継子いじめ劇はおもしろかった!
八十年前の旅芝居の女優さんを縛って行ったと思われる「責め写真」の撮影会を、私の勝手な妄想のもとに、前回と前々回に書いた。つまり、いま風俗資料館に秘蔵されている古い写真を眺めているうちに、ムクムク、ムラムラと湧きだした想像をもとにして書いた話である。 この種のストーリー性のある古い「責め写真」をみていると、あとからあとから、とめどなくSM的情感が湧き出してきて、人物設定や背景などが瞬時のうちに思いつく。 そして、妄想の快楽に浸れるというわけである。この妄想力煥発こそが、「責め写真」を観賞する最大のよろこび、最高の楽しみなのである。 したがって、こういう幻想や妄想を引き出すことのできない昨今の「SM写真」と称する写真は、私たちにとってあまり魅力がないということになる(結局、股間を露出することばかりに神経を集中させ、工夫を凝らしている写真類は、緊縛写真ではなく、ふつうのエロ写真ということになる。制作者たちは、マニアをよろこばせる緊縛写真ではなく、一般的なポルノ写真を撮っているのである。そう思えば、腹も立たない)。 前回と前々回を書きながら、思い出したことがある。 旅芝居の継子(ままこ)いじめ劇のことである。 これは想像でも妄想でもない、私の少年時代に、実際に見た話である。 一九四六年(昭和二十一年)四月、私は十六歳だった。前年三月のアメリカ空軍による東京下町一帯への無差別爆撃で家を焼かれ、私たち一家は千葉県松戸市下矢切の日立製作所の社員住宅へ移っていた。 太平洋戦争末期、時の政府の強制的な命令によって、父は日立製作所亀有工場で働くことになった。これを徴用(ちょうよう)という。父の年齢がもうすこし若かったら、兵隊として中国か南の島へ引っ張られていただろう。 私も学徒動員という強制的な命令によって、父と同じ軍需工場で働かされていた。父が権力者側の組織に雇われていたおかげで、空襲によって家も学校も焼かれたが、私たち一家は、工場の社宅に住むことができたのだ。 いまのJR松戸駅から歩いて三十分以上かかる丘陵の上に、百数十戸建てられた急造住宅であった。屋根はうすい杉皮を貼りつけたペラペラのもの。土台は丸い石を並べただけのきわめて粗末な平屋建てで、一棟が四戸にわかれていた。つまり一棟に四世帯がおさまる長屋であった。 アメリカとの戦争が終わってからも、ずいぶん長いあいだ、私たち一家はこの土地に住んでいた。ほかに行くところがなかったのだ。その時代の一家の構成は、私の両親、私、弟と妹の五人である。 父はそのまま定年まで日立製作所に勤務をつづけていた。そうしないと、その社宅を追い出されるという事情もあった。 一九四五年夏から数年の敗戦後の日々、世の中は混乱の真只中にあり、飢餓と貧困に苦しみながらも庶民はしぶとく生きていた。 (私はあの時期、何を生き甲斐に毎日を送っていたのだろう) 百数十棟の社宅が建ち並ぶ丘陵の周囲は、ほとんど畑と雑木林であった。つまり田舎の風景にとり巻かれていた。 その畑を耕作して生活する地元の農家の集落があった。時代劇映画に出てくる地主様のお屋敷のような建物の農家もあれば、いかにも小作人といった感じの、貧しげな百姓家もあった。 土塀に囲まれたそのお屋敷の外側に雑草が生い茂った空地があり、一九四六年の春、どこからともなくそこへ旅役者の一座がやってきた。 そして、その塀外の空地を利用して、破れた天幕を張りめぐらして芝居の興行をはじめたのだ。 私の一家の敗戦直後の説明なんかしていて読者には退屈だったろうが、これから今回の本題に入る。 社宅の建ち並ぶ中の道を、チョン髷のかつらをかぶり、まっ白い化粧をし、衣装をつけた男女の役者たちが、リアカーにのせた太鼓をどろんどろんと鳴らしながら、「町まわり」をしているのを見たとき、私は白昼夢のなかにいるような錯覚をおこし、胸を躍らせた。 彼らはせいいっぱい着飾って愛嬌をふりまいて自分たちがやる芝居の宣伝をしていたのだろうが、私の目にはけっして美しく見えなかった。「異形のもの」という感じがした。 その「異形のもの」の行列に魅せられて、私は夜になると、お屋敷の横の空地に行った。小さな芝居小屋が作られていた。小屋というより、単なる囲いだった。 汚れた褐色のごわごわした厚い生地のテントで、客席と舞台と楽屋が囲われていた。舞台下手側のテントは、お屋敷の土塀と密着していた。そのために芝居小屋の半分が、土塀に寄りかかっているように見えた。実際、寄りかかっているのかもしれなかった。 舞台と楽屋の上だけに、囲いと同じ褐色のテントで、屋根がつくられていた。お屋敷の中から塀越しに黒いコードが長くのびていて、裸電球が数個、舞台の上をにぶく照らしていた。 客席には屋根はなかった。野天だった。椅子などはなく、刈り取られた草の上に、むしろが並べられていた。 この芝居の入場料を私は記憶していない。安かったことだけはおぼえている。東京の下町生まれで口の悪い私の父と母は、彼らのことを「乞食芝居」と呼んでいた。 ただし、その言葉に彼らへの軽蔑とか憐れみのひびきはなく、むしろ親近感をこめて、そう呼んでいた。 「乞食芝居」の狂言は、毎晩変わる。連続劇であった。入場料が極端に安いのは、お客に毎晩きてもらいたいためである。 舞台は五十センチほどの高さの何かの台を並べ、その上に板を敷いただけである。それでも舞台と客席のあいだには、引き幕があった。幕をあけたりしめたりするときに、頭上に張り渡してある針金と、引き幕についている金属の輪がこすれ合って、チャラチャラと妙にわびしい音で鳴った。 この旅の一座の舞台で、私は、はじめて「継子(ままこ)いじめ」の芝居を観たのだ。 座長は、桜仙之助といった。看板女優の桜京子は、仙之助の妻であった。 夫婦のあいだに小梅という十三、四歳の女の子と松太郎という十歳位の男の子がいた。 ほかに市村長松と市村浪江という初老の夫婦者がいて、この六人が全員役者であり、裏方もやっていた。 あと一人、頭取(とうどり)と呼ばれる「伝さん」という五十年配の男がいて、事務方一切をとり仕切っていた。 私がなぜこの「乞食芝居」一座の役者たちの名を記憶しているのか、それはあとで説明することになる。 俳優総数わずか六人の桜仙之助一座が最も得意とする演目が「継子いじめ」劇だった。得意というのは、その芝居が最も客の数を集めていた、ということである。つまり、人気狂言だったということだ。 ストーリーはきわめて単純で、或る夫婦のところへ、養女として十歳位の小さな娘がもらわれてくる。 その娘の実の両親は、はやり病とか、不時の災害とかで、不幸な死に方をしている。 孤児となって他家で育てられる運命となった少女は、新しい両親、つまり継父母によって虐待される。つまり、いじめられる。その「いじめ」の陰湿な形態を、そのまま「お涙頂戴芝居」に仕立てたものが「継子いじめ」劇である。 私の少年時代、つまり昭和二十年代頃までは、そんな芝居が「継子いじめ」物と称して、庶民の娯楽の一端を担っていた。 ためしに「継子」を広辞苑で引いてみる。 「継子」血のつながりのない、実子でない子。 「継子扱」継子を扱うように、殊更に他と区別してのけもの扱いをすること。 「継子虐」継子をいじめること。 「継子根性」継子のような、なつきにくい、ひがんだ根性。 まだあるが省略する。 芝居のなかに登場する継子は、たいてい女の子であった。男の子よりも女の子のほうが哀れっぽくて痛々しくって色気があるのは当然である。 桜仙之助一座以外で演じられた「継子いじめ」劇を、その後私はあちこちで何度か観ているが(ほとんどが寄席芝居であった)いじめられるのは女の子ばかりである。 下谷の根岸に戦災を免れた古い寄席があり、そこで観た継子いじめ劇は、男の子に女装させてやっていた。これがまた妙に倒錯的でおもしろかった。 女装した男の子供役者が、意地の悪い母親に竹の笞で叩かれる。着物の裾を大きく乱して悶え泣くシーンでは、白粉で白く塗った子役の内腿までが見えて、まぼろしのようなエロティシズムがあった。 桜仙之助一座では、いじめられる女の子を、なんと四十歳近い京子が演じた。 京子は小柄で丸顔、手足が細いので、化粧次第で難なく十歳前後の子供に扮することができた。扮するというよりも、私の目には、化けるといった感じのほうが強かった。 セリフ回しも写実的であどけなく、とくに知恵おくれのために非道にいじめられる哀れな少女をやらせたら、舌を巻くほど巧妙だった。 そして、継母である中年女を、仙之助が演じる。この座長は女形も達者にこなす。じつに底意地の悪い、にくにくしい継母になって、京子の扮した可愛らしい少女を、あの手この手でいじめるのだ。 当時は人気も勢力もあり、大衆に浸透していた、いわゆる新派悲劇を源流とする継子いじめ芝居だったが、観客にはよろこばれていた。 のぞきからくりの絵や口上、紙芝居にもなって根強く存在していたように思う。 悪達者(わるだっしゃ)というのは、仙之助一座のああいう演技のことをいうのだろう。ときには笑ってしまいたくなるような泥臭い芸だが、とにかく客をハラハラさせ、泣かせる。私がいまだに忘れられないのは、京子の扮するお花という娘が、寝小便をして、それに怒った継母が折檻するシーンだった。 いま思いついて、旺文社の国語辞典の「折檻」の項目を引いてみたら、おもしろいことが記載されていた。横道に外れるが、ちょっと書き写してみる。 「折檻」きびしく意見すること。こらしめのために肉体を責め苦しめること。漢の成帝が朱雲のいさめを怒って朝廷から連れ出そうとしたところ、朱雲が御殿の檻につかまって抵抗したため、それが折れたことから出た語。 と、ある。 フーン、知らなかった。辞書を引くと勉強になる。 ところが、広辞苑のほうはかんたんである。 「折檻」せめさいなむこと。きびしく意見を加えること。 だけしか記載されていない。「漢書朱雲伝」と出所だけが載っている。 広辞苑のほうが旺文社の国語辞典より数倍も厚くて判型も大きいのに、サービス不足である。 ま、それはともかく、仙之助扮する継母は、寝小便をした娘のお尻を、物差しでピシャピシャ叩くのだ。 「なんど言ったらわかるんだい。ほんとにお前はしつけの悪い子だよ。こんなに毎晩毎晩寝小便していたら、布団どころか、畳まで腐ってしまうじゃないか」 「おっかさん、ゆるして、私が悪うございました、もうしないからかんにんして!」 娘は可憐な声で哀願し、じっとうずくまって、物差しのムチを肩や背中に受けている。 「このお尻だよ、このお尻がいけないんだ」 継母は娘の着物の裾に手をかけると太腿のあたりまでまくりあげ、ピシャピシャと物差しで叩くのだ。 時代設定はおそらく大正末期か昭和初期のつもりなのだろう。登場人物はすべて着物であり、継母は日本髪のかつらをかぶっている。こういう一座に洋服を着た芝居はない。 裸電球だけのほの暗い照明の下でくりひろげられる折檻劇は、十六歳の少年の目に、どれほど妖しく刺激的に、映ったことだろう。 形の上では、継母がその娘をいじめるという芝居なのだが、役を考えなければ、夫である仙之助が、幼い娘に扮した妻を責めているということになる。 客が拍手をしたり掛け声をかけたりすると、仙之助はますます意地の悪い継母を熱演して、妻の京子の着物を、尻のあたりまでまくりあげて物差しを鳴らしたりするのだ。 はじめて観たときの私には、舞台の上の二人が、じつは本当の夫婦だなんてことは当然わからない。 常連らしい周囲の客たちの会話で、この一座の内部構成が私にもだんだんわかってくる。すると、継子いじめの単純なストーリーの芝居に、いっそう倒錯的な、刺激の強い色彩が加わって、私の胸をドキドキさせるのだった。 前に書いたように、この一座は連続劇が得意であった。つまり、それなりに舞台を盛り上げておいて、いいところになると、役者たちはふいに芝居を中断する。 そして舞台の上に正座すると、客席にむかって一礼し、 「このつづきは、また明晩。これからこの芝居は、ますますハラハラ、ドキドキ展開してまいります。かわいそうな娘の運命、いかがあいなりましょうか。この娘が不幸になるのも、しあわせになるのも、お客さま次第でございます。どうか明晩も、ご近所お隣さまお誘いの上、おいでくださいますよう、七重(ななえ)の膝を八重(やえ)に折り、伏してお願い申し上げます」 という口上のもとに幕をしめるのである。 こんなぐあいに客の心を引っ張る。客は素直に心を引っ張られてまた観にくる。私も引っ張られて毎晩観に行った。 客の数は限られている。松戸の市街地からはずれた丘陵地帯で農業を営む人たちと、軍需工場の社宅の住人だけである。毎晩きてもらわないと、この種の芝居は成り立たない。 どんなに折檻されても寝小便癖はなおらないので、娘はこらしめのために、庭の木に縛りつけられる。 (ああ、四十歳近い桜京子の扮した可愛らしい十二歳の娘が、着物の襟や裾を乱して後ろ手に縛られ、木につながれた姿の、なんと可憐で痛々しく、美しく、そしてエロティックだったことだろう!) むしろを敷いただけの客席の片隅にすわり、私は息をひそめ、恍惚となって桜京子を眺めていた。裸電球のにぶいあかりの下で、かすかな泣き声をあげながら悶えている京子のはかない美しさは、十六歳の私の胸をキリキリとしめつけた。 継母は奥へ引っ込み、木に縛りつけられたままの娘の前に、旅の薬売りが登場する。 座員の一人、市村長松の扮する越中富山(えっちゅうとやま)の薬売りである。人情深い老行商人という設定である。 薬売りは娘に同情し、縄を解き、逃がしてやるから一緒においでと言う。 娘の手をつかんで逃げようとしたとき、片手に出刃包丁をつかんだ継母が現われ、 「逃がすものか、その娘はもうすこし大きくしてから、芸者に売るつもりだ!」 と、鬼のような形相になって見得(みえ)を切る。 ここで、チョーンと柝(き)が入って芝居は中断され、おあとは明晩、という口上になるのである。 つぎの夜になると、逃走に失敗した娘に、前よりもひどい折檻が始まるという筋書きになる。こういう魅力的な連続劇を、私が見逃すはずがない。 (つづく)
「継子」血のつながりのない、実子でない子。 「継子扱」継子を扱うように、殊更に他と区別してのけもの扱いをすること。 「継子虐」継子をいじめること。 「継子根性」継子のような、なつきにくい、ひがんだ根性。
「折檻」きびしく意見すること。こらしめのために肉体を責め苦しめること。漢の成帝が朱雲のいさめを怒って朝廷から連れ出そうとしたところ、朱雲が御殿の檻につかまって抵抗したため、それが折れたことから出た語。
(つづく)