2013.4.25
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第二百十二回

 幻影の街で


 落花さんと二人で、幻影の街へ行った。
「幻影の街」などという表現は、いかにも俗っぽく、ありきたりで、芸もないが、ほかに適当な言葉がみつからない。
「きょうはこれから約四時間、あなたと一緒に或る場所へ行く。四時間たったら、おうちへ帰してあげる」
 と私は、豪華な改築を終えて新しく開場してにぎわう歌舞伎座の前で、落花さんに言ったのだ。
「四時間?」
 と答えて、彼女は私の顔を見た。
 あとは何も聞かない。
「?」という顔を一瞬したが、不安の表情ではない。
 幕見席を取るための観客の列に、私と落花さんは並んでいた。
「幻影の街」といっても、私は歌舞伎の舞台をイメージしていたわけではない。
 劇場の案内係が小さな計数器を握って、並んでいる客の数をかぞえていた。
「入れますか?」
 と私は、その黒いスーツを着た若者にきいた。
「入れます、ただし、立ち見になります。椅子席にはもう座れません」
 と、この劇場で働く人間の雰囲気をまだ身につけていない青年は、素朴に、ややぶっきら棒に答えた。
「弁天娘女男白浪」(べんてんむすめめおのしらなみ)を、一幕見で見る客の行列だった。菊五郎の弁天、左団次の南郷、吉右衛門の日本駄右衛門。浜松屋から滑川土橋の場まで。二千円。
 だが私は、芝居を見るために並んだわけではなかった。この日、見るつもりは全くなかった。ただ幕見の客のふりをしてみただけである。
 そんな私の気まぐれにつきあって、落花さんも黙って一緒に並んでいたのだ。
 舞台を見るにはあと一時間余も並んでいなければならない。いまの時間は第一部の吉右衛門の「熊谷陣屋」をやっているはずだった。(いまごろは弥陀六の後半の出のあたりだろうか)
 私がそのまま並んでいたら、彼女も一緒に黙って立っているつもりだったのだろうか。彼女にきいてみなければわからない。
 この日じつは、すでに私たちはかなり長い映画を一つ見終えていたのだ。やや疲れる映画だった。
 私は休息するつもりもあって、幕見の客の列に並んだだけであった。だから十分間ほどで列から離れた。
 正面玄関のわきに、新しくできた地下二階へおりるエスカレーターがあり、それへ乗った。
 歌舞伎座のロビーにそのまま直結しているような華やかな色彩の提灯を吊り下げたみやげもの店が並び、大声で客を招いている。
「へえ、こいつはにぎやかになったもんだ、おどろいたな」
 思わず感嘆した。みやげもの店の間を通りぬけると、メトロの東銀座駅へ出た。
 改札口からさらにエスカレーターで数メートル深い地下のプラットホームへおり、電車を乗りついで私は落花さんを連れ、幻影の街へ行ったのだ。
 この日私は横溝正史が一九二八年に書いたという子供向きの「探偵小説」を読んでいて、頭がすこしおかしくなっていた。
 それは「横溝正史探偵小説選」という定価三千二百円もする大型の五百七十ページもあるがっちりした分厚い本で、重いのでリュックの中に入れて私は読んでいたのだ。
 その中の「渦巻く濃霧」という小説を読んでいるうちに、曲馬団マニアの私は頭がおかしくなった。
 一九二八年といえば、私が生まれる二年前である。つまり、いまから八十数年前だ。
 大正から昭和に移って間もなく、世情は大正ロマン、いや大正エログロナンセンスの風潮にまだ色濃くおおわれていた時代である。
 子供たちの脳の世界に、あのおどろおどろしくも甘美な色彩に充ちた曲馬団伝説が、生き生きと呼吸していた。
 権力者の顔色をうかがいながら生きてきた男と女が、ようやく自由な生命力を得て、ときには毒々しい泥絵の具をぬりたくり、退廃とエロティシズムの匂いを放って街に踊り出た時代だ。
 招魂祭ににぎわう九段の靖国神社の境内で天幕を張って興業するその名も昭和曲馬団。
 そこには誘拐され、あるいは売られてきた少年少女たちが、片目の虎という金ピカの洋服を着た親方に、幾人もの血を吸った長い革の鞭で叩かれながら芸を仕込まれている。
 雨と風の激しい夜、天幕を脱走した少年少女たちは、九段の坂を下りたところで捕まり、恐ろしいお仕置きをうける。
「憐れな逃亡者はほとんど真裸にされて、土の上に投げ出されるのだ。団長の片目の虎が地獄の鬼のように突っ立っている。革の鞭がヒューと空気を鳴らして飛ぶ。そのたびに逃亡者はヒイヒイと瀕死の病人のような悲鳴をあげる。その体の胸といわず、背中といわず、一面に蚯蚓張れがして、所々の皮が破れ、柘榴のように肉がわれている。
『おい、皆の者』
 親方はみえない方の真白な眼を、ぎらぎらと光らせながら、心地よさそうに笑いながらいうのである。
『これが逃亡者の制裁だ。よく見ておけ』」
 いまだからおもしろおかしく、ときには懐古趣味も交えて、
「そういえば、むかし、そういう曲馬団の噂があったなあ」
 などというが、私が子供のころは、伝説でも架空の物語でもなく、曲馬団は旅から旅の先々で、少年少女をさらっては芸人に仕込むという話があった。私たちは、半分は信じていた。
「八ツ墓村」の横溝正史先生だって、一九二八年には、まじめにこういう少年少女向きの曲馬団小説を書いていたのだ。
 不二雄と三千男は手を取り合って恐ろしい天幕小屋から逃げる。追ってくる曲馬団の乾分ども。
 二人の少年は必死になって逃亡し、街の中の露地の奥へかくれひそむ。背中に声がした。
「おい、この中じゃなかろうか」
「そうかも知れねえぞ。たった今まだ見えていたのに、急に見えなくなったじゃねえか」私と落花さんが電車をおりた幻影の街の中に、ゆでた豆を売っている小さな店があった。古い木造の店構えで、ふかしたさつまいもも売っていた。奥は暗くて何も見えない。
 その店で私は、ゆでたえんどう豆を買った。塩ゆでした豆の味を、私はしっかりおぼえていた。
 赤えんどうが一袋百二十円。
 黒えんどうが一袋百円。
 両方とも透明なビニールの袋ではなく、古新聞紙で作った袋だった。
 豆屋の主人は無愛想な五十男で、曲馬団の団長のような顔をしていた。
 赤えんどうの袋を落花さんの手に渡し、私は黒えんどうの袋を、背負っているバッグの中に入れた。
「あら、ありがとう」
 と、落花さんが言った。また歩いた。
 古本屋があった。入口はせまいくせに、店の中は細く長く、どこまで行っても突き当りのないような古本屋だった。
 私は店先に並んでいた古雑誌を二冊買った。それから十字路を左に曲がった。落花さんと一緒にこの街へは過去に何度か来ていて、夜になると黒いスーツを着た男が三三五五、道の角に立つことを私は知っている。
 私はいつも落花さんと一緒なので男たちは私を誘わないが、一人だったらぜったいに声をかけてくるだろう。
 つぎに右へ曲がり、さらにこの街の奥へ入った。はじめている景色になった。建物のたたずまいはますます古く、軒の低い煤けた商店や酒場が不揃いに並ぶ、黒くて湿っぽい空気が澱む一角だった。
 細い路地があった。路地の奥に見える看板を確めて、私はそこへ足を踏み入れた。
 横溝正史の時代では露地と書き、私も以前は路次と書いていたが、いまは路地と書く。
 私が先に立って歩き、落花さんがあとにつづいた。二人並んでは通れないせまさである。自分たちいま、なんだかすごい冒険をしているのではないか、と思った。
 もしかしたら、この路地の奥まであの曲馬団の乾分たちが追ってくるかもしれない。私は足を早めた。
 路地の右側には何かの建物の裏口らしいドアが殺風景に並び、左側にはざらざらしたコンクリートの高い灰色の塀がつづいていた。
 十五メートルも奥へすすむと、突然、私のめざした建物の入り口が目の前にひらけ、せまいロビーがあった。
 誘い込まれるようにしてそこへ入った。落花さんも後につづいた。
 窓口があり、中をのぞきこんだが、だれもいない。閑散としている。窓口のすぐ横の壁に、各部屋の寝室を映したハガキ大のスライドが十幾つか並んでいる。
 その中の三、四室に照明がついていた。あかりのついている部屋はあいているというしるしなのだ。その下に一時間いくらという表示がある。
 四階の部屋のスライド写真を指先で押すと、あかりが消えた。
 もう一度窓口へ顔を寄せて中へ声をかけたが、人の気配がない。これまでの経験だと、その窓口の向こう側にいる人の手から、部屋のキイを渡されるのだ。
 だが、人もキイも出てこない。代わりに、いまあかりの消えたスライド写真の下側から、するするとうすい紙片が出てきた。
 その紙片を取って見ると、
「いらっしゃいませ。お客さまのお部屋は、四〇二号室です。ごゆっくりとおくつろぎください」
 と印刷されている。びっくりした。要するに、人と顔を合わさなくても、無言のままで目的の部屋へ入室できるのだ。
 ロビイから五、六歩奥へすすむと、小さなエレベーターがあった。
 四階でおりて、部屋を探すと、四〇二号室のドアの上のあかりがピコピコ点滅している。
「このへんの感じは、いままでと同じだな」
 と、私はつぶやいた。ドアはすでにあいていた。
 またびっくりした。ドアをあけると、目と鼻の先の正面の壁に、室代自動支払機が備え付けてあり、用をすませてこの部屋を出るときに、その機械の中に金を入れる仕掛けになっているのだ。
「出るときにここへお金を入れなかったらどうなるんだろう?」
 と私はつぶやいた。
「ドアがあかないんじゃないかしら」
 と、落花さんが言った。
「金がなかったら、この部屋の中へ閉じ込められてしまうのか、こわいな」
 と私は言った。
「きょうはあと四時間だけ、おれとつき合ってくれないかな」
 と、歌舞伎座の前で落花さんに言ったことを私は思い出した。四時間のうち、一時間はもう経過していた。
「このへんに逃げ込んだにちげえねえ」
 曲馬団の乾分どもが、まだどこかでわめいている。

つづく

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