コーヒーショップの中で
落花さんは当然、私のこの「おしゃべり芝居」を読んでくれている。 私のこの文章の一番の読者は、みか鈴さんだと私は前に書いたが、一番はやっぱり落花さんではないか。みか鈴さんは二番目ということになる。 なにを基準にして一番とか二番とかをきめるのか、ときかれたら、この文章に対する関心度だろうと思う。 みか鈴さんは、私の考え方よりも、もっと深いところを考え、感じてくれて読後感を寄せてくださり、私を示唆してくださる。ありがたいことである。 落花さんは、自分のことを書かれているのだから、関心があるのは、当然、一番だ。 まちがったことを書いたら容赦しませんよ、という、監視する心もあるにちがいない。その点、きびしい人である。うっかりしたことは書けない。 その落花さんから、深夜、電話がかかってきた。 「第二十六回に出てくる私って、本当にああなんですか?」 と、きく。 「え?おれの文章の、どこのことを言ってるの?」 と私はきき返したが、彼女が本当か、とたずねる箇所は、大体わかっている。 それは私が彼女に対して行う、ふつうの人が読んだら、あられもない行為のシーンである。 「あられもない」という形容詞を、ためしに辞書で引いてみた。旺文社の国語辞典にのっていた。 あられもない(連語)あるべきでない。ふさわしくない。ふつう「あられもない姿」などと女性の行儀わるい態度・振る舞いに対して使う。 「私って、本当に、あんなふうなんですか?」 と、落花さんが指摘する私の文章の箇所は、恥ずかしがり屋の彼女にとって、あまり書いてもらいたくないシーンである。 しかし、書いてはいけない、書かないでください、とは彼女は言わない。ぜったいに言わない。 それは、彼女が並みならぬ知性の持主だからである。 作家にとって、書いてはいけないものはない、ということを、彼女は知っているからだ。それは書いてはいけない、などと言うことは、作家を殺すことだと彼女は知っているからだ。 彼女は、濡木痴夢男が作家であることを認めてくれている数すくない人の一人である。 「先生、私とのことなんかよりも、『おしゃべり芝居』というタイトルどおりの、先生が若いときから関わり合ってきたお芝居のこと、先生とお芝居とSMについてのことを書いてください。それは私が生まれる前の出来事なので、私にはとっても興味があるんです。早く先生の若い時代の話にもどってください」 彼女からのこういう催促を、じつは私はたびたびされている。 「うん、そうだよね。そもそも、それを書きたくて、それを書くつもりで、この文章をはじめたんだ。だから、いつも、ああそうだ、早く本来のテーマにもどって、芝居のことを書かなければいけない、と思ってる。だけど、やっぱり目先のことを書いてしまうなあ。過ぎ去った日のことよりも、いま目の前に展開していることのほうがなまなましくて、切実で、書いていておもしろいものなあ。現在進行中のことだったら、自分の心の、こまかい動きまで書けるもんなあ。あなたとのこと、書いておきたいものなあ。いま記録しておかないと、どんなに感激したことでも、すこしたったら、この感激や感動がうすれてしまうもんなあ」 「いま書いておかないと、うすれてしまう程度の感激なんですか」 「あげ足をとってはいけません。いま書いておかないと、あとでは書けないような気がする。あなた、おれはもうすぐ死ぬんだよ」 「いけません。なに言ってるんですか。先生は死にません」 「私だって、死ぬときは死ぬよ。落花さん、あなた、自分のこと書かれるの、いや?」 「いやではないですけど、恥ずかしい」 いやではないですけど……というところまでは彼女は実際に言葉に出すが、じつは「恥ずかしい」とは言わない。 「恥ずかしい」という言葉も、恥ずかしがり屋の彼女は口から出せないのだ。「恥ずかしい」という言葉自体が、彼女にとって恥ずかしいのだ。 仕事をしているときの、あのさっそうと背筋をのばし、凛として胸を張った、猛々しさすら感じさせる姿からは、とても想像できない。同一人物とは思えない。 そして、こういう羞恥にまみれているときの彼女の雰囲気の落差の大きさ、激しさ。この落差には神秘的ともいえるエロティシズムがあって私をゾクゾクさせる。私の宝だ。 私は電話の向こうにいる彼女の存在を想像する。彼女の表情や肉体が、Mのオーラを発信し、電話線を通じて私にせまる。目の前にいなくても、Mのオーラは私の性欲を激しく刺激し、私は少年のように勃起する。 (そうか、Mのオーラと羞恥心とは、やっぱり密接なつながりがあるんだなあ) と、私は思わず再確認してしまう。 「Mのオーラ」について、みか鈴さんが、おもしろい、わかりやすい解説をしてくださった。解説というより、これはもう「名言集」みたいなものである。それをここに記録させていただきたい。 この「おしゃべり芝居」は、やがて一冊の本になると思います(いま現在で四百字詰の原稿紙四百枚になっています)。そのときはまた改めて、みか鈴さんにお願いして、転用させていただきたく、思っております。 「Mのオーラはセックスのオーガズムのように激しく主張しません」 「Mのオーラは痛みや苦しみがホントに嫌なことだったら反応しません」 「Mのオーラはそれを感じることの出来るSがいないと熟成されません」 まだまだMのオーラを言い尽くしたとはまいりませんが、このオーラを語るだけでも、随分長くなるのでこの辺で止めますが、Mの佇まいを表す言葉として、Mのオーラは本当にいい言葉ですわね。 みか鈴さん、この辺で止めます、などと言わないで、こういうわかりやすい形でもっとつづけてください。 あなたは本当に、鋭い、いい表現をなさいます。あなたの分析、および解釈と表現は、観念的なものではなく、ご自身の実感からにじみ出ていると拝察し、繊細な正確さがあって、私にとっては貴重です。私は勉強したい。お願いです、つづけてください。 私は、皮膚感覚から紡ぎ出したこういう言葉を、本当は、落花さんの口から聞きたい。しかし、性的なことになると、極端に恥ずかしがり屋になってしまう彼女には、それは無理です。 彼女は、私との最も現実的な「当事者」として、M側の立場にいる人なので、客観性をもつことが、いまはできない。 「快楽失神」している人に、自分を客観的に冷静に観察して、それを表現してくれ、などと言うのは、言うほうが間違っている。 「私って、本当に、ああなんですか?」 と、彼女はまじめな顔で、私にききます。 これは、深夜二時間にわたる長い電話をしたその翌日、埼京線とほかの線が三つも四つも交わる大きな駅の、駅ビルの中のコーヒーショップでの会話です。 「そうですよ、私の書いたとおりですよ。ああいうたいせつなシーンでは、私はウソは書きません。誇張もしません。できるだけ事実を書きます。事実を書かないと、書く意味がありません。しかし、私の文学修業の至らなさで、書ききれません。結果的に、どうしても、ひかえめになってしまいます」 「あの……先生、歯を、先生が、歯を使っているところは、本当ですか?」 彼女は言いにくそうに、おずおずときく。 「え?歯?歯って、なんのこと?」 びっくりして、私はきき返した。彼女が何を言いだしたのか、まったくわからない。 「歯?歯って、この歯?この歯がどうしたの?」 私は指で自分の口もとを示した。とぼけているのではない。本当にわからない。 彼女はなおも言いにくそうに、 「私がきのう読ませていただいた二十六回目のなかに出てくる……」 「ああ……」 やっとわかった。 「え?ああ、そうか、わかった。おれが、あなたの乳首を、上下の歯で噛んで、その乳首が、歯の裏側で固くなってふくれた、という、あのシーンのことか?」 すると彼女は、すぐに反応した。 「いやッ、え、え、え、ハイ。そうです、ハイ!」 性的な話になると、彼女は極端に恥ずかしがる。だが、ふつうの女の子のように顔を赤らめたりはしない。そのへんは、やっぱり気丈な感じがする。気丈な恥ずかしがり屋なのだ。 「ああいうことをされるの、いやかね?痛いかね?いやだったら、もうしないけど」 「いいえ」 と彼女は首を横にふり、 「何をされているのか、ぜんぜん気がつきませんでした」 と言った。 人が多く出入りする駅ビルのなかのコーヒーショップでするような話ではない。どこかから絶え間なく音楽がひびいてくる。 だが、周囲があわただしく騒然としているおかげで、逆にだれにも聞かれず、安心してこんな会話がつづけられる。 通勤客や買物客で、やたらに人間の多い街なかの、空白ゾーンである。 私に乳首を噛まれたことを、彼女は知らなかったと言う。 彼女の表情にウソはなく、また、ウソをつく彼女ではない。ウソとか虚栄心とかハッタリとかいうものを、まったく持たない稀有な人である。 「本当に、気がつきませんでした」 と、まじめな顔である。 やはりこの人は「快楽失神」のなかにいたのだ、と私は思う。 そして私は「快楽失神」なんて、ほんとにあるのだろうか、と思う。 自分で「快楽失神」なんて言葉をつくり出しておきながら、私にはやっぱり信じられない。 もし、あるとしても、その「快楽失神」状態の深さが、私にはわからない。私は与えるほうで、与えられるほうではないからだ。与えるほうには、くやしいことに「快楽失神」なんて、ない。私には一度も経験がない。 (だからこのへんの心理状態を、みか鈴さんに教えてもらいたいのだ) 私の「花紐」が、どれほどの快楽を彼女に与えているのか、それを知りたい。 知りたいというのは、私に不安があるせいかもしれない。 「おれの花紐は、ぜったいに気持ちいい!」 と威張って断言するほどの自信は、じつは私にだってないのだ。 「縄」の威力について、いつも自信たっぷりに書いたり言ったりしている私だが、心の底では不安を抱いている。 そして、さらに心の奥を探れば、こういう不安感もまた「SM快楽」の一端なのだ。 にぎやかなコーヒーショップの片隅で、私と落花さんは、SMにおけるオーガズムにまで話を展開させていた。 彼女は恥ずかしがって、自分自身については、何も具体的なことを言ってくれない。私ばかりがしゃべる。自信がないからしゃべりつづける。 だが、私の「花紐」が、彼女にとって、けっしてイヤではないことだけは、私に伝わった。「花紐」に始まるもろもろの私のしつこい行為が、いささかの快楽を彼女に与えていることだけは、すこしわかった。 みか鈴さんは言ってくれた。 「Mのオーラはセックスのオーガズムのように激しく主張しません」 私はこの言葉を、落花さんにあてはめて信じよう。 いつのまにかコーヒーショップのなかは、私と落花さんだけになっていた。閉店時刻なのだ。 私は彼女とわかれ、埼京線の大きな駅の、彼女とは反対方向の駅のホームにおりた。特別急行という電車がとまる駅である。その電車は、時刻表をみると、すぐにくる。 ホームの中程に、その特急券を売る自販機があった。五百円出すと、その電車で早く東京へ着く。だが私は、特急券を買わなかった。夜の闇のなかを走る電車にのって、できるだけゆっくりと東京へもどりたかった。 私は、かなり強く、歯で彼女の乳首を噛んだのだ。一度噛んだだけで、すぐに離したわけではない。 左右の乳首をゆっくりと交互に噛み、噛んだまま引っ張り、いきなり口をあけて乳房全体を吸い、また歯で噛み、引っ張ったのだ。それをくり返したのだ。 なのに、彼女は知らなかったという。 知っていて、知らなかったと言う人ではない。正直な人なのだ。「快楽失神」していて本当に知らなかったのだろう。 それだったら、乳首をさんざん噛んだり吸ったりしたあと、彼女の股間に顔を埋めて、つよい力で吸いなぶり、そして深い位置にある肉片にも歯をあてて噛み、同時に彼女の体の上におおいかぶさって、私のものも彼女に吸わせたことも、彼女は知らなかったのか。 彼女があまりにも強く吸うものだから、私は痛くなって、彼女の顔の上から股間を離し、ひと呼吸おいて、また口のなかに入れた。すると再び彼女は強く吸い、舌でこねくりまわしてくれた。それも、彼女は無意識のうちにやっていたというのであろうか。 私は知っている。 彼女は本当に、無意識のうちにやっているのだ。無意識のうちに、私が無言で指示しているとおりに、口をひらき、私のものを口のなかに受け入れ、夢中で舌や、唇の内側を動かしているのだ。 私ははっきりした意識のもとに、彼女の下半身の奥で舌や唇を動かしているが、彼女は無意識のうちに、夢中でやっているのだ。 それでいいのである。 だから、落花さんなのである。 私の思いも、書くことも、感じることも矛盾している。矛盾だらけだ、と思う。 これでいいのだ、と思う。 この矛盾こそが、SMの快楽なのだ。 (つづく)
「Mのオーラはセックスのオーガズムのように激しく主張しません」 「Mのオーラは痛みや苦しみがホントに嫌なことだったら反応しません」 「Mのオーラはそれを感じることの出来るSがいないと熟成されません」 まだまだMのオーラを言い尽くしたとはまいりませんが、このオーラを語るだけでも、随分長くなるのでこの辺で止めますが、Mの佇まいを表す言葉として、Mのオーラは本当にいい言葉ですわね。
(つづく)