縛られた手首への欲望
いくら掃除がゆきとどいているからといって、床に敷いてある絨毯である。 スタッフの女性たちはもちろん、外からの来客もすべて靴のままで出たり入ったりする。そのオフィスの床の上に、落花さんは高手小手後ろ手縛りの姿のままで、無防備に横たわってしまうのだ。 半分失神しているからといって、ふつうの人間(ふつうの人間はまず男に縛られるということがないけど)はやらない。 いや、私は彼女のこういう状態を、けっしていやがってはいない。いやがるどころか、好ましく思っている。よろこんでいる。 だってそうだろう、落花さんのこの何もかも投げ出した形の失神状態は、私の「縛り」の威力を証明するものだからである。彼女のこの「快楽失神」を、私は誇らしいとさえ思う。 しかし私は、彼女の髪の毛が汚れはしないかと、それをまず心配する。 そこで、着ているフリースの上着をぬぐと、彼女の頭と上半身を抱きおこし、その下に敷く。フリースをなるべく大きくひろげて、私も頭をその上にのせる。つまり私も横になって彼女の体に寄り添う。めがねをはずしてデスクの上に置く。 そして彼女の頭を片手でかかえ、唇を吸う。失神している彼女は、上半身だけでも重い。ぐにゃぐにゃ柔らかくて重いのだ。唇を吸いつづけながら、私は右手でスカートの上から彼女の尻をなでまわす。若々しい女の肉の丸い弾力。 彼女はウェストをよじって軽い抵抗をする。すこし声をもらす。羞恥の声。完全に失神しているわけではないので、尻も太腿も胸も微妙に動く。 つよい抵抗はないが、失神のふりをしているわけではない。男に対して、そういう軽薄な演技めいたことは、彼女は一切しない。世間一般にみられるべたべた女のいやらしさ、卑しさがない。私はあのべたべた感が大嫌いである。彼女は男に媚びない。 私の花紐で縛られ、私の唇がどんなにしつこく、彼女の唇の裏側の肉まで吸いなぶろうとも、彼女は媚びた反応をみせたことがない。そのくせ彼女の肉体は濃厚な吸引力をもつMのオーラを発信しつづけている。 嘘のつけない性格である。男と接するときに、「女」を武器にした策略めいたそぶりは一切みせない。そのくせ羞恥心は人一倍あり、それを表わすときに彼女の全身から滲み出す無技巧の色気は上品で強烈である。 向き合っていて、こんなにもストレートに信じられる女性に会ったのは、私ははじめてである。首筋と背筋をいつもまっすぐにのばして歩いているように、精神の在り方もまっすぐである。 本業のグラフィックデザイナーとして有能な仕事をするが、ひまをみては自分だけのいい油絵を描く。水彩で描くスケッチも感覚的でカミソリで切り裂いたような鋭さがある。 この誠実で正直な人柄は、どこからきているのだろうか。 私は彼女の胸をはだける。ブラジャーを乳房の上まで指で押しあげる。「アッ、アッ」といって彼女は軽くもだえる。 私は容赦しない。乳房をつかみだす。下着の内側にこもっていた女のあたたかい体臭が、ふわりと匂いあがる。乳房のふもとに花紐がしっかりと食いこんでいる。花紐は生きて呼吸している。乳房を痛々しい形に盛りあげ、もっこりと大きくふくらませている。 私は乳房にかじりつき、乳首に唇をつけて吸う。いきなり、つよく吸う。彼女が喉から声を出して、はっきりと反応するのは、乳首を吸われるときだけかもしれない。全身をこまかくふるわせながら「ウウウ、ウウウ」と声を出す。 (この人のいちばん感じるところは、乳首かもしれない) と私は思う。右の乳首、左の乳首と交替に吸う。もちろん乳首は固くなる。 そして彼女は、唇を吸われることも好きなようである。かなり強引で執拗な私のキスを、これまでに一度も避けようとしたり、逃げたり、拒否したことがない。 ただし自分から唇を私の唇に押しつけてきたことはない。そういう積極的な行動は、恥ずかしいことだと彼女は思っている。そういうところも、私の好みに合っている。 のしかかってこられたら、老人の私は、たぶん、おびえるだろう。いや、若いときから私は、情念をむきだしにして迫る女は、好きになれない。 私は唇を吸いながら、手の指で乳首をつまみ、ころがし、ときにはつねったり押しつぶしたりする。上下の歯で、乳首を噛んだりする。「甘噛み」という感じよりもやや強く力をこめ、乳首のねもとを噛む。 「ウウッ」 と彼女はうめくが、やめてとは言わない。体をひねって逃げようともしない。私はなおも歯に力をいれて噛む。乳首が私の上下の歯の裏側にきてふくらむ。私の歯が乳首のねもとに食いこむ。 それでも痛いとは言わない。やめてとも言わない。もっと乳首に痛みを与えねばいけないのかと私は思う。が、その勇気が私にはない。私は歯にこめていた力をゆるめる。 痛さが限度を越し、いまの彼女の陶酔感をさめさせることを恐れる。私は彼女を気持ちよくさせ、陶酔をさらに深めるために唇を吸い、舌をからませ、乳首を噛んでいるのだ。長く深く彼女を陶酔させることが、私の快楽なのだ。乳首に与えた苦痛を癒やすように、乳首と乳房の柔肉をやさしくなめまわす。 「手は大丈夫かな?」 といって私は、後ろ手高手小手に縛りつけてある彼女の手首を探ぐり、指に触れる。十本の指はすこしつめたくなっている。だが、まだ大丈夫だ。 私は彼女のスカートをまくりあげる。ヒッといって彼女は両膝をまげ、左右の太腿をよじり合わせる。私はのしかかり、両手で太腿をおさえつける。白い腹部が私の目の前にある。なだらかな肉づきの下腹、黒いショーツ、形のいい丸みをもった太腿。 私は顔を上げ、すこし目を離して、おさえつけている彼女の下半身を眺める。この眺めは、なにも今がはじめてではない。白い下腹の肉と、ぴっちりと股間に食いこんでいる黒いショーツ。何度見ても、この対照のエロティシズムは鮮烈だ。 「きれいだなあ、なんてきれいなんだろう!」 という平凡な感嘆しか出てこない。 恥ずかしいほど平凡な言葉だ。だが、これしかない。 どうしてこんなにきれいなんだろう! 女体の隠されている白い肌を、はじめて見た少年が叫びそうな感動の表現しかない。五千人の女を裸にして縛ってきた私が吐くべき言葉ではない。 この美しさの中には、やはりMのオーラが内在しているのか。Mオーラの輝きのために、この人の裸の体はこんなにも美しいのか。私はMのオーラに幻惑されているのか。 「きれいだなあ、どうしてこんなにきれいなんだろう!」 きれいだということは、エロティックだということだ。 私は思わず手をのばして、彼女のへその周囲をなでまわす。顔を伏せ、舌を出してなめまわす。彼女は尻をすこし浮かして反応する。喉から低いうめき声。だが、黒いショーツにおおわれた下腹の白い素肌が、どんなにエロティックであろうとも、このときの私はもう勃起していない。 興奮はもちろん持続している。彼女の美しさのなかに溺れ、泣きたいほど感情は高ぶっている。 だが、左右の手首を一つにして高々と背中に縛りあげた瞬間の、あの衝撃的な性の興奮は、もう去っている。具体的にいえば、私の股間のものは、もう衰えているのだ。 彼女の魅惑的な黒いショーツも、そのショーツの裏側に密着している性の柔肉も、私の勃起を持続させる力を持っていないのだ。 勃起はしなくても、黒いショーツの上に、私は顔を伏せる。奥深い股間に鼻の先を埋める。太腿の半ばまでショーツをずり下げ、再びぴったりと顔を伏せ、舌の先を柔肉のなかに侵入させても、衰えた私のものは回復しない。 どんなにいい女の性器であっても、私にとって性器とはなり得ないのだ。鼻と唇と舌を彼女の柔軟であたたかい性器のなかに、どんなに深く埋没させようとも、私はもう勃起しないのだ。 私にとって女性器よりも刺激的なのは、背中にむごたらしく縛り合わされている手首なのだ。縛られている手首こそが、私を魅了し、興奮させ、勃起させる女の性器なのだ。 このことをはっきりと私が言ったとき、ある人が、信じられない、という顔で、私を見た。 十数種(あるいは二十数種かもしれない)の「SM雑誌」が氾濫していた時代のことである。 新しく「SM雑誌」を創刊したいので、SMの真髄とは何か、それを教えてもらいたい、といって私のところへやってきたのだ。 私は、緊縛マニアにとって、縛られた女の手首が、最も魅力的な、欲情させるポイントなんです、そこが女の性器といってもいい、だからそういう写真をのせてください、そういう読物をたくさんのせてください、と言った。 かなり熱心に、しつこく、拝むようにくり返して言ったので、その人は軽蔑したような顔で私を見た。 「背中に縛られた女の手首が女の性器?それって、一体なんのことです?」 彼はふしぎそうに眉のあいだに皺を寄せて私を凝視した。 私は説明した。手首にしっかり縄のかかっているところを、ていねいに絵まで描いて説明した。 納得したような、しないような、あいまいな顔のまま、彼は帰っていった。 その人が編集長となって創刊された「SM雑誌」は、それでも三年位はつづいた。私もすこし撮影を手伝い、原稿も書いた。彼は、 「そういうものは、あまり見たくない。そんなもの見なくても、SM雑誌の編集位、できますよ」 といって、撮影現場には一度も姿を見せなかった。 「私に『忠告』してくれた人たち」という文章を私は前に書いたが、いま思うと、その「SM雑誌」の編集長も、ときどき私に忠告めいたことを言った。 「女の股のあいだよりも、縛った手首を見たほうが興奮するって、濡木さん、最初に言ってたけど、やっぱりそれは間違ってますよ、女を縛って無抵抗にしてしまったら、あとは犯してやるのが、男の道っていうもんでしょう。縛った手首をみて、なにがおもしろいんですか」 間違っているとか、なんとかいうよりも、実際に興奮してしまうんだから仕方がない。そうか、私は、男の道に、はずれた男なのか。 「犯すこともあるんでしょうけどね、縛られた女の手首をみつめながら、オナニーをしたほうが、数倍も気持ちいいと言う人もいるんですよ」 「信じられませんねえ。だって、犯すために女を縛るんでしょう?犯したいというはっきりした目的があって縛るんでしょう?それだったら、縛ったあとは犯すのは、当然でしょう。男として、あたりまえの欲望ではないですか」 あたりまえではない雑誌を、あなたは作っているんじゃないですか、と言おうとしたが、やめた。私は気力が失せ、低い声でつぶやくように言った。 「ただ縛って眺めたいだけで、女を縛る人だっているんですよ」 「ボーッと眺めているわけではないんでしょう?やっぱり犯したいと思って眺めているんでしょう?」 「ただ眺めているだけで気持ちよくなって、欲望が達せられる人がいるんですよ」 「まあ、中にはそんな人もいるんでしょうが、ごくわずかでしょう。そんな変な少数派を相手にしていたら、商業雑誌はとても成り立ちませんよ」 少数派を相手にしていたら、利益をあげるための雑誌は成り立たない、と言われたら、もうどうしようもない。私は黙るだけである。 「SM」と名付けられて編集されたこの種のマニア雑誌が、本来のマニアの欲望から離れ、遠い存在になっていくのは、理の当然である。 だが、本来の、マニアに敬遠されても、そういう擬似SMを好む読者もたしかに存在する。その編集者のいうように、数も多そうである。大きく広くいえば、そういう擬似SMも「SM」の一つのジャンルかもしれない(ちなみに私は大嫌いである)。 擬似SMを支える読者に支えられて、ある程度は営業的に永続する。だが、その種の擬似マニアの読者に迎合しているうちに、そういうSM雑誌の内容は、ますます本来のSMから離れていく。 離れていくのだが、その雑誌自身にはそれがわからない。気づこうともしない。自分のほうこそ本来のSMだと信じているのかもしれない。 おや? 私は何を言おうとしていたのだろう。また迷ってしまった。 私は落花さんの細い手首のことを書いていたのではなかったか。 どこから外れたのか。 ああ、そうだ。「快楽失神」している落花さんの黒いショーツを太腿の半ばまで引き下げ、そこへ顔を押しつけて、なめたり吸ったりしているところまで書いたのだ。 そういう結構な行為をさせていただいているにもかかわらず、私は勃起しない。そこまで話はすすんでいたのだ。 手首を縛っていたときには興奮して勃起していたのに、彼女の股間に顔を密着させる段になると勃起しない。 そこまで書いていたのだった。 でも私は再び勃起させ、彼女の性器のなかに挿入したかった。形だけでも挿入したかった。十秒でも、五秒でもいいから挿入したかった。それをしないと、あの編集長に言われた「男の道」が立たないような気がしていた。 老人の私には、もう精液をつくりだす体力がなかった。だから、射精はしないのだ。快感がなくても、入れたかった。勃起して挿入できたという事実を確かめたかった。 あの編集長の言った「男の道」に、すこしでも、いまとなっては、かじりついていたかった。挿入することが、私がまだ生きているという証拠だった。 (つづく)
(つづく)