濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第三十三回
小梅の赤い米粒乳首
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小梅との話を告白する前に、やはりこの旅回り(私たちの間では旅回りのことをドサといった。軽蔑あるいは自嘲のひびきをこめてドサ回りといった)一座のことを、もうすこし説明しなければならないだろう。
桜仙之助一座の演目(だしもの)は「継子いじめ」ばかりではない。歌舞伎の真似事みたいな芝居から、新派系のお涙頂戴物(継子いじめもこれに入る)、曾我廼家(そがのや)系の人情喜劇などもやった。
その土地の客の色合いをみて、どんどん変えていく。なにしろ日替わり芝居である。新派とか曾我廼家系の芝居のことをここで説明すると長くなるので省略させていただく。
ああそれから、昭和十年代まで絶大な人気のあった梅沢昇、金井修の剣劇一座の演目からぬすんだ(いや頂戴した)芝居も多い。その梅沢や金井の剣劇も、新国劇の亜流なのだが、そこまで説明すると話は果てしなくひろがってしまうので省略する。日本の大衆演劇史の知識を、ここで私がひけらかしても仕方がない。
ただ、これらの芝居をやっている劇場へ、父親に連れられて、子供の私がひんぱんに通っていたということだけ書いておく。つまり彼らの舞台を実際に観ているのである。
いけない、また話が横道に外れてしまった。こういう横道は、読者にとって、さほどおもしろくないにちがいない。話をもどす。
桜仙之助劇団は、開幕と同時にレコードの伴奏と歌による「舞踊ショー」を、三十分から四十分間位やる(これもそのときの客の顔色をみながらやる。この種の踊りを喜んでくれる客だと判断したときは、一時間以上続けてしまう)。
仙之助と京子夫婦の長女と長男、つまり小梅と松太郎が、この舞踊ショーでは大活躍する。
「赤城の子守唄」とか「大利根月夜」とか「旅姿三人男」とか「妻恋道中」とかの股旅演歌のやくざ踊りが多い。
小梅は十三歳、松太郎は十歳である。二人の子供が、やくざ者のむしりのかつらを頭にかぶり、衣装をつけて刀をさし、いっぱしの格好で踊る姿には愛嬌があり、客は無条件で拍手喝采する。
とくに体の小さい松太郎には、客席から「可愛い、可愛い」の歓声があがり、舞台めがけておひねりが飛ぶ。おひねりの中身はむろん現金で、これが一座全体の収入源の一つとなる。
この一座での私の初舞台は、前にもちょっと書いたが、茨城県・取手市(当時はまだ取手町だった)を始発駅とする私鉄の沿線にある某駅の駅長さんの自宅の庭であった。
門構えの二階建てで庭も広く、その庭に客席が設けられていた。ただし松戸のときと同じように、地面の上にむしろを敷いただけの客席である。
庭に面した八畳の部屋と縁側が舞台になるのだ。客席と縁側のあいだには引き幕が張られ、一応舞台らしい形になっている。
松戸からこの茨城の村の駅長の家へ一座が移動してきた夜、舞台になる部屋の壁に黒幕を張りながら、仙之助が私に言った。私もその黒幕を張るのを手伝っていた。
「ここは京子の実家なんですよ。はじめ京子と私が一緒になったころは、親父さん怒って、この家にも出入り禁止だったんですが、孫ができたら私たちのことをゆるしてくれました」
村へやってきた旅回りの役者つまり仙之助に、この土地では名士である駅長の娘が惚れて家出をして、とうとう自分も舞台へ出るようになってしまった。地位も名誉もある堅気の父親が激怒するのは当然で、しばらくのあいだは勘当同様の断絶状態だったという。
それが、孫が二人できたいまでは、自分の家の庭まで提供してくれている。
「いい人なんですよ、お父さん」
と、仙之助は感謝の微笑をうかべ、その父親がいる奥の居間のほうにむかって、ぺこりと頭を下げた。
座長の人柄のよさが、お父さんにもわかってるんですよ、と私は心のなかでつぶやいた。座長に対して十六歳の新米役者がこんななまいきなこと、口に出しては言えない。
小梅と松太郎が活躍する舞踊ショーに、私も出るように仙之助に命じられた。
「ぼく、踊れません」
私はすぐ首を横にふって言った。
「小梅に教わりなさい、一時間もけいこすれば踊れるようになります」
と、仙之助は軽く笑って言った。そして庭で客のすわるむしろを敷いていた小梅を呼ぶと、
「今夜幕があくまでに、仙太郎さんに何か一つ二つ、教えてやりな」
と命じた。
「はァい」
と小梅はふてくされたような顔で、ぶっきらぼうに返事をした。七時の幕あきまでにあと二時間しかない。私はおびえた。
小梅は私に浴衣を着ることを命じ、自分も赤いスカート姿から浴衣に着替えた。
そして、頭取(とうどり)の伝さんを呼びつけ、驕慢な口調で、
「仙太郎さんに踊りのけいこつけるの。レコード回して」
と命じた。私の知らない小梅の顔だった。伝さんはもう五十の半ばを越していると思われるこの業界の大先輩である。
その伝さんが気軽に、
「はいよ」
とこたえて踊りのけいこの仕度をしてくれた。
(座長の娘だから、威張ってるんだな)
と、このとき私は単純に思った。
小梅が達者に踊ることは、松戸の興行のときに毎晩みていて知っていた。十三歳ということだが、踊るときには客受けを狙って、わざと七つか八つの愛くるしい顔をつくる。そして、いやらしいくらいにあどけない振りで客に媚を売る。
私はそんな小梅を可愛らしいとは思っていたが、松戸のときは京子が悩ましく縛られ、痛々しくいじめられて悶える継子いじめの濃密な芝居のほうに気をとられていた。
仙之助と京子は松戸の私の家に何度か遊びにきている。そのときの夫婦の舞台以外での顔や姿を私は知っているが、娘の小梅の日常の素(す)に間近く接するのははじめてだった。
私に踊りを教えるときの小梅の物腰は、へんにおとなびていて、くそなまいきだった。ひねこびていて、驕慢というより傲慢に感じるときもあった。小学校もろくにいかないで旅から旅の舞台で踊ってばかりいて世間の風を知らないから仕方もないが、まず口のきき方が乱暴でなまいきだった。
小梅は私に「勘太郎月夜唄」と「旅笠道中」を教えた。おどろいたことに、舞台の外で赤いスカート姿でいるときの小梅は当然パンティをはいていたが、浴衣を着てけいこに入ると、下着は一切つけなかった。
(パンティとうっかり私は書いたが、当時はショーツなどという薄布の小さなものはなく、ズロースと呼ばれるぶかぶかした下着だった。いまから数年前にノーパン喫茶というのが話題になったが、この時代にそういう店があったら、さしずめノーズロ喫茶とでも呼ぶのだろう)
夏にむかう季節なので寒くはなかったが、小梅は下着をつけずに、裸の上に直接浴衣を着ただけであった。
日本舞踊では、けいこのときから洋風の下着はつけてはいけないことになっている。とくに女踊りの場合、着物の下にショーツなどはいて踊ったら、色気がなくなると言われている。
しかし、いくらけいことはいえ、腰巻もつけず、肌襦袢も着ないで、いきなり浴衣だけというのも大胆である。
舞踊ショーの男踊りの場合は、旅をゆくやくざ姿が多いので、けいこのとき浴衣の下にパンツをはいていても叱られることはない。舞台では半股引のパッチをはいたり、手甲(てっこう)脚絆をつけたりするからだ。
仙之助一座の男優たち(といっても伝さんを入れても三人だけだが)は常に手拭い一つの越中褌をつけていた。(私も翌日のけいこのときから越中褌をつけた)
舞台になる縁側の下手(しもて)のほうで伝さんがレコードを回してくれ、「勘太郎月夜唄」のけいこが始まる。まず小梅が踊り、それを手本にして私が手足を動かし、首をふる。仏頂面でやる気のなさそうだった小梅が、いざとなると気分を出し、ときどききびしい声を発して私を指導するのだ。
私より三つも年下の女の子に、やくざ踊りの「いろは」の「い」から教わるのはくやしいが、郷に入ったら郷に従えだと私は思い、すぐに夢中になった。
そのうちに、ハッと気づいた。小梅の浴衣の襟もとがはだけ、十三歳の女の子の肌から滲みだす汗の匂いが、私の鼻さきをよぎったのだ。浴衣の襟はさらにひろがり、小さくふくらんだ小梅の乳房が私の目に入った。その可愛らしさに、一瞬私は息がつまり、めまいがした。未成熟の少女のもつ乳房の形のエロティシズムに私は圧倒された。
そのときまで私は小梅を子供だと思っていたのだ。私のエロティシズムの対象は、母親の京子だった。いや、現実の京子ではない。京子が舞台の上で縛られ、責められつづける継子いじめの芝居のなかの痛々しい哀れな娘の面影に惹かれて、茨城の小さな村までついてきたともいえる。
だが、いま目の前に、小さいながらももっこりとふくらんだ小梅の乳房が、悩ましい汗の匂いを発し、生き生きと呼吸している。小さいがゆえになまなましく新鮮で、エロティックなのだった。
重々しくゆれる大きな乳房は母親の乳房で、母親はもうエロティシズムの対象にはならない。私に体を密着させるようにして熱心に踊りを教える小梅の浴衣の襟もとはさらに乱れてひろがり、肌から匂いでる汗に甘さが加わった。
小梅の荒い息遣いをすぐ顔の前に感じ、同時に浴衣のかげの小さな乳房の頂点についている赤い米粒のような乳首をみたとき、衝撃的なエロティシズムに私の両足の膝がふるえた。その衝撃に負けまいとして、私は小梅の教えるとおりに手足や腰を動かした。
踊りのきまりどころになると、小梅は上半身をひねって袖をひるがえし、大胆に両足をひろげてポーズをきめる。浴衣の裾が大きく左右に割れて太腿までがさらけ出した。
じつは、小梅がズロースをはいてないことを知ったのは、このときだった。私の目に、仄白い少女の股間がみえた。十三歳の少女が放つエロティシズムに私はうちのめされた。
私が一人で踊らなければならない「勘太郎月夜唄」のけいこは一応終わった。けいこというより振り付けというべきか。いや、振り付けというより、体や手足の動かし方の順序を教わっただけである。
もう時間がないから、それでいいわ、仕方がないわ、と小梅はおとなびた口調で私に言った。
私が踊らなければならないもう一つの「旅笠道中」を、小梅は二人で踊ろうと言いだした。私と小梅がコンビで踊るのだ。
惚れた男が旅に出る。そのあとを追いかけて一緒に旅をする女の踊りだった。これもやくざの股旅演歌だった。
「仙太郎さんは舞台の真ン中に立って、なんとなく調子をとって動いていればいいの。あたしがそのまわりで、曲に合わせて踊るから」
と、小梅はゆるんだ浴衣の帯をしめなおしながら、あいかわらず、こなまいきな口調で言った。
だが、さっきまでの仏頂面が、だいぶやわらかくなっている。考えてみれば、私と小梅がこんなに向かい合って言葉を交わすのは、はじめてなのである。
小梅も小梅なりに緊張していたのだ。私が踊りを一つおぼえたので、その緊張感がゆるんだのかもしれない、と私は思った。
「旅笠道中」は、たしかに私と小梅のコンビの踊りだが、私は立ってうろうろしているだけで、小梅だけが私の右へ行ったり左へ行ったり、前へきたり後ろへまわったりする。
一度に踊りを二つおぼえるのは素人の私には無理だから、一つはただ立っているだけ、という座長の娘らしい配慮だったのかもしれない。
曲の途中で、小梅は踊りながら大胆に私に抱きついてきたりした。私の胸に両手ですがりつき、色目を使って下から私の顔をのぞき上げるような振りもあり、そんなとき私は目を合わすことができず、どぎまぎした。
小梅の身長は私より十五センチ位低い。どぎまぎして、おそらく顔を赤くしているにちがいない私をみて、小梅はおもしろがっているのかもしれなかった。私に踊りを教えながら、小梅は私の心を責めなぶっていたのだ。
その夜の私の化粧と衣装の着つけは、一座の市村浪江にやってもらった。この業界のベテランでもう四十を過ぎている浪江は、もともとかつらの手入れをする床山(とこやま)で、下座の三味線を弾き、太鼓を叩き、役者もやるという器用な女性だった。私の顔に白粉をぬりながら、
「つらいこともあるだろうが、こんなご時勢だから、まあ我慢するんだね。いまどきおまんまの心配をせずに毎日を暮らせるなんて、ありがたいことなんだから」
などと言った。
東京大空襲の夜、両親、夫、三人の子供、すべて焼け死んだという不幸な人だった。いまの夫の市村長松とは一年前に知り合って、まだ籍は入っていないということである。しかし明かるく笑いながら私に、
「あんた若いから、これからおもしろいことがいっぱいあるよ」
と言った。
駅長さんの自宅の庭に、七十人位の人が集まった。「舞踊ショー」が始まり、まず小梅と松太郎のコンビで「野崎小唄」を踊る。小梅がお染めを、松太郎が久松を踊る。久松のほうがお染より体がぐんと小さく、客席を明かるく笑わせる。
そのあと、私が「勘太郎月夜唄」をどうにかこうにか踊り終えた。舞台の袖に引っ込むと小梅が寄ってきて私の耳もとで、
「あれじゃ踊りじゃなくてラジオ体操だ」
と、悪口を言った。
つぎに京子が「むらさき小唄」を、仙之助が「大利根月夜」を踊ったあと、私と小梅のコンビによる「旅笠道中」となる。
緊張して、ドキドキしながら座長の踊りが終わるのを待っているとき、横に立っていた小梅が、いきなり私の胸にすがりついてきた。そして、
「これから仲良くやろうね」
と言うと、唇をつきだしてきた。舞台に出る寸前だったので私はびっくりし、反射的に顎を引いてその唇を避けた。
小梅は私の目を凝視していたずらっぽくニコリと笑った。そして、二度三度と赤くぬった唇を小さくとがらせて私の唇に飛びついた。私はのけぞって避けた。この少女がおそろしくなった。
やくざな男を追いかける、やくざな女の化粧をしているせいか、小梅の微笑はひどく艶っぽく、おとなびていた。舞台の袖の暗い片隅で、出(で)を待ちながら体をすり寄せてくる小梅の存在が不気味だった。小悪魔のようにも思えてきた。
体を固くしてふるえている私に、小梅は笑って言った。
「ウソよ。いま接吻したら、口紅が落ちるわ。ウソにきまってるじゃないの。バカねえ、仙太郎さん」
旅回り一座の少女は「キス」といわずに、接吻(せっぷん)という古い言葉を使った。このことだけが鮮明に記憶にあるが、「旅笠道中」をどんなふうに踊ったのかはおぼえていない。
その夜十一時半をまわって、一座の人たちみんなが入ったあとの、白粉の垢がギタギタ光って浮いている風呂に、私は一人で浸っていた。田舎の家の風呂場は暗い。風呂釜の薪はほとんど燃えつくしていたが、煙の匂いは残っていた。
すると、ガラスの向こう側から、小梅が声をかけてきた。
「仙太郎さん、入ってる?私も入るからね」
私が返事をしないうちに、風呂場のガラス戸があいて、全裸の小梅が入ってきた。湯気のなかに少女の裸身が浮かびあがり、近づいてきた。私はあわてた。小梅は二時間も前に、先に風呂をすませているはずだった。
子供っぽい動作で湯舟のふちをまたいで片脚を湯のなかに入れてきたとき、自分の股間をわざと私の顔の前に見せつけるように近づけた。うっすらと煙のように生えている陰毛を私は見た。
あわてて湯のなかから立ち上がろうとする私の両肩を、上から無邪気に、いたずらっぽくおさえつけながら小梅は言った。
「仙之助も京子も、いつもお風呂の中でこんなことしてるんだよ。それから、長松さんと浪江さんも一緒に入るんだよ」
この少女は自分の父親と母親のことを、仙之助と京子、と呼びすてにするのだ。
湯のなかに体を沈めると、私の背中に両腕をまわしてきた。湯舟のふちから、ザーッと湯があふれ流れた。白い湯気が風呂場にこもった。私も小梅の背中に両腕をまわした。一人用の木製の風呂桶である。体を密着させなければ二人は入れない。
少女の体は固くもなく、やわらかくもなく、しなやかな植物の茎のような感触だった。湯のなかで抱きしめたせいで、あんなにもしなやかだったのだろうか。私の胸は、小さくふくらんでいる少女の乳房を受けとめていた。ずいぶん長いあいだ、湯のなかで抱き合っていたような気がするが、実際は五、六分程度だったにちがいない。
抱きしめていると少女の肉がすこしずつ溶けていき、やがて一本の針金のように骨だけが私の胸のなかに残るような気がした。
あれから六十数年がたつ。
二〇〇八年三月半ばの某日、きのうも私は緊縛写真撮影の現場にいた。
だが、きのうのモデルの顔も、体の形も、そして、どんなことをやったかも私は忘れている。名前だけは手帳にメモしてあるので、それを見ればわかるが、顔はもう思い出せない。モデルの肉体に触れた感覚も、もうこの手に残っていない。たとえば、街でばったり出会ったとしても、だれだかわからないくらいに忘れている(実際にそういうことがあった。恥ずかしいことだが)。
だが六十年むかしの、あの桜仙之助一座の人たちの名前も、顔も、声も、舞台姿も、はっきりおぼえている。
あの夜、溶けた白粉の脂と垢が浮いて、ギタギタ濁って光っている湯のなかで抱き合ったが、小梅の性器に私の性器を挿入した記憶はない。
性器を挿入しなくても、あの夜の甘美な感触と、興奮と、陶酔と、気の遠くなるような快感は、きのうの出来事のようになまなましく、はっきりとおぼえている。
ああ、赤い米粒のような小梅の小さな乳首。私は一度だけあの赤い米粒を舌でなめた。
性器を挿入しなかったがゆえに、このように強く記憶が残っているのだろうか。全裸の女体を、全裸の私が、はじめて抱きしめた経験。十六歳の初夏。挿入はしなかったが、キス、いや接吻だけはした。
旅の一座とのそのような生活は、三カ月間で終わり、私はまた松戸の家にもどった。はじめから三カ月間だけという約束だった。
小梅との快楽は、楽しいけれど、少年の私にはおそろしかった。なぜかわからないが、おそろしかった。芝居も舞踊も日替わりである。つまり毎日、演目を変える。私は毎日、小梅に演歌舞踊を教わった。
手と手が触れあい、小梅の汗の匂いを嗅ぐことが快楽だった。危機感のある快楽だった。この世の中に、こんな楽しい毎日があっていいわけはない、と少年の私はおびえていた。いまにきっとおそろしいツケがまわってくるのではないか、という恐怖があった。
私がその後、小梅に一度も会おうとしなかったのは、その恐怖のためだったと思う。
(今回のお話に感想をくださったみか鈴さんと濡木痴夢男の往復書簡へ→)
(第三十四回へ→)
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