸をかきむしって血を吐く演技をすれば、それですむのだ。 この系統に所属する一座は、毎月毎回、狂言も舞踊も変えねばならないのだ。「平手の最期」の舞踊ショーは、この町ではもう二度とできない演目なのだ。 血糊を吐けば、まず衣装がよごれる。洗濯して乾かさねばならない。手間がかかる。 それよりも、血糊を吐き散らすと、舞台がよごれる。 衣装のよごれは洗濯すれば落ちるが、舞台が赤い血糊で染まると、あとの始末がたいへんだ。 赤い粘液物はぬぐったあとも、シミがのこる。衣装は役者のものだが、舞台は小屋主のものだ。よごされることを小屋主は嫌う。もとどおりにするのは洗濯よりも手間がかかりそうだ。 そういうことを、むろんテルシも承知しているはずである。知っていても、テルシはやりたかったのだ。 そして、やった。 兄座長は赤い飛沫が自分の体にかからないように、うしろへ飛びのいた。飛びのきながら平手造酒を横なぐりに斬った。 平手は苦痛に悶え、気持ちよさそうに断末魔の声をあげ、見栄を切って幕となった。 そうなのだ。 舞台で死ぬのは、特に、殺されるのは、気持ちがいいのだ。必要以上に、演技以上に悶えたくなるのだ。この欲望は、じつは性的衝動に似ているのだ。私も経験があるのだ。 だからテルシの気持ちが、よくわかるのだ。いったん舞台から引っ込んで、用意しいていた血糊を口にふくむ、そのときからもう、吐き出す瞬間が目の前にうかび、ある種の陶酔感に襲われるのだ。 その陶酔感が、私にも伝わってくる。そして、言ってしまえば、この感覚は落花さんにも伝わっているのだ。伝わっているからこそ、テルシという役者の存在に興味をもち、この一座の芝居に流れているデカダンスに共鳴するのだ。 さらにいうと、いわば楽屋落ちともいうべき部分まで隠さずに、芝居の中に組み込むこの一座のしたたかさに私は驚愕し、親密感を抱いてしまう。 「平手の最期」はせいぜい十五分間程度の舞踊ショーだが、この一座がやる芝居に「田原坂(たばるざか)」という演目がある。 世に知られた西南の役での激戦を劇化したものだが、登場人物がつぎからつぎへと切腹して果てるという凄絶なシーンがあり、落花さんの印象に強くのこっている演目の一つだと思われる。 その芝居をいまここに紹介すると、長くなってますますこの回のテーマから外れてしまうので、チャンスをみて後述することにする。 その「平手の最期」も、もっと手短かに要領よく書くつもりだったのだが、つい長くなってしまった。長くなったが、この一座の不思議な退廃味の魅力について、まだ半分も書けていないような気がする。 テルシの口からガンだと告げられ、衝撃をうけた私が、なぜ「白蘭」という喫茶店へ落花さんを誘ったのか。 そのことを書くはずだったのだが、途中で横道に外れてしまった。 いつも前を通るだけで、落花さんが、 「あの店に興味がある、入ってみたい」 と言っても、首を横にふって応じなかった私が、テルシの病気を聞いたあとで、なぜあの古い木の階段を上がる気になったのか、じつをいうと私にもよくわからないのだ。 書いているうちに何かわかるのではないかと思い、こうして書いているのだ。 いや待て。わかないことはない。ごまかしてはいけない。わかっているのだ。 朽ちかけた古い喫茶店の中を書くことも、テルシのことを書くことも、すべては、落花さんのことを書こう、書かねばならぬと思う意志からなのだ。 そして、落花さんのことを書こうとしている私は、結局、自分のことを書こうとしているのだ。私自身の生の記録を。 (つづく)
(つづく)