「變態演劇雑考」と「ナナ」
黒田明様。 「變態文獻叢書・第八巻」の畑耕一著「變態演劇雑考(全)」および貴社発行の小田光雄氏訳の「ナナ」をお送りくださいまして、ありがとうございました。 昭和三年九月発行の「變態演劇雑考」はめずらしい御本で、これはさぞかし高価だったと思われます。拝読後、かならず返却いたします。しばらくの間、お貸しください。 大正から昭和の年代に移り変わって間もなく刊行されたこの古めかしい百ページ袋綴じで、しかも麻紐による和綴じの本は、東京市牛込區西五軒町三十四番地の「文藝資料研究會」を発行所としており、発行兼印刷人の名義は、同じ住所の福山福太郎、そして印刷所も同じく牛込區西五軒町三十四番地の福山印刷所となっております。 私見ですが、このきわめて小規模の出版形態は、のちの伊藤敬次郎(竹酔)が主催経営する「粹古堂」(文京区丸山福山町十三番地)などに踏襲されているように思われます。 つまり昭和三十年代初期の頃まで存続した小さな出版社「粹古堂」の仕事ぶりなどが、この「文藝資料研究會」のやり方を、そのまま真似しているような気がします。 要するに、権力者の弾圧の目を窺いながら、性的な匂いの濃い内容のものを出版するときの姿勢の一つです。 戦後「奇譚クラブ」「裏窓」につづいてアブノーマルを主体とする「風俗奇譚」が創刊されたとき、この月刊誌の発行所の名称が「風俗資料刊行会」となっておりました。 当時この新雑誌「風俗奇譚」を手にした「あまとりあ社」の社長が、 「こういう雑誌を出す出版元は、みんな似たような名前をつけるんだな。前にも文芸資料研究会というのがあったよ」 と、嘆くように言っていました。このとき私は「あまとりあ社」の社長のすぐ目の前にいたのでよく覚えています。 ご存知でしょうが「あまとりあ社」の社長は、また「久保書店」の社長の久保藤吉氏です。そして「裏窓」の版元は久保書店です。 「あまとりあ社」と「久保書店」は同じ社屋の中にありました。もっといえば、両社の編集部の机は同じ部屋の中に並んでいました。 「風俗奇譚」を創刊した高倉一氏は、久保藤吉氏よりすこし若い年齢でしたが、たしか大正生まれのはずです。この種の出版では先輩格ともいえる「文藝資料研究會」の名称は、高倉一氏の意識の中に陶然強くあったと思われます。 私は久保藤吉氏や高倉一氏よりさらに若い世代なので、この種の出版物に隠然たる光沢を放って存在していた「文藝資料研究會」という名称を、それほど身近には感じていませんでした。 粹古堂的営業を継いでいると思われる出版社がべつにあって、そこの社主とすこしばかりの接触が、若いときの私にありました。たしか「坂本篤」というようなお名前だったと記憶しています。 粹古堂主人と私との関係は、河出文庫の「『奇譚クラブ』とその周辺」の中に「飛鳥山の竹酔」という項目をつけて書いておきました。 これはつい先日のことですが、所用があって風俗資料館の中原館長と、北区王子にあるその飛鳥山へのぼりました。粹古堂主人である伊藤竹酔さんのお宅へ、いまは亡き美濃村晃と一緒に何度かお邪魔に上がったときのことを、飛鳥山を下る道で思い出しておりました。どてら姿の竹酔さんとお会いしたのは、ついこの間のように思えるのに、数えてみるともう五十年以上もむかしの話になります。 そのときの竹酔さんから頂いた「責め写真」の何点かが、いまでも風俗資料館の中に保管されてあります。印刷されたものではなく、ナマの写真です。 このたび黒田さんから送って頂いた「變態演劇雑考」は「文藝資料研究會」発行による「變態文献叢書・第八巻」となっております。当時としては大胆なこういう出版物を、第八巻まで刊行しているということだけでもたいへんな業績の証拠に思われます。 麻糸を使った和綴じの、なんとも表装からして怪しげなこの一冊は、やはり貴重なものだと思います。感触を両手に味わいながら、たいせつに読ませて頂きます。 もう一冊の御本、丹精こめて美しくていねいに作られた六百ページ、定価四千八百円もする重厚で豪華なエミール・ゾラの「ナナ」。原著からの魅力的な挿画が五十点以上も入っていて、こんな重量感のある立派な御本を、訳者であられる小田光雄氏から頂戴できるなんて、こんな幸甚なことはめったにありません。心底光栄に存じ、厚く御礼申し上げます。 むかし「裏窓」に連載小説を執筆中、新宿で見た映画「居酒屋」のラストシーンの、 「この少女がやがて成人して、あの女優ナナとなる」 という印象深いナレーションを思い出しました。あるいはこのフランス映画、美濃村晃と一緒に見たのかもしれません。当時、美濃村晃に誘われ、週に一度の割合いで渋谷新宿の映画館に入っていました。 その映画「居酒屋」を見た直後に、ダイジェスト版のようなものでこの文豪の小説を読み、内容はわかっているつもりでしたが、このたび頂戴したことを機に、じっくりと腰をすえて勉強させて頂きました。 改めてこれはきわめて細密で大胆、刺激的なリアリティをもった壮大な長編であることを実感いたしました。 まずはじめのほう、ベッドにだらしなく寝ているナナのシュミーズが落ち、むきだしになった腕の肉感的な匂いが、字句の行間からにじみ出してくるような描写に圧倒されました。 三島由紀夫は昭和十六年、十六歳のときにこの「ナナ」を読み、 「あの執拗さ、あの強さ、あのスピィド……日本の小説のどこにあの縮図があるのでしょう」 という手紙を書いたと本書の「あとがき」にありましたが、なるほど執拗で効果的なエロティシズムその他の克明な人間描写は、日本の小説にはあまり見られないものだと思いました。 部分的な真似はできても、あの濃密な温度を持った肉と脂と汗から発する粘液質臭気は、やはり日本人の体質からは生まれないような気がします。 じっくりと拝読してようやく御本の前半を越えましたが、これからさらにサディズム、マゾヒズム、フェチ、レズ、ロリコンなどの多彩な描写が、日本人の表現力にはない重厚なリアリズムをもって、豪華絢爛に、徹底した退廃美の中に展開していくのでしょう。その予感にぞくぞくする思いです。 各場面に登場する一八五〇年代のフランスの上流社会その他の各階層に生きてうごめく男と女の欲望に爛れた血と脂と肉が放つ臭気と妖しい色彩が、遠い島国に棲息する私たちにまでなまなましく迫ってきます。 やはり「ナナ」の国は、何事においても先進国であります。くらべて日本の退廃美なんて、場末の見世物小屋で演じられる小手先の芸程度のものです。とてもかなわない。 日本の官能退廃シーンなんて、あまりにも小さく貧しい。やることなすこと、すべて小粒のこけおどかしです。 愚かな権力者どもが崩壊し、不当に金儲けしたうす汚ない富裕層の人間たちが、性的に腐敗しつくしたときがこないと、日本は真の快楽を味わえる自由国とはなり得ないのではないでしょうか。 この小説は、そこまで飛躍して思わせるような強靭な力を持っているような気がします。 まだ全ページを拝読するに至っておりませんが、上等な、すばらしい刺激を頂戴いたしました。ありがとうございました。 小田光雄氏に心から御礼を申し上げます。 (つづく)
(つづく)