桜仙之助一座
桜仙之助一座の「継子いじめ」芝居には、単純なストーリーの中にも、それなりにさまざまな趣向があった。 毎晩観にくるお客を飽きさせないような配慮がされていた。 日替り芝居の知恵といったものであろう。 寝小便ばかりしているお仕置きとして、庭の立ち木に縛りつけられた娘は、旅の薬売りの老人にいったんは助けられるが、桜仙之助扮する鬼のような継母の手によって、再び引きもどされる。 そして、さらにきびしい折檻をうけることになる。 「ちくしょう。これまで育ててもらった恩を忘れやがって、なんてまあ、いけっぷとい餓鬼なんだろう。もうすこし大きくなったら、女郎屋にでも叩き売って金にしてやろうと思っていたのに、恩知らずの小娘だ。ええまあ、腹の立つ。どうするか、おぼえているがいい」 継母は哀れな娘を、再び縄で後ろ手に縛りあげて、舞台の中央に引きすえる。娘は、 「ゆるしてください、かんにんして!」 と可憐な声をだして泣くばかりで、抵抗しない。おとなしく縛られるままである。 継母の怒りを、仕方がないと思ってあきらめる従順な娘なのだ。自分は継子だから、どんなにひどい目にあわされても逆らえないと思いこんでいる。 そういう素直な弱々しい風情(ふぜい)で責められる娘の悲痛な姿に、客席にいる少年の私は、たまらない魅力を感じてひきこまれるのだ。 「もうけっして逃げたりしませんから、どうかおっかさん、かんにんしてください!」 哀れっぽく体をくねらせながら許しを乞う十一、二歳の少女を、仙之助の妻の京子は、四十歳に近いベテランの女役者らしく、いやらしい位に巧妙に、お客の同情を買うオーバーな演技で熱演するのだ。 なんて臭い芝居をする女優なんだろうと、私はなかば呆れながらも、縛られて悶える京子の姿の痛々しさに、目も心も奪われてしまう。 いま思うと、私以外のほかの観客たちは、この継子いじめの芝居を、「純粋」に、芝居として楽しんでいたに違いない。 私だけが、責められる少女の姿にエロティシズムを感じ、心中ひそかに嗜虐的快楽をむさぼっていたのだ。 「いくら哀れっぽい声を出したって駄目だよ。お前のような根性のまがった餓鬼は、口で言ったって無駄だ。体に教えこむのが一番なんだよ」 怒りのおさまらない継母は、後ろ手に縛った少女を、火鉢の横に押し倒し、上からのしかかる。そして、娘の片方の足首をつかんで二、三回引きずりまわし、憎々しげに唇をゆがめて、おそろしいセリフを吐くのだ。 「二度と逃げられないように、足の裏を焼いてやるからね。覚悟おし」 火鉢のなかには、先端が赤く焼けたコテがさしこんであるのだ。 コテというのは、いまはもう見られなくなってしまったが、アイロンを小さくしたような鉄製のもので、長い柄がついている。布地のしわをのばすための道具であり、戦前はどこの家庭にもあった。 継母がつかんで火鉢のなかからぬき出した鉄のコテの先端は、赤い色で塗られている。つまり、すでに炭火で焼けている、という設定である。 その焼けている先端を、継母は自分の顔の前に近づけ、唇をとがらせてフウッと息を吐きかけ、 「おお、熱い、熱い、よく焼けている。こいつでお前の足の裏を焼いてやるから覚悟おし」 赤いのは色が塗ってあるだけで、実際には熱くもなんともないことを客はみんな知っているのだが、継母のたくらんだこのお仕置きのおそろしさにふるえあがる。 十六歳の私もふるえあがり、胸をドキドキさせる。 「なんて憎たらしい母親なんだろう、かわいそうだねえ、あの娘」 と、私の後ろにいる農家のお婆さんが、うめくような声を出している。その隣にいる連れのお婆さんも、よれよれの手拭いで鼻から下をおさえながら、うん、うんとうなずき、 「かわいそうだ、かわいそうだ、なんとかしてやらにゃあ、あの娘、かわいそすぎる」 しわだらけの目から涙を流しているのだ。 こんな客席の反応は、すぐに舞台に届いて、 「熱い、熱い、おっかさん、かんにんして、熱い、熱い、やめてよう!」 せいいっぱい悲痛な声をあげ、京子は熱演する。逃げようとするが、片方の足首を継母の手につかまれているのでもがくばかりである。着物の裾がひるがえって、膝から上の太腿がちらりと見える。 照明は裸電球だけなので舞台の上はうす暗いのだが、その暗さゆえに、逆に哀れな少女の太腿が白く浮かびあがって見えるのかもしれない。 ぼんやりと、まぼろしのようにともっているあかりの下で演じられる継子いじめのシーンは、芝居でありながら、はっきりと見えない暗さのために、この世のものとは思えない妖しいエロティシズムが漂うのだった。 なまあたたかい春の夜風がテント張りの小さな芝居小屋に吹いて、天井からぶら下がっている裸電球をゆらゆらと揺らす。 すると役者たちの顔の陰影も微妙にゆれ動いて、役者自身も気づいていない、生き生きした不気味な効果が生まれるのだ。 「ふん、いくらみじめったらしく泣きわめいたところで、あたしゃもうだまされないよう」 継母は娘の体をポンと足蹴にする。そして手にしたコテを大きく頭上にふりかぶって見得を切り、 「この熱く焼けたコテを、お前の足の裏に」 調子を張りあげてせせら笑い、それをきっかけにして、チョーンと柝が入る。 「このつづきは明晩」 ということになり、チョンチョンチョンという柝の音とともに幕がしまる。 なんとも臭い幕切れだが、独特のリズムとテンポがあって妙に気持ちよく、客は芝居の流れに乗せられて思わず拍手してしまう。 こんな調子で、継子いじめ劇は毎晩つづくのだ。 「今夜も行くのかい、熱心だねえ」 と、母があきれ顔で私に言った。どこからかやってきた旅の露天芝居を、私が毎晩観にいっていることを、母は父に告げた。 それは私を非難するような口ぶりではなく、その逆で、私も行きたいという弾んだ声であった。 「そうかね。こんな田舎にやってくる乞食芝居が、そんなにおもしろいかね?」 父は笑いながら私にきいた。 じつは、父も母も、私以上に芝居好き、芸事好きなのである。 「いや、べつにおもしろくはないよ。ただ、地面にむしろを敷いただけの客席で、屋根もなくて、雨が降ると休みになる芝居なんてめずらしいからさ、めったに観られないと思ってね」 と私は、自分の本当の心をごまかして返事をした。 それから二、三日後の夜、私が仙之助一座の芝居を観ている最中、ひょいとふり返ると、うしろのほうに父と母が並んですわっていた。 (きたな) と、私は思った。意外ではなかった。そんなにおもしろいのかね、と父が私に言ったときから、予感があった。父も母も芝居好きであり、そして物好きであった。 私がおどろいたのは、その夜終演後、父はわざわざ舞台横の楽屋をたずね、仙之助夫婦に祝儀をやったことである。 戦後すぐの、みんな貧しい、食べるものもない時代であり、私の一家も困窮生活がつづいていた。 明日はどこかへ飛んでいってしまう旅芝居の役者に、祝儀なんかを出す余裕が、我が家にはないはずなのである。なんというバカな親なんだろうと、私はあきれた。 その夜は土曜日で、翌日は父も勤務が休みだった。昼近くなって父が起き出したころ、仙之助と京子夫婦が、昨夜の祝儀のお礼を言いに、私の家へやってきたのである。 「わざわざ礼にくるほどのものを上げたわけでもないのに、あんた方は律儀だねえ」 と、父も母も上機嫌で、旅役者の夫婦を接待した。 当時の庶民層では最高級のごちそうであるさつまいものふかしたものを昼飯に食べさせた。それがどんなに貴重な食料であったか、戦中戦後の耐乏生活を経てきた者として、この時代の食いもののひどさを書きたい気持ちがあるのだが、ほかの人たちの体験記がいろいろあるので、ここでは遠慮しよう。 母は、 「二人の子役さんに持っていておやり」 と言って、残ったさつまいもを包んで、みやげに持たせてやった。 前述のように、この夫婦には小梅と松太郎という子供がいて、二人とも子役として舞台で働いている。 母が渡したみやげの包みを、京子が両手で押しいただいて礼を言ったとき、私の腹はそのさつまいもが食べたくて、グウと鳴った。 自分の子供たちには、さつまいもの葉っぱや蔓を乾して粉にしたものを丸めて固めたスイトンしか食べさせてくれないくせに、なんてひどい母親なんだ、と私は思った。 (やっぱり当時の飢餓生活の愚痴が出た。もうやめよう。こんな色気のない話は書かないようにしよう。……でもなあ、恋しさと、ひもじさとをくらぶれば、恥ずかしながら、ひもじさが先、というからなあ) 舞台では、あんなにも弱々しい、可憐な娘を演じて私を興奮させた京子が、昼間の明るさのなかでは、世帯やつれした小柄で貧相な中年女にしか見えなかったことに、私はすこしがっかりした。 大げさにいえば、「夢がくずれた」みたいな感じがした。 舞台の上の継子と、私の両親の前でぺこぺこ頭を下げながら、うまそうにさつまいもを食べている女とは、全くの別人だった。 だが、これが芝居というものだな、と私は思った。 さあ、これから、どういうふうに書こうか。いや、どういうふうにも、こういうふうにも、事実をそのまま書くより仕方がない。 私にもすこしは虚栄というものがある。あまり自慢にならない話なので、これまでどこにも書かなかった。しかし、いつかは書かねばならないと思っていた。 仙之助夫婦はその後、二、三度、私の家へ遊びにきた。芸事の好きな父は彼らの来訪を歓迎し、旅役者の苦労話なんかをいろいろとききだしていた。 小屋のほうはやがて客の入りがすこしずつ悪くなり、一座はこの土地を離れて、つぎの興行地へ移動することになった。 その巡業先である茨城県の或る村の舞台から、なんと私は、桜仙太郎と名乗らされて、乞食芝居一座の役者になっていたのだ。 私が仙之助にたのんで、一座に入れてもらったわけではない。仙之助のほうから頭を下げて、 「三カ月でいいから、あたしの一座をスケてやってください」 と言ってきたのだ。スケるというのは、助ける、助演してくれ、という意味である。 しかし私には、スケるほどの経験もなければ、実力もない。断ったのだが、仙之助は必要以上にへりくだって、頭を下げ、両手をついて私にたのむ。まさしく乞食芝居だ。 私はウーンとうなり、なかなか決断できなかった。 (芝居をやるのはいいけれど、こういう一座では、あんまりうれしくないなあ) という見栄があった。 いわゆるドサ回りの常識として、台本のない口ダテ芝居を、日替わりでやるという自信もなかった。 私は、じつは学徒動員令とかいう権力者からの命令で、軍需工場へつれていかれたとき、武器を生産する仕事には一切つかずに、工員を慰問する演芸とか、芝居ばかりやっていたのだ。 日立製作所の武器製造工場は、亀有だけでなく、当時は東京周辺のあちこちに従業員数千人という規模のもとにあった。 そういう工場を巡回して、働いている従業員たちに娯楽を与える組織に私は組み込まれていた。 (このときのことは河出文庫の「『奇譚クラブ』とその周辺」の中にすこし書いてある) その慰問団というのは、銃をとって敵と戦うには年をとっている男たちを徴用し、その中から、芸人、俳優、演劇関係者たちを選出して集めたもので、海千山千のプロばかりが揃っていた。当時十五歳の私は、一座に子役がいないから、という理由で参加させられたのだった。 仙之助は、私にそういう舞台歴があることを知って、スケてくれないかと言ってきたのだ。そのことを彼にしゃべったのは、私の父にちがいなかった。 ふつうの、常識的な家庭の親だったら、おそらく辞退するところだろうが、私の父も母も、仙之助の誘いをあっさり承知してしまった。 承知するというより、私の親は子供に対して、全くの放任主義だった。放任主義といえば聞こえはいいが、無責任だった。子供が何をやらかそうが、文句を言わず、叱りもせず、放りっぱなしだった。人間の生き方について、信念とか自信とかを全く持たない人だった。ひとことで言えば、気の弱い、小心者だった。 (私は、私の父の一風変わった性格を、いつかもっとこまかく書かねばいけないと思っている) 仙之助の誘いに、結局、私も承知した。私がもどるべき学校は、戦災の痛手からまだたちなおれないでいた。 旅の一座に加わるということは、私は両親の家を離れ、仙之助に私の衣食住をまかせるということであった。つまり食糧難の折柄、結果として私の巡業参加は、私の一家の口べらしになるのだった。 「田舎ばかり回るので、米のメシにはありつけます」 と仙之助は私に言った。 ひとことで言うと、仙之助はいい人間だった。人柄がよかった。目が小さく、鼻と口ばかりが大きくて上品な顔とはいえなかったが、口のきき方はおだやかで、けっして下品ではなかった。私は仙之助の誠実な人柄に引きずられた形であった。 それにしても、このとき私は十六歳である。二枚目はできないし、といってもう子役の柄ではない。 一座に加わっても役に立たないのではないか、という不安があった。役者として使いものにならなかったら、雑役でも使い走りでもいいや、という気分に私はなっていた。旅役者ぐらしの中に入っていくという冒険心、そして好奇心が、むらむら湧いてきた。 役者として舞台に立てるだろうか、という不安は、すぐに解消した。 私の初舞台は、前述のように巨大な軍需工場で組織された演劇団で、じつは女形であった。 「血煙高田馬場」という、中山安兵衛(のちの堀部安兵衛)が叔父の仇討ちをする時代劇で、私はかつらをかぶり、振袖の衣装をつけて堀部弥兵衛の娘をやらされたのである。 このときのセリフを、いまだにおぼえている。 「だいじな仇討ちに縄襷(なわだすき)は不吉。これこの扱帯(しごき)を……」 というのである。 父からこのことを聞かされた仙之助は、私を若女形(わかおやま)として一座に誘ったのかもしれない。 桜仙之助一座のつぎの興行地は、茨城県の或る村、と私は書いた。それは取手町(いまは取手市になっている)から出ている私鉄の沿線の村々であった。 このへんのことを正確に、私鉄の駅名とか地名とか村の名前を入れて説明すると興味ぶかいと思うのだが、どうもさしさわりがありそうなので、わざとあいまいに書くことにする。 しかし、ああ、数えてみると、いまから六十年もむかしのことである。 あれからもう六十年も経ってしまったのだ。六十年経ったら、何を書いてもいいような気もするが、そうもいかないだろう。 私にとっては忘れることのできない、ときにはバラの花が咲きにおうようななつかしい思い出になっている過去でも、そうとは思わない人々もいる。迷惑がかかってはいけない。だからやはり、地名、人名、その他はあいまいにしておこう。 仙之助の妻の京子は、常磐線取手駅から西北に向かって走っている私鉄の某駅の駅長をつとめ、この地方では有力者と呼ばれる人物のお嬢さんだったのだ。 ひとことで説明してしまえば、駅長の娘が旅役者の男つまり仙之助に惚れて家出をして、一緒になった。そして娘自身も旅役者になって、仙之助との間にできた二人子供共々、ドサ回りをやっている、とこういうわけである。 このことを私が知ったのは、私が松戸をあとにして、仙之助一行と共に茨城県へ移り、その駅長さんの家に泊めてもらうようになったときである。 「ここはあたしのかみさんの実家でね、はじめのうちは、あたしたちの稼業を嫌って反対していたんですけど、いまはわかってくれて、ありがたい後援者なんですよ」 と仙之助は、いつもの人のよさそうな笑みをうかべながら私に言った。 はじめは反対していた親も、いまでは仕方なく娘の生き方を認め、孫も二人いることだし、一座の後援者になっているという事情は、おぼろげながら私にも理解できた。いまは駅長の役も定年退職しているという。 以上、私が仙之助と知り合ったいきさつを、やや長く説明した。自慢にもならない旅役者の端くれになるまでの事情を、こんなにくわしく書くつもりはなかった。 読者はきっと退屈されたことだろう。だが、これを書いておかないと、あとの話がどうも嘘くさくなるような気がする。 私は通俗小説ばかり書いて五十年間暮らしてきた人間なので、読者を退屈させることを極端に怖れる。 (読者を怖れてばかりいるから、ろくな小説が書けない、ということもわかっている) というわけで、これからすこしばかり、エロティックな場面になります。じつは、それを書きたいために、仙之助や私の父親のことを、ぐだぐだと説明してきたのです。桜仙之助、京子夫妻の娘の小梅に、私がさんざん悩まされる話です。 小梅というのは、もちろん芸名です。十三歳です。桜仙之助も京子も、もちろん芸名です。 こういう話になると、私はなぜか安心して書けます。私はやっぱり、こういうエロ話が好きな人間なのです。 (つづく)
(つづく)