花紐とMオーラ
この「おしゃべり芝居」の一番の読者であり、いつも私に刺激的で適切なアドバイスをしてくださるみか鈴さんは、 「ハンカチ一個で簡単に括っていても感じるSMもあります」 という感想を私にくださった。 そのとおりなのである。 このことは前回にも書いたが、また書く。 みるからに荒々しい麻縄を十数本も使って高い所から吊り下げても、尻が腫れあがるほど激しく叩いても、肛門をむきだしにして浣腸器を突きさし、大量のグリセリン液を注入しても、その女性の肉体や表情から、Mのオーラが生まれなかったら、それは見た目に奇想天外ではあっても、ふつうのごく一般的な人たちが「凄い凄い、よくやるもんだ」とびっくりして拍手する見世物でしかないのである。 どんなに過酷な虐待の形を見せてもらっても、私たちのいうSMではないのである。SMとなり得るためには、そこにMのオーラが醸成されないと、私たちは酔うことができない。 逆さ吊りにした女体にバイブをねじこもうが、私は見ていてすこしも欲情しないし、勃起もしない。むりやりひろげた大陰唇のなかに男が手首をねじこむのを見ていても、 「すごいなあ、よくやるなあ、痛くないのかなあ」 と感心はしても、感動はしない。つまり、びっくりはするが、性的な興奮はしない。やはり、私に必要なのは、Mのオーラなのである。 (なかには、いやいや、Mのオーラなんか必要ない。女がひたすらに虐待をされて、凄惨な姿で悲痛な声で泣き叫ぶところを見たい、見るだけでなく実際に本気でやってみたい、という人もいるだろうが、そういう人の快楽と私どもの快楽は、似ているようだけど、ちがうのである。似ているから私たちは困り、迷惑するのである。そういう、イヤな思いをした実例も、これから折りにふれて書いていきたいと思う) 私たちは、SMに似せている虐待行為を、SMと認めるわけにはいかないのである。Mのオーラを発し得ないSMを、SMと呼びたくないのである。 いつのまにか、また話が横道に外れてしまった。 今回私はみか鈴さんの言った「ハンカチ一枚で縛ってもSM」という言葉に刺激されて、いつも落花さんを縛るときに使う「紐」について、すこしこまかく書いてみようと思うのだ。 私が人に見せる「縛り」のときに使うのは麻縄だが、だれにも見せない快楽の縛りのとき(つまり仕事で雇われていない場合)は、ひそかにしまってある木綿の「紐」を使う。 この紐の長さは、一六〇センチ、幅が四センチで、袋状になっている。つまり一本で二本分の質感がある。縁はていねいにミシン縫いされている。手に握ると、木綿特有のやや厚みのある、ざらついた感触があって、これがなかなかいい。 袋状というより、帯状といったほうが正解かもしれない。この紐は、帯といえば、まさしく細長い帯なのである。 いまから五、六年前、あるビデオドラマの撮影で、甲州の山の中にある古い温泉旅館へ泊りがけでロケに行った。 何度も撮影で使っている旅館なので、そこのおかみさんと親しくなった。 「おかみさん、二階の大広間の奥の押入れのなかに、松竹梅の模様を染めた可愛い紐がたくさん入っているけど、あれはもう使わないの?」 と、ある夜、私はきいた。 「ああ、いまはうちも寝巻きは紐のついた洋式のパジャマふうのものになって、あれはもう使わない。以前は浴衣の寝巻きの女のお客さん用の紐だったんだけどね」 「もし使わないんだったら、おれにゆずってくれないかな。あの松竹梅の小さな赤い花と黒い地模様が気にいって、ぜひ欲しいんだ」 「欲しかったらあげるよ。お金はいらないよ」 私はお金を出したが、おかみは受け取らない。 というわけで、私はその紐を二十本、ただでもらってきた。 そのときは、この紐を「縛り」に使おうとは思っていなかった。赤と黒と白の素朴でひなびた模様が、絶妙のバランスで可愛らしい。そして、手ざわりがいい。しっとりとして私の手の五本の指に馴染む。軽く手に握り、模様を眺めているだけで、心がなごみ、気持ちがよくなる。 素朴で純粋で、手作りのあたたかみのある、いかにも木綿といった感触。使いこんで、やや色がさめているところも、またいい。 これだけ気持ちがよかったら「縛り」に使ってもいいだろうなあ、と私は思った。 ということは、縛られる側も(縛られることの好きな女性だったら)ぜったいに、いい感触をもって縛られてくれるにちがいない。 しかし「営業用」には使えない。 写真とか、映像のなかに登場させる拘束具としては、荒々しさがない。見た目が、あまりにも可愛らしい。 私はその花模様の紐を、使うことなく秘蔵していた。 ときどき、私のおびただしい縄のコレクションのバッグの中から、ひょいとこの紐が姿を見せる。すると、「やあ、しばらく」といった感じで手に取り、心をなごませる。私にはこういうものに執着し、観賞する嗜好はなかったと思うのだが、この紐だけは、見ると妙に心がやさしくなり、楽しくなるのだ。 落花さんを縛るときも、最初は麻縄であった。 撮影の現場では使わない、新しい、しかし十分に柔らかくしてある麻縄を使った。 そうだ、私は最初、麻縄をたくさん使って、落花さんをモデルにして、板津安彦先生の「古式捕縄術」の縛り方を真似して、勉強してみようと思っていたのだ。 そのために板津先生の御本のなかの写真のページをコピーして、それを持って、二人でラブホへ行ったこともあったのだ。 だが、それを勉強する前に、二人だけの「遊戯」に夢中になり、溺れてしまった。結局、勉強も研究も、ひとつもできなかった。 相手の女性から、あれだけ濃密で強烈なMのオーラを発散させられると、私はもう、勉強とか研究どころではなくなってしまうのだよ、落花さん。 (誤解されると困るので、ここでひとこと。落花さんが私に対して発するMオーラは、無言、不動なのである。つまり、ラブホの一室の片隅のソファにすわっているだけで、何もしゃべらず、動きもしないのだ。無言で発するオーラゆえに強烈であり、濃密であり、吸引力が凄いのだ) ちなみに、集英社発行の外国語事典から、「オーラ」の項を引いてみよう。 「オーラ」生物から発散すると信じられている流動体。心霊学上の用語。特殊な蛍光板を用いると写真に撮ることができるといわれている。独特の雰囲気。微妙な気分。 ――である。が、これだけではたりない。落花さんの場合、常識的な解釈を超えた、魔力にも似た何かがあるような気がする。 昼間のオフィスで、デザイナーとして仕事をしているときの毅然として、峻烈な雰囲気をもつ姿からは、まったく想像できないMオーラなのである。 また話が外れた。しようがないなあ。自嘲。 麻縄の話だった。 落花さんにも最初は麻縄を使っていたという話だった。それが、途中から使わなくなったということを書かなければいけない。 いや、その前に「古式捕縄術」の勉強はどうなったか。 じつは、まだやっていない。 何度もくり返して書いているように、彼女の手首をつかんで背中へまわしただけで、彼女の全身は柔らかくなって、ぐにゃぐにゃになってしまうのだ。失神して、倒れてしまうのだ。 複雑な手数と、縄数を多く使う「古式縛り方」を実験することなど、とてもできない。まず上半身をまっすぐに立ててのばしていることができないのだ。しかし、あきらめたわけではない。いつかは彼女で実験するときがくると思っている。落花さんよ、いつかかならず「古式縛り方」の実験をやるから、おぼえていなさいよ。 そして私は、彼女に対して、麻縄を使うことをやめた。 麻縄をやめて、秘蔵していたあの木綿の花模様の紐を使うことにした。 その理由。 私が彼女を縛るのは、二人きりで日常的な会話をかわしているうちに、ふいに、いきなり(じつは、ふいでも、いきなりでもなく、私はきっかけを狙っているのだが)まず彼女の手首をつかんで背後にねじりあげる。 つまり、最初は、彼女の日常の服の上から縄をかける。 こういう一種のドラマチックなプロローグが、私は好きなのだ。 「縛ろうか」「うん、縛って」では、あまりにも味気ない。スリルがない。SMの香りがない。 だが、服の上から麻縄をかけると「遊戯」が終わったあと、服につく麻縄のこまかいケバがひどいのだ。手やブラシで払っても落ちないので、ガムテープでパタパタ叩いて、麻縄のケバを服から剥がさなければならない。ていねいに取らないと、うっかり電車にも乗れないほど、麻縄のケバは目立つのだ。 甲州の旅館からもらってきたあの木綿の紐で縛ると、その心配はない。 だが、麻縄をやめて、紐で縛りはじめたのは、ほかに理由がある。 私が念をこめて秘蔵してきただけあって、この紐は、私が思っていたとおり、縛られるほうにとっても、気持ちがいいのだ。 背後にねじりあげた左右の手首に、一度まわして縛っただけで、形よく、キュッと手首が締まるのだ。この締まり方の感覚と手ごたえが、絶妙にいいのだ。麻縄よりもいい。締まる密度がいい。 手首を一度だけ縛り、思いきり上のほうへ引きあげておいて腕から胸へまわす。腕への食いこみ方、胸への締めつけ感が、麻縄よりも、この紐のほうが、ずんといいのだ。 キュッと食いこみ、みっしりと締めつけ、静止したまま、元へもどらない。紐が、彼女の体にしがみついて、つぶやくのだ。 「ああ、気持ちいい!」 と。私には、この紐のつぶやきが聞こえるのだ。この紐は、ただの紐ではないのだ。 そうだ、これからは、落花さんを縛るこの紐のことを「花紐」と呼ぼう。 うん、われながら、いいネーミングだ。 落花さんの胸にまわして引き絞ると、花紐の呼吸に合わせて、落花さんの乳房がブラジャーの内側から、 「気持ちいい!」 と、うめくのだ。 胸に一度まわして再び背後へもどすと、この一六〇センチの花紐は、ちょうど手首のあたりで終わりになる。 麻縄の場合は胸に二度まわすが、花紐は一度で二度まわすのと同じ効果がある。 効果というのは、縛られる側の締めつけ感のことだ。ていねいにいえば、締めつけられる快感のことだ。 つまり、この花紐は、袋状の細長い帯のようにできているので、布地が二重になっている。さらに、麻縄の繊維よりも、木綿の繊維のほうがキメがこまかいので、締めつけ感の密度もこまかく、重厚なのだ。 胸にまわして締めつけ、背中へもどしてきた花紐を、手首のあたりで軽く留める。 麻縄の場合はしっかり縛って結ばないと留まらないが、花紐は、紐と紐の間にさしこんだだけで、きれいに留まる。木綿製なので、繊維の密度がこまかいせいである。 花紐を一本使っただけで、後ろ手高手小手が、われながらあざやかにきまる。 いや、私の縛りの技だけではない。 落花さんの縛られっぷりもいいのだ。高く上げた両手首の位置をくずさないのだ。こういう落花さんの精神から、Mのオーラはますます魅惑の光を放つのだ。 落花さんは一言も声も発せず、身じろぎもしない。椅子に腰かけたまま、デザインテーブルの上に、顔と胸を伏せている。 そして私は、この瞬間に、勃起しているのだ。首筋近くまで上がってきびしく縛られている左右の手首の痛々しさ、可憐さ、まっすぐ上にのびた十本の指の美しい白さ。 老いて力の衰えた私の股間のものに若い熱い血がよみがえり、奇跡のように勃起するのだ。 「愛とか恋とかよりも、それがSMなのですね」 と、いみじくもみか鈴さんが言った。鋭い観察力であり、分析力である。 そうなのだ。たしかにそうなのだ。愛とか恋だけでは、老いた肉体は勃起しないのだ。 愛ともちがう、恋ともちがう感覚。しかし愛の香りも含み、恋の体臭も漂うSMの底力がここにある。 全裸にして宙に吊り上げ、両足をひろげさせてバイブを挿入し、震動させる情景には、すこしも反応しない私の肉体が、テーブルの上に突っ伏した落花さんの、背中に固定された高手小手の手首、そして白い十本の指に、魂のふるえるようなMのオーラを感じて勃起するのだ。 二十本近い麻縄を使って残酷な形に逆さ吊りにした全裸の女体よりも、きっちりと服を着たままで一本の花紐で縛られ、顔を伏せている無言の女のほうに、強烈なMのオーラを感じるというのは、一体どういうことなのか。 その形が好きとか嫌いだとかいうのは、個人の好みにすぎない、といってしまえば、話はかんたんである。 好きとか嫌いだとかいう個人の感情を計算に入れても、SMのオーラというものについて、あなたは考えたことがあるだろうか。 くり返していうが、残酷だけがSMではない。そして、ついでに、これは声をひそめていうが、「緊縛」は「芸」なのである。 ここは落花さんのオフィスの中なのだ。 きょうは日曜日で、スタッフの女性たちはだれもいない。 私と落花さんだけが、オフィスのいちばん奥の、ついたてでさえぎられた彼女専用の大きなデスクのそばにいる。 花紐一本だけの縛りというのは、もう一つ、私にとっていいことがある。 私は右手をのばし、一本の指の先で、彼女の背筋を、服の上からスッと撫でる。 高手小手にしてあるので、手首の下の背中は大きくあいている。そこを軽く、しかしいやらしい思いをこめて指先で撫でる。 ウッとうめいて、彼女は全身をけいれんさせる。敏感である。あるいは、いまや全身が性感帯になっているのかもしれない。 二度、三度と、軽く指先で背筋を撫でる。 びくッ、びくッとふるえる。そして彼女はもう我慢できない。腰の力がぬけ、椅子からずるずるとずり落ちる。 私はあわてて彼女の体を支える。床には絨毯が敷いてあるが、まともに転落したら怪我をする。実際、怪我をしてもおかしくないような勢いで、椅子から落ちるのだ。だから私は失神したと思いこむのだ。 絨毯の上にすわらせようとしても、背骨が柔らかくなっていて、腰に力がない。ごろりと横たわってしまう。なにしろ後ろ手にきびしい形で縛られているのだ。横になったときに腕に怪我をすることだってある。 私はあわてて彼女の体を支え、ゆっくりと静かに寝かせる。靴をぬがせる。そして私も靴をぬぐ。 女性ばかりのスタッフなので、掃除がゆきとどいていて絨毯はきれいだ。私も絨毯の上にすわりこみ、彼女の首だけを抱いて唇を吸う。彼女は抵抗しない。唇を吸いつづけていても無反応である。鼻息もない。この場合の無反応は、私をいい気持ちにさせる。失神した女の唇を、思うぞんぶん吸いまくるという行為は、なかなか刺激的だ。紐一本の縛りで快楽失神させてやった、という優越感もある。「快楽失神」というのは、私の造語だ。 だが、本当に失神したわけではない。 「口をあけな」 と私がいうと、唇をひらく。私はその唇のなかへ、舌をさしこむ。口腔内を舌でなめまわす。彼女の舌が、私の舌とからみ合う。私のものは、ますます勃起する。 舌をつよく吸いあげ、唇をしつこくなめまわしながら、私の手は彼女の乳房をまさぐる。服の上からつかむ。 花紐一本の縛りのいいところが、もう一つあるといったのは、ここだ。 彼女の着ているものを、ぬがせやすいのだ。背中のホックをはずし、服を肩からずり下げることができる。ブラジャーを上に押しあげて、乳房をむきだすことができる。 上半身を麻縄でぐるぐる巻いていると、こうはいかない。乳房の上辺部を締めつけているのは花紐一本だけなので、半裸状態にするのに、無理な力を加えずにすむ。 そして、一本の花紐によって高手小手に縛りあげられた彼女の衣服の乱れと、白い素肌の露出の対照が、目もくらむ位にエロティックで、美しいのだ。これもSM的光景だといえば、たしかに被虐美充満のSM的眺めである。このときの落花さんの半裸身からは、さらに濃密で蠱惑的なMのオーラが発光しているのだ。私は彼女のスカートの裾をまくりあげる。 (つづく) ★以下「みか鈴」さんからお寄せいただいたご感想を、ご本人の承諾を得て転載させていただきます。このご感想の中の表現を「第二十七回」にて引用させていただきました。 みか鈴さんからのcomment 楽しい話ですね。 ・・・で例によって、美香はどのように感動し、嬉しくなり、刺激を受けたのか、先生に聞いて欲しいので、また長いコメントを書いてしまいました。幸い、先生も嫌がられてないようですので、嬉しいです。 >Mのオーラが醸成されないと、私たちは酔うことができない 先生・・・ホントそうですね。Mのオーラという言葉はすごくピンとくる言葉ですわね。 美香は大いに頷きましたし、このMのオーラとしか云いようのないMの喜びついて思いを馳せました。 Mのオーラはセックスのオーガズムのように激しく主張しません。 Mのオーラは痛みや苦しみがホントに嫌なことだったら反応しません。 Mのオーラはそれを感じることの出来るSがいないと熟成されません。 まだまだMのオーラを言い尽くしたとはまいりませんが、このオーラを語るだけで随分長くなるのでこの辺で止めますが、Mの佇まいを表す言葉としてMのオーラはいい言葉ですわね。 >SMに似せている虐待行為を、SMと認めるわけにはいかない はい、はい、は〜い。。そうなのです、美香も多いにそう思うのです。 本気でSMの持つ暗黒面に支配された人達(残虐な行為を平気で楽しんでやるような方)の感性は、確かにセックスの前技としかSMを見ない方達よりも、そういう事に感じる心情は美香と似てると思うのです。 ですが、美香はそういう方は、セックスの前技としてのSM(美香にはこのパターンの方はSMを感じる頭がないと思うのですが・・・そう言った、所謂なんちゃってのSM)をしてる方よりも嫌いなのです。 そういうことを得々として語って本物のSMマニヤとうそぶく方の話を聞くと反吐がでるほど強い嫌悪感があります。 同じようなSMに感じる頭をもってはいるけれど、この方々のプレーにはMのオーラは降りては来ないのではないでしょうか。 美香も先生と同様に、この方々の残虐行為をSMプレーとは呼びたくないのですが、適当な言葉もありませんのであえてプレーといいますけれど、でもそれは先生の為されてるSMプレーとは異質なものなのは云うまでもありません。 >「縛ろうか」「うん、縛って」では、あまりにも味気ない。 >スリルがない。SMの香りがない。 ふいに、いきなり、というのが良いですわね。 美香は、予定調和はSMには合わないと思っています。SMはハプニングであった方が楽しいのです。 Mにとっては「宜しくお願いします。御主人様・・・」なんてのより、思わぬ方向から、SMに入ってこられて、ちょっと抵抗したい。 そんなサプライズのあるSMなら、「ああ・・そんな・・・困ります・・・・止めて・・・・」等といって、驚いたような、はにかんだような顔が出来るかもしれませんわね・・・というよりそんな顔してみたいです。 嫌いではないホントは好きだけど、だからといって積極的に「はい」というと、Mの気分がでない。嫌がるのを無理矢理、というシュチュエーションだと、演技のし過ぎで白けちゃう・・ましてやホントに嫌な事を強要された日には「ふざけるな!!(怒)」ってなりますわね。 >デザイナーとして仕事をしているときの毅然として、峻烈な雰囲 >気をもつ姿からは、まったく想像できないMオーラなのである。 先生、間違ってたら御免なさい、この部分を読んで美香は先生は「昼下がりの情事」のオードリヘップバーンが好きではないかと想像してしまいました。 毅然として、峻烈な雰囲気をもつ落花さんには、何故だかヘップバーンのイメージが重なるのです。 >落花さんの乳房がブラジャーの内側から、「気持ちいい!」 落花さんの驚き(とまどい)が感動に変わる瞬間ですかしら。 wonderという英語があります「驚き」とか云う意味の言葉ですが、それにfulがつくと、wonderful・・・つまり素晴らしい、になるのです。 ワンダフルなSMと申しましょうか、驚かすだけではビックリ箱ですが、Mに感動して貰えるSMをしようとすると、Sはそれこそこの前仰ってた「奉仕人」の精神が要りますわね。先生。。。 >花紐を一本使っただけで、後ろ手高手小手が 先生、落花さんとの交流にごてごてした縄は必要ないですわね。 シンプルな、それでいて先生の全てが傾けられた、後ろ手高手小手が相応しいように美香も思います。 そして撮影に使うのには不向きな「花紐」ですが、その紐には先生の情念がこもっています。そんな紐に縛られるのですから、落花さんが「快楽失神」してしまわれるのも頷けますわね。 >私はあわてて彼女の体を支える。床には絨毯が敷いてあるが、 >まともに転落したら怪我をする。 このような事故に対する気配りの出来ない人が、ハードSとか称して危険なプレイを無神経にやってるのを見ると、美香は無性に腹立たしい気分になります。 先程の確信犯的な残虐行為をする人とは違いますけれど、安全に無神経なSというのも困りものですわね。 先生の半分ぐらいでもMの安全に気を配ると、Sとしてはもっと楽しく遊べるのになぁ・・・って思いますわ。 「花紐」の画像みました、素敵ですわね。 この紐で縛られて快楽失神されてる落花さんの姿はとても絵になる風景でしょうね・・・そしてとってもSMなのでしょうね。 でも、絵や写真にしても本当の細やかなその場の情念までは写しきれるものではないのかもしれませんわね。。 ★みか鈴さん、ありがとうございました。 皆様もお読みになったご感想など、是非お気軽にお寄せください。 濡木痴夢男へのお便りはこちら
(つづく)
>Mのオーラが醸成されないと、私たちは酔うことができない
>SMに似せている虐待行為を、SMと認めるわけにはいかない
>「縛ろうか」「うん、縛って」では、あまりにも味気ない。 >スリルがない。SMの香りがない。
>デザイナーとして仕事をしているときの毅然として、峻烈な雰囲 >気をもつ姿からは、まったく想像できないMオーラなのである。
>落花さんの乳房がブラジャーの内側から、「気持ちいい!」
>花紐を一本使っただけで、後ろ手高手小手が
>私はあわてて彼女の体を支える。床には絨毯が敷いてあるが、 >まともに転落したら怪我をする。