父も母もバカ
私は前に私の両親のことを、 「なんというバカな親なんだろう、呆れた」 と書いた。 それは戦後すぐの食料難の時期、自分の三人の子供に、ろくに食物を与えることのできない困窮の中にあって、たまたま知り合ったドサ回りの役者に貴重なさつまいもをふかして食わせ、祝儀をつけてよろこんでいる親をみたからである。「三人の子供」の中の一人は、むろん私である。 それから数カ月たって、やっぱり私の親はバカだ、バカにちがいない、と私は再確認した。 私が桜仙之助一座に雇われて、三カ月間ではあったがドサ回りの経験をしたのは、若気の至り、というやつで、ずいぶん悲喜こもごも、さまざまな緊張感のある日々を送ったが、いまとなってはすべていい思い出になっている。 もうそろそろ終焉をむかえようとしている私の人生のなかで、あの三カ月はバラ色に輝いていたような気がする。こうやっていつまでも忘れずにいることが、その証拠である。 とにかく私は若かった。若かった私は何をしたっていいと思う。まだ十六だった私はいいが、もう五十を越えているはずの私の父親が、私に代わって、こんどは自分が桜仙之助一座の役者になってしまったのだ。 しかし父は日立製作所亀有工場の社員である。戦時下の権力者に強制的に徴用されたとはいえ、堅気の会社に籍をおく身であり、家族ともどもその社宅に住んでいるのだ。 旅から旅へ移動して、朝昼晩共同生活をしながら働く一座の座員に、まともになれるわけがない。 あとでわかったのだが、父は知り合いの医者にたのんで何かの病気の診断書を書いてもらい、一カ月間の病欠の許可を得て、役者になったらしかった。 父はそれほど芝居が好きだったのだ。私より好きだったのだ。私以上に憧れていたのだ。その血を継いでいる私が芝居好きなのは当然であろう。 そのまま旅の一座にくっついて家族から離れるようなことがあったら、バカ以上と言わねばならないだろうが、一カ月が過ぎると父は松戸の家にもどってきて、再び会社への勤務生活をはじめた。 しかし、仙之助一座での役者ぐらしがよほど楽しかったらしく、折りにふれて上機嫌にそのときのエピソードを語っていた。 私は耳をそばだてて父の話をきいていたが、父は小梅の存在には関心がなく、少女の活躍ぶりを知ることはできなかった。父は、いかに自分の存在が、役者として一座の役に立ったか、その自慢ばかりしていた。 前にのべた日立製作所の内部で組織された慰問演劇隊に、ときおり父も役者として参加し、舞台に立っていたのだ。 父からきかされていてそのことを知っている仙之助は、私につづいて父も引っ張り出して、人手のすくない一座を補っていたのだ。父の演技力は、一応は器用になんでもこなすが、それほどうまいというわけではない。どちらかというと、下品な芸である。 私は父の他愛もない自慢話をききながら、小梅のことを思い、胸を熱くさせていた。 ――と、ここまで書いたとき、Rマネからの電話があった。この文章を読んでくださる「みか鈴」さんからコメントが届き、それが内容の濃い、とてもいい感想文なのでFAXで送る、という電話である。 つまり、ともすれば文章を書くことをなまけて、すぐにどこかへ芝居やら映画を観に行ってしまう私の気まぐれな性格を危惧して、ときおり、こういう形で督励するのである。 Rマネからのこのときの電話の後半に、私が腰をぬかすほどおどろいたことがあった。本文を中断して、それをちょっと書いておきたい。 「濡木先生は、若いときに詩集を出されたことがありますか?」 と、Rマネ。 「はい、ありますよ。詩の同人誌にも入っていて、たくさん書いていました」 「私、いま思い出したんですけど、いまから五年か六年前、ある古本屋で、濡木先生が本名で書かれた詩が掲載されている詩集をみたことがあったんです。その当時、私は濡木先生のご本名を"裏窓"の編集人として、"裏窓"本誌の奥付けのページに掲載されていたので知っておりました。それで、古書店でみつけた古いアンソロジー詩集のなかに、そのご本名を発見して、おや、同一人物かな、まさか?と思ったんですけど、先生、記憶がありますか?」 「ありますよ。それはたしか反戦詩集でしょう。昭和二十年代、朝鮮内部の争いに、アメリカ軍が介入してきて戦争になったときに作った詩です。えッ、あんなむかしの古い詩集を古本屋でみつけたんですか?」 現在の私とRマネの関係だったら、古い出版物の中に私の本名を発見したら、おや?と思い、手に取るのは当然であろう。 しかし、Rマネがその詩集を古本屋で発見したのは、いまから五年も前のことだという。私とは面識がなかったはずである。私はもちろんRマネの存在を知らない。 つまり、その当時からRマネは、SM業界のあちこちに顔を出している私の存在を意識していたということになる。 私の立場からいえば、まことにありがたい名誉なことである。だが、私がここで書きたいのは、そういうことではない。 いまから六十年前に出版された私の詩を、五年前に古書店で立ち読み(買わなかったそうである。かなり高価だったそうである)したRマネが、その、私の詩のタイトルを記憶していたのである。 「たしか、"ハモニカ長屋のかみさんたち"という題ではなかったですか?」 「エッ、エエエーッ!」 私、思わず叫びました。 「そうです、よくおぼえてますね、そうです、そのとおりです。そのハモニカ長屋というのが、じつは、いま"おしゃべり芝居"の中に出てくる日立製作所の社宅のことなんですよ。私が住んでいた長屋のことです」 私はドサ回りの役者の演じる「継子いじめ」の芝居に夢中になり、やがてはその一座に雇われて、役者にまでなってしまった十六歳のそのころ、同時に、ある組織の末端に属した、反戦運動もやっていたのだ。 「そのことも、おしゃべり芝居の中に書くべきだと思うんだけど、そこまで書くと、さらに話が横道に外れ、テーマから離れてしまうおそれがあるので、私の力量ではとても書けないんです」 と、私はRマネに言った。 電話のむこうで、Rマネは数秒考えているふうだったが、 「でも、書くべきでしょうねえ。書くべき、というよりも、私は書いていただきたいですねえ」 「はあ。書くとしたら、六十年前、十六歳の私が、反戦運動という熱いヒューマニズム意識のもとに日常を送りながら、一方で『継子いじめ』のような芝居に夢中になる矛盾にくるしむ自分を描くことになりますね」 私がつぶやくと、Rマネは、 「濡木痴夢男がその矛盾について苦悩した若き日の姿……私は読みたいですねえ。私は、べつに、そのことを矛盾とは思いませんけど」 と言うのだ。 「考えておきます」 と私は返事をしたが、書くべきか、書かざるべきか、私の心はまだきまっていない。 以上、なんだかウソみたいな話だが、ウソではない。Rマネの人柄は、まことに誠実にして実直、判断力が正解、潔癖にして正義感が強い。ウソのつける人ではない。 さて、どうしたものか、というところで、このことを考えながら、もとの「バカな私の父」に、話をもどすことにする。 私の父は一言でいうと、甲斐性なしの小心者で、気にくわないことがあると怒鳴りちらす短気なところもあるが、人と争うことが嫌い。いつもヘラヘラ笑っている調子のいい臆病な性格で、当然、生活能力に乏しい。 (ああ、これはまさしく私という人間そのものではないか。遺伝子おそるべし) 父の父、つまり私の祖父が創業して、ひところは結構繁昌していたらしい和菓子製造販売の店を、父は芸道楽の果てにあっさりつぶしてしまった。 芸道楽というのは、浄瑠璃つまり三味線の伴奏で語る清元(きよもと)、常磐津(ときわず)にのめりこみ、家業を放り出してそのけいこに夢中になった。 嫁をもらい(嫁とはつまり私を生んだ母である)子供が三人生まれてからも商売を嫌い、奉公人たちにまかせっぱなし。 家業を守らねばならない長男の身で、ついには日舞(日本舞踊)までやるようになってしまった。いっそのことプロの踊りの師匠にでもなれば、またちがう人生がひらけたのだろうが、それほどの決断力もなければ才能もない。しょせんは芸事の好きな素人にすぎない。 こういう人間なので、誘われれば待ってましたとばかりに、日替わりの口ダテ芝居であろうが、雨が降れば休みになるようなドサ回りであろうが、ホイホイよろこんで話に乗ってしまうのである。 私の母もまた父にまけない位のバカで、どこがバカかというと、父が、 「わたし、一カ月ばかり仙之助さんのところで役者をやってくるから、家を留守にするよ」 と言うと、不安そうな顔もみせず、ニコニコ笑いながら、 「ほう、とうちゃん、やるねえ。とうちゃん、白粉ぬったらきれいだろうねえ」 はずんだ声で言って送り出すような女である。そのくせ面倒くさがって、自分の夫のそんな「晴れ姿」を観にいこうとはしない。私が仙之助一座の舞台に立っていたときも、一度も観にこない。無頓着なのである。悪くいえば鈍重、よくいえば、私の母はまことに大らかな、太っ腹な性格だった。 この父と母のことを書きだすと、エピソードが多過ぎて整理つかなくなり。それはそれで結構おもしろいと思うのだが、横道へまた迷いこんでテーマから外れてしまう。 親のことを書けば書くほど私に似てくるので、イヤにもなってくる。 考えてみれば(考えてみなくても)私という人間の素質は、父から継いだ血にあるようだ。 ただし、父には私のような嗜好の、いわゆるSM性向はなかった。これは或る時期、じっくりと父を観察して得た結論である。だから、はっきり言える。このことについては、のちほど書く機会があると思う。 父が仙之助一座からもどってきてから、二、三日後、私はやはり小梅のことが気になっていたので、一度だけきいた。 「ねえ、あそこに、小梅っていう子がいただろ?」 「小梅?ああ、仙之助さんの娘ね、子役の。あの子の踊りは、客受けするうまさはあるけど、達者すぎてすこし下品なところがあるな」 踊りに関してはかなり多額の月謝を払ってきている父は、いっぱしのことを言う。 「小梅と何かしゃべらなかったかい?」 私は父と目を合わさず、ことさらにさりげなく、しかし内心ではドキドキしながらきいた。父は返事した。 「ああ、あの子は口はなまいきだけど親切な子で、わたしが夜風呂へ入っていると、あとから入ってきて、よくわたしの背中を流してくれた。やさしい子だ」 複雑な気分になって、私はだまった。 あの暗い風呂場のなかで、私の父の背中を流す少女の湯気に包まれた白い裸身が、私のまぶたの裏に浮かんだ。 役者たちの顔や衿首や手足にぬられた白粉が溶けて、ドロドロに濁った風呂の湯の匂いが、私の鼻さきによみがえった。匂いというよりはもはや臭気なのだが、なつかしかった。どういう感情のもとに小梅は父の背中を洗ったのだろう。父の背中を手拭いでこすりながら、あの娘は私のことを思っただろうか。私はせつないような、泣きたいような気持ちになって、もう小梅のことを父に聞かなかった。 や、私はどうして、こんな恥ずかしい、むかしの思い出話をこまごまと書いてしまったのか。年をとってからの色事(いろごと)はずうずうしくなんでも書けるが、若い、未熟なときのことは、なぜか恥ずかしい。 六十数年前の記憶に、ふいにもどったきっかけは、何だったのだろう。 ふりかえってみた。ああ、そうか。わかった。 風俗資料館に秘蔵されている古い小さな緊縛写真。それを中原館長にお願いして、十数点、拡大コピーしていただいた。 昭和前期(だろうと思う)に、緊縛好きのマニアたちが集まって、旅の一座の人たちを雇って撮ったと思われる古い傷だらけの写真に私は見惚れ、心を奪われた。 縛られ、責められている女優と、芝居心たっぷりにその女優を責めている男優の写真。縄の匂い、興奮したマニアたちの息遣い、感動と陶酔の声、一生けんめいに縛られて恐怖と悲哀感を演じている女優の体温が感じられる人間っぽい写真である。 カラーフィルムなんてない時代だから、すべてモノクロである。眺めているうちに六十年むかしの世界に、私は入ってしまったのだ。 いまの緊縛写真から伝わってくるのは、モデルにポーズや表情を指示する編集者とカメラマンの声、職業的にソツなくきれいにモデルにあてられているライトの光、そして高度に発達した印刷技術の精密さ、だけである。 かんじんかなめの「魂」が写されていない。いちばんたいせつな、マニアの心をふるわせる「被虐の感動」はすこしも伝わってこない。モデルは、たしかに生きている人間にちがいないのだが、マネキン人形にしか見えない。あまりにも魂のない、形だけの、きまりきった緊縛写真、そして映像。 しかしまあ、いまさらこんなことを言っても仕方がない。徒労である。愚痴はもうやめる。 風俗資料館で見せていただいた古い写真がきっかけで、ドサ回り体験に話は飛んでしまったが、仙之助一座に雇われる以前に、じつは私にはいくつか舞台経験がある。そのこともいずれは書くことになると思う。 わずか三、四年の間だが、この時期の私の行動は、若いくせに(というよりまだ子供のくせに)錯綜していて、食うところ寝るところも転々と変わり、自分でも忘れていてよくわからない。 一九五三年(昭和二十八年)十一月号の「奇譚クラブ」に、私は青山三枝吉というペンネームで「悦虐の旅役者」という小説を書いた。 それを第一作として、その後「旅役者」を題材にした文章を多く書くようになる。その原点はやはり桜仙之助一座での体験が大きい。 だけど、書きたいのは、やっぱり、いまのことだ、いま、生きていることだ。現在の私の心境であり、行動だ。 これは、いまやっていること、考えていることを、そのまま書けばいいので楽なのだ。六十年前のことは結構おぼえているけど、きのうのことは忘れてしまうのだ。だからすぐ書かねばならないのだ。 というわけで、ここで、いきなり落花さんが出てくる。 (どうだ、落花さんよ。六十年前のことばかり書いていたので安心して読んでいたら、突如として自分の名前が出てきたのでおどろいただろう、うふふふふ……) なんと私は、つい最近「後期高齢者医療被保険者証」というのをもらったのだ。私は「後期高齢者」なのだ! ふつうの高齢者よりもえらいのだ! (べつにえらくはないか) その後期高齢者の私が、つい三日前、落花さんと一緒に「恐怖の館」というラブホで、夕方五時から九時まで、四時間をすごしたのだ。 濃密な時間をすごしたのだ。その濃密ぶりをこれから書こうと思う。 このところしばらく私が落花さんを縛るのは、埼京線某駅の近くにあるビルの中、つまり落花さんのオフィスが多い。これはこれで緊張感があって、快楽度は非常に高い。 しかし、ラブホのベッドはやわらかく、オフィスの床に敷いてある絨毯はやはり固い。彼女を白いやわらかいベッドの上で縛るのは三カ月ぶり位である。 そのことを、これから忠実に、こまかく書こうと思うのだ。これから書く私の文章が、「文学」になっていれば、落花さんは何を書いても怒らない。「文学」になっていなければ、彼女は怒るだろう。 文学になるかならないかは、私の心構えにある。落花さんとすごした時間はあまりにも楽しく、私は心の緊張をすべて解いてしまい、快感ばかりがつづくので、油断をすると、それに溺れて、文学から離れる。 心をひきしめ、神経を集中させて書かなければならない。 落花さんの裸は若くみずみずしくて(二十代後半だろうと思う。聞いていない。年なんかどうでもいい。きれいだったらいい)たいへんに美しい。 とくにベッドの上に横にしたときの細いウエストから尻にかけての線の形のよさ、なまめかしさは、見ているだけでよだれが出そうになる。 ちょうどいい肉づきの太腿から尻、ウエストから背中にかけて両手で撫でさするときの私の快楽は、ほとんど陶酔境に達する。 「きれいだなあ、きれいだなあ」 と、私は毎回彼女を縛ってから、うわごとのように、バカみたいにつぶやきつづけ、撫でまわしつづける。 飽きっぽい性格の私が、落花さんの体だけは、飽きることがない。いや、飽きないのは彼女の肉体ではなく、その反応なのだ。 縄に対する反応の凄さなのだ。反応の凄さが彼女になければ、正直、こんなにくり返して書く気もおこらないのだ。 (つづく)
(つづく)