私に「忠告」してくれた人たち
私はこれまで、いろいろな人から「忠告」をうけてきた。 「忠告」という言葉を、手もとの辞書でひくと、 「相手の悪いところを親切に説きいさめること。また、その言葉」 とある。 そうか、あの人たちは、私の「悪いところ」を、親切に説きいさめてくれていたのか。 その「親切」な人たちのことを、すこし書いてみる。 私に忠告してくれるのだから、相手の人は私より年上だった。私は若かった。 その人たちから私がいただいた「忠告」を要約すると、つぎのようになる。 「あんたねえ、いつまでもこんなSMなんかに関わり合っていちゃ、駄目だよ。あんた才能がある人なんだから、こんな世界から早くぬけ出さなくちゃあ……。いまやめないと、ほんとに駄目になっちゃうよ」 酒の席でいわれることが多かった。 相手は酔って、リラックスして、私を意見し、忠告してくれるのだ。 「クセになったら、ぬけられないよ。いまぬけないと、本物のマニアになっちゃうよ」 ともいわれた。 当時、私は、十数誌あったSM雑誌のほとんどの撮影に雇われ、一カ月に三十人のモデル女性を縛っていた。つまり、毎日のようにモデルを縛っていた。そのほかに、平均して、月に約二〇〇枚の原稿を書いていた。 そういう撮影の帰りに、編集者歴の長い人から誘われ、酒場へいき、そこで「忠告」をされるのだ。 編集者歴は長くても、SM雑誌の編集経験は、せいぜい二、三年の人である。SM雑誌の発行そのものの歴史が、まだ浅いころである。 「はあ、いまやめないと、駄目になりますか?」 といって私はうなずき、神妙に頭を下げた。酔っているときに、へたに反論すると、いつまでもからみつづける性格の人だった。 「そうだよ、駄目になる。ノーマルな社会生活ができなくなる」 撮影現場における「縛り係」として、同時に小説や読み物を書く作家として、私はこの人ともう二年間もつきあっているのに、この人は私のことが全くわかっていない。そして、SMのことを理解していない、と私は思った。 「それじゃ、Aさんは、いまの会社が楽しくないの?」 と私はきいた。その人の名を、仮にAとしておく。 「まあ、おれは女が好きだから、撮影のときに女の裸がたっぷり見られるのは楽しいけれどね」 とAはいって、このときはうれしそうに目を細めた。悪い人ではない、と私は思った。正直な人だ。しかし、この人とは仲良くなれない、と思った。 いまのうちにSMから手を引かないと、そのうちにホンモノになってしまうぞ、という「忠告」は、私が三十歳後半から四十歳を過ぎるころまで、三、四人からいただいている。親切心を顔に表わして真剣に言ってくれた人もいるので、私はよく覚えている。 それらの人たちは、すべて「SM雑誌」とか「SMビデオ」の関係者、つまり作り手であった。 作り手がこんなことを言っていてはしょうがないなあ、と思いながらも、私は、 「ええ……」 と返事した。さすがに高齢になったいまの私にむかって、そんなことを言う人はいない。SMそのものも、時代の流れとでもいうのか、妙な形で、フツーの社会常識のなかにまぎれこんできて、異端性を失いつつある。 だれかさんの言によると、 「いまやSMは市民権を得た」 ということになる。市民権を得たSMなど、SMではない。私は「少数派」という言葉をよく使うが、少数派には、劣等意識とは裏腹に、ひそかに「誇り」があるのだ。どんな権力者にも負けない「自尊心」があるのだ。 しかし、おかげさまで、いまはもう若い人にむかって、 「SM雑誌なんかやっていると、本物のマニアになるぞ」 などと「忠告」をいう人もいなければ、言われる人もいないだろう。 (言われるような人がいないとさびしいのだが……) 「忠告」の必要もない位に、「SM」は堕落してしまいました。右をみても左をみても、堕落したように見えますけど、でもまた、そのうちに、じわじわと這い上がってくるような気がしますよ。SMの生命力は強靭なのです。なにしろ人間の性、そして生そのものですから。 やはり若いころ、あるSM雑誌の編集部へ、私は四十枚ほどの原稿を持っていった。 編集長はすぐに私の原稿を机の上にひろげて読んでくれた。そして「忠告」をしてくれた。 「あんた、この原稿、これは何かね。こんなむずかしい字を使ったって、いまどきの読者は読んでくれないよ」 そういうとその編集長は、私の書いたSM小説のなかの「縄」という字を、すべて鉛筆で「ナワ」と書きなおした。むずかしい字というのは「縄」のことである。 私が書く小説である。「縄」はたくさん出てくる。彼は私の見ている前で、それを一つ一つ、ていねいに「ナワ」と書きなおした。 それは、私へのいやみだったかも知れない。その数日前、私はこの編集長に、「奇譚クラブ」の編集長・吉田稔のマニア読者への接し方の誠実さを、いささか熱っぽく賞讃していたのだ。 「縄」を目の前で一つ一つ「ナワ」と変えられても、私は抗議せず、黙って耐えた。編集長の口調はヒステリックにきびしく、「忠告」というよりも「叱咤」という感じだった。 「縄」の字が一つ消されるたびに、私は胸にナイフが一回突き刺さるような痛みを感じた。このときに受けた屈辱を、私は一生忘れることはできない。 SMに対する侮辱だけではなく、これは日本語への侮辱だと、私は思った。 その編集長は、私の書いた「縄」を「ナワ」となおしただけでなく、「縛る」もすべて「しばる」と書きかえた。 「ナワでしばる」と印刷されては、緊縛小説としてのイメージは湧かない。 しかしこの原稿は活字となって、その雑誌の次号に掲載された。 飯田橋の風俗資料館に行って、三十数年前の雑誌の棚を探せば、私のその小説を読むことができるはずである。「縄」は「ナワ」になっている。そのときの私のペンネームも小説のタイトルも、残念ながら忘れてしまった。まだ「SMセレクト」も、「SMファン」も、「SMコレクター」も登場していなかった時代である。 その三十数年前の古い雑誌は…… いや、これはまずいぞ。 私がこういうふうに書くと、風俗資料館の館長である中原るつさんは、いまやっている仕事を放り出して、その三十数年前の、「縄」が「ナワ」になっている私の小説がのっている雑誌を探し出す行動に移るにちがいない(そういう性格なのだ!) それだと、困るのである。 なぜかというと、私はいま、彼女に、私がつぎに出す河出文庫の6冊目「緊縛・命あるかぎり」の「解説文」をお願いしているのだ。 そして、その「解説文」の文章が、もう一カ月もたつのに、まだできないのだ。つまり、遅れているのだ。 三十数年前の古い雑誌を探し出すのは、その「解説文」を書き終えてからにしていただきたい。 そんな古い話は、もうすんだことなので、本当をいうと、私にはどうでもいいのである。 わかりましたか、館長。 お願いしますよ、館長。 「解説文」早く書いてください。 あれッ? 私はなにを書いていたのだ。いつのまにか、また途中で、話が横道に外れてしまった。 そうだ、私が過去に、さまざまな「先輩」たちからうけた「忠告」のことを書いていたのだ。 そして、その「忠告」に従わなかった自分の運命について書き、さらにそこから、この回の文章の中程に出てくる、 「SMは市民権を得た」 と言った人のことを書くつもりでいたのだ。 つづけよう。 「あんたって人は、ほんとうにSMが好きなの?たしかに、嫌いではなさそうだねえ。でもまさか、マニアではないんだろう?いつまでもこんなことしていると、マニアになっちゃうよ」 と「忠告」されたことについて書いていたのだった。 そういう人々の語調には、もちろんマニアへの蔑視があった。すくなくともマニアに対して尊敬とか、親愛の気持ちは感じられなかった。 私は、なぜこんなに、他人から、そんな「忠告」をうけるのだろう? 考えたことがある。 当時の、あるSM雑誌の編集長が、しみじみと私の顔をみながら、 「あんたみたいに、明るくて、人づきあいがよくて、さっぱりしていて、考え方が健康で前向きで、なにごとにも歯切れのいい人間が、SMマニアであるはずがないよ」 といった。 私はいささかムッとして、 「それじゃ、マニアというのは、暗くて、じめじめしていて、考え方が後ろ向きで不健康で、歯切れの悪い人間なんですか?」 と、いい返した。すると、 「ウーン、まあ、全部が全部、そういう性格でもないんだろうけど、どことなく暗くて、陰気なイメージがあるなあ。なんとなく、ジトーッとした湿っぽいような共通点があるような気がするなあ」 そういえば「奇譚クラブ」の編集長の吉田稔が、私に、最初に言った言葉が、 「あなたの書くものには、底に明るさがあっていいんですよ。どことなく救いがある。雑誌の性格上、どうしても湿っぽく暗くなりがちなので、あなたの明るさは貴重です。たくさん書いてください。ペンネームを変えてくださることを納得してくれれば、いくらでも掲載しますよ」 というものであった。 一九五三年(昭和二十八年)。私、二十三歳のときである。私が十幾種類ものペンネームを使って、さまざまな嗜好を書くようになったきっかけは、「奇譚クラブ」編集長のこの言葉である。 私は一見明るくて(明るいのは一見だけである)、陽気で、女性への接し方も執着心みたいなものがなく、たとえば撮影が終わったあと、いつまでもモデルにべたべたしてないで、「さよなら」といって、さっさと引き上げてしまう。縛り係に雇われた当初からそうなのだ。そんなところが、マニアらしくないと思われたのだろうか。 私は浅草生まれの浅草育ちで、私の両親も浅草生まれの浅草育ちである。 野暮と坊主の頭は結ったことがない、とまではいかないが、父親から(こいつがまた私に輪をかけて軽薄な男なのだ)、 「この世の中には、野暮な男と粋な男の二種類ある。野暮な男には死んでもなるな」 と言われて育ってきた。 そのおかげで、きわめて調子のいい、移り気で軽薄な性格のまま、一生をすごしてきてしまった。軽薄だが、決して粋ではない。 正統的な学問がなく、人間に内容がないので、やたらにぺらぺらとしゃべって相手を煙に巻くのが得意である。だからこんな「おしゃべり芝居」は、いくらでも調子よく書ける。 私の書くSM小説には、重厚味とか、ねちっこさがない。淡白である。だから、あまりおもしろくない。自覚している。ストーリーでごまかしてきた。 待て。 また脱線してしまった。このへんが軽薄人間たるゆえんである。私は、私に、 「きみは、本当はマニアではないんだろう。いまのうちに足を洗え」 と「忠告」し、私のことを内心で侮蔑していた人たちのことを、もうすこし書き、それから、 「SMは市民権を得た」 と言った人のことを書くつもりだったのだ。だが、きょうはもう疲れた。 館長、「解説文」を早く書いてくださいよ。お願いしますよ。 (つづく) ★以下「みか鈴」さんからお寄せいただいたご感想を、ご本人の承諾を得て転載させていただきます。このご感想の中の表現に刺激されて「第二十四回」「第二十五回」へと話がふくらんでいきました。 みか鈴さんからのcomment 先生、美香には市民権を得ている方のSMは、SMの本質からずれたSMのように思うのです。 セックスの一形態としてのSMといいましょうか、アクセサリーとして縄や首輪などがありますが、その実体というのはセックスなのです。 どんなにハードな責めをしても、それがセックスであるのですから、美香の思ってるSMとは違うのです。 美香の思ってるSMは暗い死のイメージがあります。人間のいやらしさ、傲慢さを向きだしにされた、嫌な怖ろしい世界なのです。ですからこそ、負の世界であるSMにどっぷりと浸かるのは、美香は怖いのです。こういう世界に感じてしまう美香は、セーブしないと飛んでもない事をしでかすかもしれないのです。 こんなSMは、市民権は得られないし、市民権を得て大手を振ってこのようなSMが出来る社会は、暗黒な社会だと思います。 人をいたぶったり、苛めたりして喜ぶなんて最低の人間なのです。ですが、美香にはそういう事をしたりされたりする事に感じてしまう性癖を持ってるのです。喜んでる表情より、悲しんだり、苦しそうな表情にドキドキするのです。 でも厳密にいうと本当に悲しんだり、苦しそうだったりすると、怖いのです。ですからSの場合は、Mの表情を見て、悲しそうな表情や苦しそうな表情の中に喜びの表情があると安心するのです。いたぶって苛めているけどMの心までは犯してはいないと思う事が出来るのです。 美香はハードなプレイが駄目でソフトなプレイが良いとは思いません。ハードであろうがソフトであろうが、SMではないと感じるようなのは駄目なのです。痣が出来る程叩こうが、曲芸のような宙吊りをしようが駄目なSMはありますし、ハンカチ一個で簡単に括っていても感じるSMもあります。 苛めやいたぶりといった要素のないSMは面白くないし、苛めやいたぶりだけでMに対しての気遣いのないのは嫌いというよりか憎しみさえ覚えるのです。 監禁王子なんてのは最低なゲス野郎だと思うし、お馬鹿な人間と軽蔑しますが、そのような所に感じてしまう気分は判るのです。すくなくとも、セックスの一形態としてのSMよりは気分は監禁王子よりなのです。でも美香は、彼が嫌いですし、彼のようなSMならセックスの一形態としてのSMのほうがずうっとましだと思います。ですから「ごっこ」やお芝居にして、リアルではなくフィクションとしてSMと関わりたいと思うのです。 なにやら書き飛ばしてる内に訳が分からない内容になってしまいましたが、きっと先生なら判って頂けると思うのです。 SMの話を掘り下げると、表現するのに難しさを覚え、じれったい気分になります。 第二十一回の「『縄師』を名乗る気持ち」で紹介された、美濃村先生の言葉、 「忸怩たる思いと、怖れを抱き、羞恥心を持っていないと、縛る縄に色気が出ないよ」 って、ホント良い言葉ですわね。 なんだか美香は、自分のSMに対する考えが簡潔に表されていているような気がして、とってもお気に入りの言葉になりました。 ★みか鈴さん、ありがとうございました。 皆様もお読みになったご感想など、是非お気軽にお寄せください。 濡木痴夢男へのお便りはこちら
(つづく)