2007.11.21
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第二十二回

 「調教師」、そして昨日縛ったモデルのこと


 私は「縄師」などと呼ばれるのはいやだが、お色気系雑誌に「調教師」などと書かれるのは、もっといやだ。
 (私のきらいな「師」という字がここにもついている。くどいようだがもう一度書く。縄を握って欲情し、興奮しながら女を縛り、おのれの性器をひそかに勃起させるような仕事をしていて、なにが「師」か)
 さいわいなことに、私のことを「調教師」という人は、これまでのところ、私の知るかぎり、この業界ではいない。
 どのような種類の調教であれ、私は女性のことを「調教」したことなど、一度もない。そんな大それたことをした記憶は、これまでに一度もない。
 「縄が好き」という私と同嗜好の女性に対して、私はつねに、奉仕をするという精神で接してきた。調教する、などという思いあがった気持ちで女性を縛ったことなど一度もない。
 私が仕事で女性を縛るときには、その女性に対して「快楽のための奉仕」という気持ちと同時に、つねに、忸怩たる思いがある。
 じつは、きのうも私は撮影の現場で、一日じゅう、若い女の子を縛った。ドラマではなく、「緊縛」がメインの撮影だったので、縛っては解き、縛っては解きをくり返した。その女の子は、つらい仕事を、最後まで辛抱づよく、機嫌よく、私に縛られてくれた。
 彼女の白いなめらかな素肌は縄のあとだらけになり、目にはっきり見えないが、おそらくこまかい擦過傷が無数についていたにちがいない。
 撮影がすべて終了したとき、私は彼女に心から、
 「ありがとう、よくがんばってくれました」
 と礼をいい、頭を下げた。彼女はそれにこたえ、可愛らしい笑顔で、
 「ありがとうございました」
 と、私に礼をいった。そして、全裸のままでシャワー室へ入っていった。
 私は撮影が終わると、散乱している私の縄を手早くまとめてバッグのなかへ入れ、だれよりも早く、「お先に」といって現場から離れる。それは、間髪を入れず、という早さである。仕事を終えたあとのお茶一杯飲まない。
 そして、外に出てから、ホッとひと息つく。スタッフと一緒になってスタジオを出るということは、めったにない。
 一分一秒でもいいから、女を縛ってきた現場から、早く逃れたい。それは、きょうもまた、恥ずかしい仕事をしたという忸怩たる思いのためである。
 早く現場の空気のなかからぬけ出して、ちがう空気を吸いたいのだ。現場から去るときの私の気持ちは、いつも「逃走」である。
 だが……。
 私が、こんなことを書いてはいけないのだろう。
 こんな告白をしてはいけないのだろう。大勢の読者を、裏切ることになるのだろう。
 私は「緊縛」の話を、おもしろおかしく、煽情的に描写し、それを読者に提供しなければいけないのだろう。それが私、濡木痴夢男の役目ではなかったか。
 だが、恥ずかしながら、これが私の本心なのだ。五千人縛ってきても、忸怩たる思いから脱することができないのだ。私は五千回、忸怩たる思いをくり返してきたのだ。
 それをやめられないのは、もって生まれた性癖のためであり、欲望のためであり、つまりは、業(ごう)であり、そして女を縛ることによって、糊口をしのいできたからである。
 こんな私を、どうか「縄師」などと呼ばないでいただきたい。一般世間から誤解されやすい「調教師」などという言葉を、どうか安易に使わないでいただきたい。
 じつは私は一度だけだが、ある三十人ばかりの集会で、こんなふうに紹介されたことがある。
 「この人の本業は縄師でね、女と二人きりになると、すぐに調教してしまうんだ。どんな女でもそばに寄ると、たちまち調教されてしまうよ。こわい人だよ」
 もちろん酒の席であり、冗談なのだが、私は周囲から奇異の目でみられ、いたたまれなくなった。
 ついでだから書く。ある日私は、ある寄席の高座に出演することになった。私が出ると同時に、
 「待ってました、縄師!調教師!」
 と、客席から声がかかった。他の客はなんのことやらわからない。が、私は高座で立ちすくんだ。私は「縄師!」と声をかけられ、それを武器にするほどの芸人魂はない。
 私はそのとき和服で、羽織を着ていた。いわゆる「高座着」である。
 楽屋のなかで、中年の女の芸人がそばへ寄ってきて、私の姿をしげしげと眺め、羽織の紐に手を触れると、
 「いざという時、この紐で女の人を縛るんですか?」
 ときいた。冗談ではなく、真剣な顔だった。いざという時、とは、どんな時か。
 私は首を横にふり、逃げた。
 もう一つ書く。
 私の出演する高座のチラシに、私が扇子の代わりに太いロウソクを手に持って、裸の女の尻にロウ涙をたらしているマンガが描かれていた。
 いやな気持ちがした。だが、耐えた。チラシを作った人に、悪意はない。耐えるより仕方がない。
 私は、尻にロウ涙をたらされてよろこぶ女の人に対して、申しわけない、と思った。
 どれほどせつない、切実な思いで彼女たちが素肌にロウ涙をうけているのか、私はそれを知っている。私は彼女たちを、笑いものにしたくない。
 私が高座に出なくなったのは、そのチラシ以後である。
 私が舞台の上で縄を握ったり、ロウソクを持ったりしたら、それをチラシに描かれたとしても、仕方がないと思う。
 しかし私は、一般世間の人の前では、ぜったいに、そのようなことはしない。それは「SM」そのものを侮辱することになるからだ。
 私は「SM」を、笑いものにしたくない。軽いショーなどにしたくない。「SM」と、まじめに関わり合っている人々を、笑いものにしたくないのだ。
 (だけど、「SM」ほど、世間一般の人にとって、笑いものにしやすく、軽蔑しやすいものはないのだ。そしてまた「SM」ほど、笑いものにしたくなる、軽蔑したくなるものはないのだ)

 だが、ここまで書いてきて、私はすこし気が変わった。私は今回は世間一般から誤解されやすい「調教」とか、「調教師」とかいう言葉を、安易に、ときには得意げに、軽々しく使っている人々に対して、私の考えを率直にのべてみようと思っていたのだ。
 この世界で長いあいだ食べさせてもらってきた私の、これも一つの義務ではないか、という考えもあったのだ。
 だが、やめた。批判することをやめた。
 自分がしていることを本当に「調教」だと信じ、それをおもしろおかしく「どうだ、凄いだろう」と宣伝して、それを商売にしている人が、いてもいいじゃないか、と思いはじめている。
 「調教師の凄さ」を、いくら彼らが、どうだ、凄いだろう、と宣伝したところで、その細部をわかりやすく具体的に示してもらわなければ、人々は信じてくれないだろう(じつはマニアも信じない)。
 信じようが信じまいがかまわない。とにかくこれが調教なのだ、と主張する人が存在する。存在してもいいではないか、と私は思ったのだ。私ごとき者が、端でゴチャゴチャよけいなことを言う必要があるだろうか、と気がついたのだ。

 そんなことよりも、いまの私には、ほかに言いたいことがある。
 それは、この回のはじめのほうに書いた、きのうの撮影のモデルをやってくれた女の子のことだ。それを書いたほうが「調教師」の悪口を読ませられるよりも、読者には興味のあることに違いない。
 性格のいい女の子だった。仮りに名前を、Kとしておこう。不自然なきびしいポーズを好むカメラマンのモデルとして、不平不満をいわず、従順に、本当によくやってくれた。縄で後ろ手に縛られたまま、非日常的な、アクロバットポーズの連続だった。
 彼女の体は、何度か宙に浮いた。若い肌のあちこちに縄がむごたらしく食いこんだ。そしてさらに、例によって、股間なぶり、性器凌辱の連続。
 大股びらきのまま逆さに吊り上げ(つまりお尻を上に、頭を下に)、同時にバイブを股間にねじこみ、スイッチを入れるという曲芸的な責め。
 あきらかに責めている形なのだから、これは「SM」にちがいないのだろう。だれが見たって残酷性はある。無残きわまる非道な女体責めである。
 だが、「SM」エロティシズムがなぜか私には感じられないのだ。腹の肉に巻かれた縄が全身の重量を支えているのだが、その縄はぎりぎりと食いこみ、モデルのKは苦痛に耐えている。うめき声が彼女の口からもれる。
 私は思う。この苦痛は彼女の快楽になっているのだろうか、と。
 吊り下げられている彼女のすぐそばで観察している私の目には、いまの彼女にとても快楽があるとは思えない。あるのは苦痛だけだろう。
 彼女の股間の奥深いところまでねじこまれている男根型バイブが、いかに効果的な震動をつづけていようと、その太い偽陰茎のねもとに付着しているクリトリスを刺激するための筆の先端のような触角が、どのように巧妙にふるえてその部分を愛撫しようとも、いまの彼女にあるのは、苦痛だけだろうと思う。
 私は彼女の表情を、注意ぶかくみつめている。苦痛が限度をこえたら、私はただちに彼女の宙吊りを解き、下におろさなければならない。
 彼女をこのような形に吊り上げろ、と命令したのはカメラマンだが、縄を持ってその命令を実行したのは、私である。彼女に万一のことがあった場合、私は実行犯ということになるのだろう。
 彼女は低いうめき声を発しながら、長い苦痛の時間を耐えぬいた。耐えなければギャラはもらえない。
 カメラマンはさらに激しい「責め」を彼女に加えた。これも、それを実行したのは若い編集者である。
 後ろ手に縛り、M字型開脚縛りにしたモデルK(ここまでの縄による作業は私がやった)の大陰唇を、編集者は指でつまんで左右を閉じ合わせ、その柔肉を割り箸を使ってタテにはさんだ。
 そして、大陰唇の上部に位置するクリトリスを露出させた。冴えたピンク色の小さな肉片は、割り箸に強くはさまれた形で、ピョコンと突起した。
 割り箸の両端は輪ゴムでしっかりとめてある。はさまれてむき出されたクリトリスは、内側の透明な肉色までみせて光った。
 カメラマンはさらに命令を加え、編集者はその命令に忠実に従って(というより嬉々とした動作で)むきだしたクリトリスに、赤いロウソクのロウ涙をしたたらせた。
 (あんなに小さな可憐な形の肉片に、熱いロウ涙を落とされて、やけどしないものだろうか。熱くないのだろうか)
 その種の行為の経験のない私は、ふしぎでたまらなかったが、編集者は自信たっぷり(かどうかはわからないが、とにかく黙々としてすこしもためらわず)に、赤いロウ涙をクリトリスに落としつづけ、カメラマンは夢中でシャッターを押しまくった。
 そんな「責め」をうけても、モデルのKは、ギャーッとも叫ばず、ただうめき声をあげるだけで耐えている。
 私がもしスパイで敵側につかまって、自白を強要され、陰茎の先に熱いロウ涙を落とされたら、たちまち悲鳴をあげて泣き叫び、味方の秘密でもなんでもしゃべってしまう。
 モデルのKの忍耐力の強さは、ただもう「凄い」というより他はない。
 それとも、こういう「責め」をうけることに、彼女は心のなかでは、ひそかに快楽を感じているのだろうか、とも思って、ずいぶん注意ぶかく観察していたのだが、そういう気配はない。
 (快楽の気配があったら、私はどんなにうれしいだろう、そして興奮するだろう)
 単純に、我慢づよいとしか言いようのない彼女の表情である。肉体そのものが我慢づよく、性格も忍耐づよいのであろう。
 彼女への「責め」は実際はもっと激しく、もっと淫らに、長い時間をかけて行われたのだが、それは省略しよう。
 私がここで言いたいのは、もし彼女の心身にマゾ的な感覚があったら、どこかでM的な快楽を感じてくれて、あの魅惑的なM女の陶酔の表情を私にみせてくれるはずではなかったか、ということである。
 しかし、彼女の表情や肉体の反応からは、私の期待するMオーラは最後まで感じられなかった。
 彼女が反応してくれたのは、股間に男根型バイブレーターをねじこまれ、スイッチを入れられたときだけだった。
 このときの彼女の表情は、ぽってりしたやや肉厚の唇を丸くひらき、
 「ア、ア、ア、アアーン……」
 という、甘くせつない可愛らしい声を喉のおくから出し、白い下腹の肉をひくひくとふるわせ、まことにエロティックであった。つまり彼女は、性器への刺激に快楽を感じるノーマルな女の子であった。
 肉体に加わる「責め」に対しての忍耐力は人一倍あっても、それが快楽には結びつかない。苦痛は苦痛としか感じられない。
 しかし性器には快楽を感じるというのは、あたりまえの女の子であり、多数派である、という証拠である。多数派は「正常」と呼ばれて、まことに結構なことである。多数派には、セックスの対象になる男性が多数いるから、結構なことである。
 少数派は、相手がすくない。なにしろ、少数派である。だから、欲求不満になる。
 や?
 私は、なにを言おうとしているのだ?
 そうだ、きのう撮影を終えて、スタッフと別れて一人でスタジオを出て、
 (きょうのモデルのKは、とてもいい性格で、最後まで明かるく機嫌よく元気に、過酷な責めに耐えてくれて、撮影はやりやすかった。だけど、結局、Mではなかったなあ。いいSMモデルではあったが、ついに最後まで、Mオーラは出なかったなあ……)
 首をひねりながら私はつぶやいた。
 その思いが、なぜかきょうまで残り、ひきずっていることを書こうとしたのだ。Kのような、すばらしい上質のSMモデルに対して、私は、
 「がんばってくれて、ありがとう」
 と頭をさげ、心から礼を言い、苦労をねぎらう。感謝する。だが、スタジオを出ると同時に、縛り係の私とは、無縁の女の子になってしまう。
 しかし、撮影の現場にきて私に縛られると、全身からMオーラを出して反応してくれるモデル嬢もいる。私は当然、気合をこめてその女性を縛る。そういう女性の緊縛写真は、ホンモノの情感があって、ホンモノのマニア読者をよろこばせる。ホンモノはすくない。
 撮影の現場で私はひそかに、これはホンモノのいい緊縛写真になるぞ、と心をはずませる。
 終わってから私は、
 「ありがとう、楽しかったよ。また会いたいね。そして、ゆっくりお話したいね」
 といって、親愛の情をついむき出しにして、そのマニア女性を抱きしめてしまう。マニア女性の存在は、仕事が終わってからも私の心にのこる。仕事が終わってからこみあげてくる彼女たちのさびしい気持ちを、私は知っている。私はいたわらずにはいられない。

 割り箸を使って大陰唇をタテにはさみ、貝の肉のようにむきだしたクリトリスの上に、赤いロウ涙をたらしたきのうの撮影の、その映像作品は、お金さえ出せば、どなたでも観賞することができます。
 縛り係は全編を通じて私、つまり濡木痴夢男ですが、カメラマンの命令で、というよりはカメラマンの好みで、アクロバット的な極端なポーズが多かったように思います(あとの編集で多少印象はちがってきますが)。
 私がこの文章のなかで紹介したシーンよりも、もっともっと凄い(凄いというのは無理やり手足をねじまげたような非日常的な、曲芸的な)ポーズがたくさんあります。
 私に言わせれば、本来の「緊縛写真」から離れた、非現実的な、縄つきアクロバット、曲芸ヌード写真です。そういうものをお好みの方には必見かもしれませんが、しっとりした情感のただよう、陰性のお色気に充ちた緊縛写真をお望みのマニアは、首を横にふるでしょう。
 過酷な宙吊りの連続からようやく下ろされて、全身の緊張感をホッと解いて、素(す)にもどったときのモデルKのポーズは、作って固めたものではない情感があって、よかったです。そのときに一瞬だけみえたMのオーラ。
 それを見た瞬間、私は思わず、
 「あ、いいなあ、これはぬける!」
 と、叫んでしまいました。空中アクロバット写真では、私はぬけません。
 きのうの撮影のモデルKは、本当にけなげで、可愛い、いい子でした。体もきれいでした。失神寸前まで、がんばってくれました。ですが、凄惨で痛々しい感じはあっても、私たちマニアが望む、被虐エロティシズムは乏しかったように思います。
 女の子を大股びらきに縛って固定して、股間をいじくりまわすことの嫌いな緊縛マニアの方には、あまりおすすめできません。いくら股間をいじくりまわしても、緊縛エロティシズムは生まれてこないからです。
 でも、文章でこのように股間責めを描写していると、なんだかそのシーンが、とてもおもしろく思えてくる。ふしぎですね。
 いえ、ふしぎではないのです。
 文章を読むということは、その場面に、自分の好きなイメージを、自由に参加させる効果があります。意識しなくても、自分のイメージで読んでしまいます。
 モデルKが凄惨に責められるこの映像をごらんになってから、もう一度、私のこの文章を読んでくださるとうれしいです。
 私がウソを書いていないということが、きっとおわかりいただけると思います。

つづく

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