セピア色の幻夢
風俗資料館に秘蔵されているいまから七十年ほど前の「責め写真」、大衆劇団の役者を使って撮影されたものは、以上のべた時代物の刺青男女のほかに、まだある。 強盗に入られた商家のおかみ(あるいは女中かもしれない)が、裸にされて縄で後ろ手に縛りあげられ、脅迫されている図柄が、連続写真で6枚ある。 これも館長の中原さんに拡大コピーしていただいたもので、いま私の目の前に並べてある。 これがまた、楽しいのだ。 むかしのものだから、もちろんモノクロで細部はぼんやりしている写真だが、どうしてこんなに見ていて楽しいんだろうと、ふしぎになる位にSM的に感じさせてくれるのだ。じいっとみつめていると、いろんなことが想像できて、ゾクゾクしてくる。 大股びらきに縛られ、天井から吊られて太いバイブをねじこまれている昨今のカラー写真よりも、数倍、いや数十倍も楽しく私をコーフンさせてくれる。 強盗に扮した男は、黒い服を着ている。服の上から裾の長い黒いコートを着ている(ということは、これは現代物という設定である)。黒い手袋をはめて、黒いハンチング(当時は鳥打ち帽といった)を頭にかぶり、黒いサングラス(当時は黒メガネといった)をかけ、ごていねいに黒いマスクまでしている。 要するに全身黒ずくめである。よく見ると足も黒足袋、あるいは黒い靴下をはいている。よっぽど自分の正体を知られたくない人なのだろう。 ということは、この黒装束の男は、役者ではなく、この日の撮影会に集まったマニアの一人と思われる。 こういう大げさな格好で正体を隠そうとしているところが、また楽しい。自分たちは、人には知られたくない秘密の「わるいこと」をしているのだというマニアの心情が伝わってきて、同感できる。七十数年前のこのマニアたちは、まぎれもなく現在の私たちマニアの同志だという思いがする。 顔も姿も形も(そして性器までも)さらして制作されている現在の「責め写真」が、情緒も情感も、おもしろ味も迫力も感じられないのは、当然という気がしてくる。 こういう写真の場合も「秘すれば花」であろう。 黒ずくめの強盗に扮したこの男が、もし雇われた役者だったら、これほど顔を隠すはずはない。顔や姿を見せるのが役者商売である。縛られ役の女のほうは、はっきりと顔を出している。つまり、あきらかに女優である。 前に紹介した刺青女と同じ女優のような気がする。この女優さんはアングルをちょっと変えただけで別人のような顔になるので、同一人物かどうかよくわからない。 おまけに強盗に縛られ、脅迫されている恐怖の表情が、いかにも女優らしく真にせまっているので、いっそう人相が変わっていてわかり難い。 (そういえば、いまの「緊縛写真」のモデル嬢たちは、表情らしい表情がないよなあ。どんなにひどいことをされても、なに考えているのかわかんないような表情だもんなあ。あの顔を見てコーフンしてくれって言われても、無理だよなあ……) 「商家に押し入った強盗」と書いたが、写真のなかの商家は、どうやら質屋のような感じである。 座敷から廊下をはさんで向こう側に、大きな金庫の扉が見えるのだ。いや、金庫というより黒っぽい鉄の扉である。 どうやら一室全体が倉庫になっている眺めである。私はこの数年来、明治時代に建てられた実際の質屋だった旧家をそのまま利用したスタジオへ、たびたび行って「縛り」の撮影の手伝いをする。つい四、五日前もそのスタジオで「縛り」の撮影をやった。 (ついでにいえば、その質屋スタジオのある町が、なんと「本郷」なのだ。中村座のすぐ近くなのだ。このことは改めて書こうと思っている) だから七十年前のこの写真のなかの鉄の扉の構造をみて、 (ははあ、この撮影現場は質屋だな) と、すぐにわかった。 マニアたちグループのなかに質屋のご主人がいて、その家にひそかに集まって、こういう楽しい撮影会をやったのだろう。 質屋のおかみさんに扮している女優は、日本髪のかつらをかぶっている。ということは、女の日本髪姿に、男たちが憧れとエロティシズムを抱いていた時代の写真なのだ。とすると、これは七十年どころか八十年むかし、つまり一九三〇年頃の写真かもしれない、と思えてきた。 (私が生まれたのが、一九三〇年である。私の家に残っていた私の母の十七歳のときの写真は、日本髪を結って、日傘をさして笑っている。その母のお腹には私がいる。つまり一九三〇年の東京の下町には、まだ日本髪を結った若い女が日常生活の中にいたのだ) そんな思いもあって、これはますます貴重な写真である。 この女優の体は柔らかそうで、背中へまわされた腕が高く上へあがっている。つまり、高手小手の形に縛りあげられている。 思いきりよく、こんどは全裸になっている。刺青はもうどこにも見えない。それともこの強盗と質屋のおかみさんの写真は、時代物の刺青を描く以前に撮られたものか。 高手小手に縛られたその縄尻を、質蔵の鉄の扉の前にある柱につながれている。この構図がおもしろい。女はお尻をカメラにむけているので陰毛はみえない。 お尻の形は肉づきがうすく、やや貧弱である。貧弱だが、妙にリアリティのあるお尻で、ふしぎな色気を感じる。 黒ずくめの強盗は、なにやらムチのようなもので、女のお尻を叩いている。動きがひどくぶれていて、どんな形のムチだか、よくわからない。男の手がぶれていて、ちょっと見ると何をしているのかわからないほどである。ところがそこにリアリティがあって、スピード感と迫力が生じている。 いまの精巧なカメラでは撮れない効果が表れている。 (いや、カメラの質なんかではなく、この種のSM的リアリティが表現できないのは、結局、カメラマンのSM感覚のせいかもしれない) 裸のお尻を叩かれて女は痛そうに顔をねじって唇をゆがめ、背後の男に視線を投げている。くやしそうな表情でその目もとに色気がある。 女の高手小手のぐあいがよく見え、手首の形がいいので、そそられる写真だ。高く上がっていて痛そうなので、被虐的である。やっぱり感じるなあ、高手小手。折れ曲がって背後に、やや不規則な形でねじあげられている腕や手首の存在感が、じつにいい。 大股びらきで性器丸出しの写真なんかより、この手首のほうが数倍エロティックであり、セクシーである(この良さがわからない人間がSM雑誌の編集なんかやってはいけないよなあ!)。 縄はたぶん一本だけで、ごてごて掛かってないところもいい。 女のお尻を叩いている黒ずくめの男のポーズが、いかにもシロウトっぽくておもしろい。一生けんめいにそれらしく演じようとしているが、形になっていない。強盗というよりも、この撮影会のリーダー、あるいは世話係といった感じのポーズである。どこかぎくしゃくしている。 この撮影会の熱っぽいけどなごやかな雰囲気が、巧まずしてかもしだされていて、思わず笑ってしまう。 (楽しかっただろうなあ) と思う。うらやましい気もする。 大体、強盗を目的とする男が、なぜわざわざ女を全裸にして縛ったのか、そこがよくわからないところがおもしろい。 強盗はこの鉄の扉に掛かっている錠を女にあけさせようとしているのだろう。蔵のなかには、宝石類とか骨董品とかの値打ちのあるものが、質草としてたくさん入っている。 男はそれを盗もうとして侵入してきた。ところが、質屋の女房が色っぽいので、つい裸にして縛り上げてしまったのだ。そして楽しみながら責めているのだ。と解釈するより仕方がない。心に余裕のある強盗である。 「この蔵の鍵はどこにある。蔵の扉をあけてくれれば、お前の体を責めようとは思わない。さあ、鍵を出せ」 「いやです。蔵のなかに入っているのは、お客さまから預かった大切なものばかりです。それを泥棒に持っていかれたら、もうこの商売はやっていけません」 「ふん、はっきり言やがったな。だが、お前がそう言うのは当然だ。それがわかっているから、こうやって裸にしたんだ。おれは男でお前は女だ。しかも裸で縛りあげてある。蔵をあけなかったら、おれが何をするか、わかっているだろうな」 「アア、おねがいです、乱暴はしないでください。もうすぐうちの主人が帰ってきます。私は鍵がどこにあるのか知りません。早く出て行って!」 「このうちの旦那は、今夜は寄り合いがあって、遅くならないともどってこないということは、ちゃんと調べてわかってるんだ。おい、おかみさんよ、いつまでも強情を張っていると、こういう責め方もできるんだぜ」 「アッ、アッ、なにをするんです、やめて、やめて、そ、そんなところに手を入れないで、アレ、アレ、そ、そんなことを!」 「やめてくださいと言われて、ハイそうですか、やめましょうと言ってちゃア、泥棒商売やってけねえよ。おう、可愛いケツをしてるじゃねえか、おかみさん、もっと足をひらくんだよう!」 竹の棒を使って、女の両足首を左右にひろげて縛っている写真もある。 ひじ掛け椅子の上に、女をうつぶせにして押し倒している写真もある。この場面の高手小手の形がいい。男の手がぶれていてはっきり写っていないので、妙にリアリティがあってそそられる。 竹の棒を女の下半身にあてている写真もある。これもぶれていてはっきりわからないが、男が持っているムチはこの竹の棒かもしれない。 豆絞り模様の手拭いでさるぐつわをされている写真もある。とにかく、はっきり写っていないところに、みている者の妄想を刺激する要素があるのだ。 「アレッ、そ、そんなところをなめないで、やめてください、やめて、やめて、アア、なんといういやらしいことを!」 「ふふふ……やめてやめてと言いながら、おかみさん、下腹をヒクヒクけいれんさせて、気持ちよがっているじゃねえか。ここまできたらもうたまらねえ。蔵のなかはあと回しにして、まず、おかみさんのほうからいただくことにしようか」 「アレエ、たすけてえ!」 などと、私が調子にのって、こんな芝居もどきのセリフを書いていると、あのSM雑誌の編集者は、きっとこんなことを言ってせせら笑うだろう。 「ホラ、やっぱり濡木先生、女を縛るのは、セックスしたいからなんでしょう。それなのに、縄で縛ることに快楽があるんだ、縛られた女のいろんな姿を見ることだけで満足するんだ、なんてウソばかり言う。結局は、縛った女とセックスしたいんでしょう。セックスしたいから女を縛るんでしょう。それなのに、格好つけたいから、緊縛美とかなんとかいってごまかすんだ」 こういう人には、なんと言って説明したらいいのか、わからない。 縛るだけで満足するマニアの心理を説明するのは、ほんとに難しい。 縛られるだけで満足する女性もいるということを、どんなに説明しても、わからない人には、わかってもらえない。 マニア同志だったら、ツーといえば、カーと答えて理解し合えることが、マニア以外の人にはどうしてもわかってもらえない。 だから私は、SMの話は、マニアとだけしか話さない。 フツーの人が、どんなに好奇心をむきだしにして語りかけてきても、 「ボク、なんにもわかりませんのです」 といって逃げる。 なんにもわからないというのは、じつはまあ、ほんとなんだけど。 (なぜ縄がこんなに好きになったのか、ほんとにわからない) 色っぽいおかみが留守番をしている質屋に強盗に入って、そのおかみを裸にして縄で縛りあげ、いやらしいことを言っておどかして、ネチネチ責めるところまでは、女優さんを使ってある程度本当みたいにやって(といってももちろん芝居で、実際にできるはずはない。やったら犯罪になって、楽しい気持ちにはならない)そのあとのエロティックな展開は、すべて幻想とか、妄想の世界に入っていく。 つまり芝居として途中までを演じ、そのあとは妄想快楽の世界に耽溺していく。実際にやるとなると、さまざまな制限がある。わずらわしいことが多く生じる。幻想とか妄想の世界に入りこんでしまったほうが、自由に、やりたいことがなんでもできて私たちには楽しいのだ。 妄想ではなく性器を実際に挿入させてしまうと、自分の体を女体に密着させてしまうことになり、せっかくの「縛り」が視界に入らなくなる。女体に掛けた「縄」の存在が消えてしまう。消えては困る。見ていたい。 マニアにとって「縄」の存在は、それほど重要なポイントなのだ。 縄で縛って抵抗する自由を奪っても、すぐに犯したりはせずに、その女体からすこし離れた位置で、それを観賞し、興奮し、いつまでもうっとりしていたいのがマニアの気持ちなのだ。 私のこの「おしゃべり芝居」をよく読んでくださる「みか鈴」さんというペンネームの方が、 「縛ったあとのセックスは、オマケみたいなもの」 という表現をしてくださったが、うまいことを言うなあ、と感心した。まさしく、オマケなのである。だから、なくてもいいのである。 本体のほうで十分満足できれば、オマケなんか必要ないのである。 でも、でも、わからない人には、やっぱりわからないだろうなあ。 セックスすることがオマケだなんて、とんでもないバカなことをいう種族だと思うだろうなあ。 縛った以上は犯さなかったら、なんのために縛ったのか、わからないじゃないか、しようのない変態男め、と軽蔑するだろうなあ。 そう思っている編集者や「SMビデオ」を作っている人たちに、私はさんざん軽蔑されてきました。 うわべでは納得し、わかっているような顔をしていても、内心では軽蔑し、何を言ってるんだ、変態男め、と思っていることはよくわかります。 こういう欲望がアブノーマルであり、少数派であることは、十分にわかっています。だから軽蔑されても仕方がないと思っています。信じてもらえないでしょうけど、それはそれはひどい差別と軽蔑の経験を、私はたくさん味わってきました。 ですから私は、とくに緊美研時代の会員の人たちのプライバシーを守るべく、努力してきました。十数年間も深いおつきあいをしているのに、本名も知らず、住んでいる所も知らず、どういう仕事をしているかも知らないマニアの方が、たくさんおります。 しかし、悪いことばかりではありません。私は、ノーマルな常識人たちには想像もできないほどの深い、人間的な陶酔と、恍惚の快楽世界を味わっています。 性器と性器をこすり合わせ、単純にぬきさしすることだけを目的にしたフツー人たちの性行為を、表面にはみせないけど、心のなかでは逆に軽蔑しているのです。 おや?また話が、妙な方向に外れてしまった。どこから外れたのかな? そうだ、風俗資料館でみつけた七十年も八十年もむかしの「責め写真」の話だった。 この「責め写真」の類いは、まだ資料館のなかにあるはずだから、また中原館長におねがいして、拡大コピーしてもらおう。 そしてそれを眺め、幻想と妄想の快楽世界に浸って一人で遊ぼう。 あした、私はまた「SMビデオ」の撮影のお手伝いで、一日じゅう、朝から夜まで、若くて美しいモデル嬢を縛ります。これは幻想でも妄想でもなく、現実に縛る私の「仕事」です。 縛っては解き、縛っては解き、また縛っては解く仕事……。 あした私が縛るモデル嬢は、八十年むかしの、オッパイも小さく、お尻も貧弱な旅の一座の女優さんよりも、通俗的な目でみたら、十倍も二十倍もきれいな女性です。オッパイもお尻も大きく、ウェストが形よくくびれていて足が長い、まぎれもない美人です。 そして彼女は、なんのためらいもなく、両足をガバッと自分からひろげて、かくさなければいけないところを、気前よく、元気にみせてくれます。 それを見て、監督はよろこびます。 でも、でもなあ……。 マニアというものは全くしようのないもので、あの、旅の芸人の垢がしみついているような女優さんが縛られ、責められている写真のほうに夢を抱き、幻想をふくらませ、どうしようもなく興奮してしまうのです。 古ぼけて傷だらけになっているセピア色の写真のほうに、SMの匂いを強く感じてしまうのは、けっして単なる懐古趣味ではなく、SMという無限の快楽を秘めた感覚世界の本質にせまるものだと思うのですが……。 (つづく)
「この蔵の鍵はどこにある。蔵の扉をあけてくれれば、お前の体を責めようとは思わない。さあ、鍵を出せ」 「いやです。蔵のなかに入っているのは、お客さまから預かった大切なものばかりです。それを泥棒に持っていかれたら、もうこの商売はやっていけません」 「ふん、はっきり言やがったな。だが、お前がそう言うのは当然だ。それがわかっているから、こうやって裸にしたんだ。おれは男でお前は女だ。しかも裸で縛りあげてある。蔵をあけなかったら、おれが何をするか、わかっているだろうな」 「アア、おねがいです、乱暴はしないでください。もうすぐうちの主人が帰ってきます。私は鍵がどこにあるのか知りません。早く出て行って!」 「このうちの旦那は、今夜は寄り合いがあって、遅くならないともどってこないということは、ちゃんと調べてわかってるんだ。おい、おかみさんよ、いつまでも強情を張っていると、こういう責め方もできるんだぜ」 「アッ、アッ、なにをするんです、やめて、やめて、そ、そんなところに手を入れないで、アレ、アレ、そ、そんなことを!」 「やめてくださいと言われて、ハイそうですか、やめましょうと言ってちゃア、泥棒商売やってけねえよ。おう、可愛いケツをしてるじゃねえか、おかみさん、もっと足をひらくんだよう!」
「アレッ、そ、そんなところをなめないで、やめてください、やめて、やめて、アア、なんといういやらしいことを!」 「ふふふ……やめてやめてと言いながら、おかみさん、下腹をヒクヒクけいれんさせて、気持ちよがっているじゃねえか。ここまできたらもうたまらねえ。蔵のなかはあと回しにして、まず、おかみさんのほうからいただくことにしようか」 「アレエ、たすけてえ!」
(つづく)