2008.4.16
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第三十七回

 鳴かぬホタルが……


 興奮して夢中になって落花さんの肉体のもつ美しさとエロティシズムばかり書いてしまった。
 まだまだ書ききれていない。もっと書きたいことがある。もっとこまかく、ていねいに書かねばならぬ。
 たとえば、彼女の手首と指について書くと、こうだ。
 落花さんの手首は、骨と肉と青く浮いてみえる筋のバランスがいい。すきとおるような色の白さのために、皮膚の内側にひそむ青い筋が美しくエロティックな存在となっている。手首から五本の指につながる肉のつき方がなめらかで繊細である。指は五本とも細くしなやかに長い。指の関節がそれぞれに微妙な隆起をみせていて色気がある。
 私がなぜこのように彼女の手首の色や形や握ったときの感触にこだわるかといえば、おわかりだろう、縛るとき、いちばん最初に縄をかけるのは手首だからである。まず手首に色気がなければ、縛る気持ちになれない。
 そして、八十歳になる私の陰茎に触れ、やさしく包んで揉んでくれるのも、この白くすきとおった五本の指なのだ。
 落花さんの肉体への賞賛ばかりがつづいてしまう。いいかげんのところでやめないと、濡木は落花という人の体だけに執着している単なる変態好色じじいではないかと思われてしまう。
 まあ、そう思われても仕方がないけど。
 惚れてしまえばアバタもエクボというが、通常の惚れたという感情とも、すこしちがうのだ。そういう単純なものではない。
 すこしだけ弁明してみると、落花さんの肉体、容姿の美しさは、彼女の精神の潔癖さ、高貴さに直結しているように思える。切れ味のいい、刀剣のような美しさである。だが、これを第三者に説明し、納得させることはむずかしい。
 私と落花さんの性向は気味悪いほど似ていて、話がよく合う。
 ただし、私の精神は汚濁している。落花さんのもつ清潔さとか潔癖さなどは磨耗していて、私にはほとんど無い。性向というのはこの場合「性癖の傾向」という意味である。
 辞書でみると「性向」の本来の意味は「気立て、性質の傾向、気質」である。
 「性癖」と「性質」とではかなりニュアンスがちがう。
 性癖の相似性が、彼女と私を結びつけているのだ。
 下町の貧困家庭に育った無学な私(ことさらに卑下して言っているわけではない。事実である)と、しつけのきびしい謹厳な両親のもとに不自由なく成長し(これは彼女との会話の中から私が勝手に推測した彼女の環境である。つつしみ深く聡明な彼女は自分の育ちを誇るような言句を私に対して一語も発したことはない。彼女は、みごとに知的人間である)高等教育を身につけている落花さんの性癖が酷似しているという、私にとっては幸運きわまる事実。
 彼女と私を遭遇させたのは、人の世の運命の妙と言おうか、神の気まぐれと言おうか、あるいは天の配剤と言おうか、私にとっては感謝すべき、ありがたいことである。
 服を着たままで上半身は後ろ手高手小手に縛られ、下半身だけむきだされて、うす暗いオフィス内の机や椅子の脚の間に横たわっている彼女のほの白い姿の美しさに私は陶然となって眺めている。
 エロティシズムのもたらす幸福感に、気が遠くなりそうになる。
 彼女は尻を私にむけ、全身を屈めて寝ている。私はときどきその白い尻の谷間に手の指をのばし、撫でさする。彼女はぴくんとけいれんし、いっそう深く背中を折りまげる。全身の神経が鋭敏になっている(と私は思う)。そのくせ、触れなければ死人のように動かない。
 ふつうの男だったら、丸出しにして横たわっている形のいい白い尻を目の前にしたら、たぶん猛り狂っている自分の性器を、女のむきだされている股間に挿入させていることだろう。それが正常というものだ。
 だが、私はそれをしない。きれいだなあ、ほんとにきれいだなあ、どうしてこんなにきれいなんだろう。たあいのないつぶやきをくり返しながら、ただ眺めている。ときどきは指の先で軽く触れるが、しばらくはただ眺めている。
 このほうが、快楽は深いのだ。そういう性嗜好なのだ。いや、性嗜好などという気取った言い方はやめよう。そういう、私の性欲なのだ。そして、彼女のほうも、いまのこの状態のほうが快楽は深いにちがいない(と私は思う。私は彼女ではないので正確にはわからない。が、そう思う)。
 美しいものはエロティックだと私は思う。エロティックなものは美しいと私は思う。美しいものは快楽だ。実感する。
 彼女が背中や尻を私にむけているのをさいわいに、我慢できなくなり、私はオナニーを始めようとする。
 私がオナニーをしている姿を、彼女に見られるのは恥ずかしい。ためらう。でも、したい。我慢できなくなって、息を殺して、本当にやってしまったことが、いままでに三回ある。このオフィスの中で。
 落花さんよ、どうか笑わないでくれ。私を軽蔑しないでくれ。こんな恥ずかしいことを書いてしまうのだから、落花さんよ、あなた自身が恥ずかしく思うことを、私が書くのをゆるしてもらいたい。恥ずかしいのは、おたがいさまなのです。
 上半身にまだ残っているブラウスの裾に手をかけ、私はそろそろとまくりあげる。
 乳房を見られることに彼女は羞恥する。羞恥して悶えるその動きのエロティシズムが見たい。見ながら私はその乳房に手を触れたい。服の上からではなく、直接さわりたい。眺めているだけでもいいが、弾力のある丸い肉にさわり、五本の指でつかんで揉みたい。
 私が彼女を縛るときに一本の縄しか使わないのは、着ている服の裾からまくりあげたいからだ。
 縄が胸にかかっていても、一本だけだったら、下から服をまくりあげれば、乳房を露出させることができる。肌着をまくりあげ、ブラジャーも下から押し上げる。
 裸になった乳房を手でつかむと、私は顔を寄せ、口をつけてむさぼる。口の中いっぱいにやわらかい乳房を吸いこむ。
 落花さんは香水の類をつけない。だから、いい。ナマの体臭がいい。いや、彼女はほとんど体臭のない人である。それが、いい。人工的な匂いをさせる女は私は好きではない。体臭のつよい女は苦手である。
 乳首を、舌の先でこねくりまわす。私の舌の先は、私の手の指のように器用に動くのだ。アア、アアと彼女は低い声をだし、肩をふるわせる。吐息のように低いあえぎだ。
 声を出すことを極端に恥ずかしがる人だ(と私は思う)。こんなときに声を出すなんて、はしたない。はしたないという言葉を知っている人だ。
 裸にして、縛って撮影していると、ここぞというとき、やたらに声をあげ、体をくねらせる女優がいる。
 それが心から快楽を感じ、しぜんに出た表現ならば、制作する側にとってありがたい。
 スタッフ全員がそのムードにのって、いい作品になることが多い。
 だが、我々に媚びるために、演技のよがり声を発し、オーバーに腰を悶えさせる女優がいる。極端な例をいうと、いいわ、いいわ、と泣きわめきながら、両足を自分からひろげ、これみよがしに股間を露出させる女優がいる。
 そんなに無理に声を出さなくてもいいんだよ、感じるなら感じるで、地のままで感じてくれないかね、そこまでやると、かえってシラケるから、と笑いながら女優に注意する監督もいれば、その種の誇張演技をよろこぶ演出家もいる(じつは後者のほうが多い)。
 なぜ彼女らが過剰な演技をするかといえば、そのほうが仕事熱心だと思われ、また使ってもらえる可能性につながるからだ。だが、この種の映像をお金を出して観る客は、いまどきそんな軽薄な演技ではだまされない。
 (だまされるどころか腹を立てる)
 この特異な性を感じる女の心と肉体の真実の姿が、やはり観たい。真実の反応ほど刺激的で、感動的なものはない。結局は、リアリズムが私たちの心にひびく。
 高名な性心理学の先生も言っていた。
 「よがり声の大きさと快感の度合いとは決して比例するものではないことは、もうとうからわかっている。大体において、ヒステリー症の女性の声は大きく、そういう声に反比例して、オーガズムの程度は低い」
 と。
 いまどき、この種の映像や写真を求める人たちは、この程度のことはみんな知っている。儲けようとして作っている連中のほうが、よっぽど遅れている。
 私に言わせれば、こうだ。
 「恋に焦がれて鳴くセミよりも、鳴かぬホタルが身を焦がす」
 都々逸である。頭の上にアメリカの爆撃機が飛んでいるときでも唄っていた。軍歌のほかに歌はなかった時代だった。
 「ぬれた子馬のたてがみを――」とか「これこれ杉の子起きなさい」などという当時の流行歌は、私は嫌いだった。その代わりに都々逸を唄っていたのは、ま、私の父親の影響である。十四、五の時から私の歌は都々逸だ。
 落花さんは、まさしく「鳴かぬホタル」なのだ。鳴かないホタルのほうがオーガズムは高いのだ。高くて、そして深いのだ(と落花さんの快楽失神状態を凝視しながら私はいま信じている)。
 一本の縄で後ろ手高手小手に縛っただけで半分気を失って椅子からずり落ち、絨毯の上に寝転がってしまうのだから、並みの快楽ではないことはわかっている。
 快楽度が深いことはわかっているのだが、どの程度に深いのかということが私にはわからない。私は男で落花さんは女でそもそも人間がちがうのだから、わからないのは当然である。
 だが、私は知りたい。知って、さらに安心したい。私が彼女の心身に、さらに深い、ぬきさしならない決定的な快楽を与えているという確信を得たい。その欲望に、私は憑かれている。ほとんど全裸にひき剥いだ落花さんの体に、私が唇や口や、手の指で、くり返し、くり返し、執拗に、直接的な刺激を加えていくのは、じつは私の快楽よりも、彼女の快楽の深度を調べたいという欲望のほうが強い、といってしまったら、彼女は怒るだろうか。
 私自身の欲情を満足させたいという気持ちは、もちろんある。いちばん最初にあるのが私のその欲情だ。だから私はいきなり彼女を縄でしばりあげる。そして裸にされて床の上に横たわっている彼女の背中をみつめながらオナニーをしたりする(オナニーはしても射精はしない。射精してしまうと、なにしろ老体である、それだけで消耗し、あとの行為がつづかない)。
 それからあと、彼女の快楽の深さを追究したいという欲望が猛然とつきあがってくる。
 昼間のオフィスでは、あれほど知的に理性をもってたくましく、グラフィックデザイナーとして活躍し、コピーライターとしても評価を得ている落花さんを、もっと性的に乱れさせたい、という私の欲望である。
 「鳴かぬホタル」を、ある瞬間、ひとことでいいから、はっきりと声高く泣かせてみたいという気持ちも、私の中にすこしだけある。
 ひと声高く、というのは相手の女性のオーガズムを確認したいという男の、というより雄(おす)の気持ちである。
 だが、落花さんよ。あなたは高い声で泣かなくてもいいのです。
 叫んだり、泣いた姿を見せてしまったら、私はあなたと遊戯する欲望を失ってしまうかもしれない。いや、失うことはないが、欲情は半減してしまうかもしれない。男は、わがままなものです。
 ですから、あなたは、いまのままのあなたでいいのだ。いまのままのあなたこそ、じつは私の最も好むところの姿なのです。
 私は落花さんの股間に顔を埋める。落花さんの裸身の上に、私の体がのっている。
 ああ、なんということだ。私はいつのまにかズボンをぬぎ、トランクスをぬいで、つまり下半身裸になっているのだ。
 そのズボンやトランクスは、絨毯の上にだらしなくぬぎすてたままだ。なんという猥雑な眺め。
 昼間は、女性ばかりが生活を賭して働く「神聖」なオフィス、その中で下半身裸の醜怪な老人が、若い女体の股間に顔を押しつけ、陰核を口の中に吸いこんでもてあそんでいるのだ。
 私が口いっぱいに吸いこんだ陰核も、そして陰唇も、まるでつきたての餅のようにやわらかい。
 その柔肉を息もできない位に頬ばって、舌でこねくりまわすのだ。そしてこのとき、私の股間も彼女の顔の上にある。私たちの体は重なっている。彼女は、私が何もお願いしないうちに、口をあけて、私のものを口の中にむかえてくれるのだ。ああ、ありがたい。
 そして、私のものをあたたかくぬれている口の中でやさしく包みこんでくれるのだ。
 ああ、ああ、ありがたい、ありがたい。彼女の舌の動きと一緒に、彼女のその気持ちがうれしく、ありがたく、私はしあわせな気分に包まれてしまう。
 鳴かぬホタルは、口先では鳴かなくても、それ以上の思いを、行為で私に告げてくれているのです(と、私は思う。私は彼女ではないから確かなことは言えないので勝手に思うだけなのだが、私は思う)。
 私も一生けんめい彼女の陰核を吸い、なめ、しゃぶりまわります。陰唇を指でひろげて内側をなめ、奥のほうまで舌の先を挿入させます。舌の先が熱くぬれてしめつけられます。私は鼻も、口も、顎まで彼女のぬれた体温の中に没します。
 落花さんはその部分に、匂いをもたない人なのです。無臭なのです。私はそのことに、とても感謝をしているのです。
 (この告白は、はじめてです)
 私は、じつは、その部分から発する匂いが嫌いなのです(本当に嫌いなのです)。これは彼女のご機嫌をとるために言っているのではなく、本当にあの匂い(正確には臭いと書くべきなのでしょう)が好きではないのです。臭う人からは、かならず逃げます。
 落花さんは、口も匂わない人です。清潔で上品な感じがします。口の中が匂わない人は性器も匂わないらしい。とても清潔で上品な感じです。
 私のような男がこんなことをいうのはまことに不遜ですが、私は女性の股間に顔を密着させる行為が大変に苦手なのです。ところが落花さんだけは、不潔な感じがしない。匂いがきれいだからです。
 これは本当に神に感謝したい。
 よくぞここまで私の好みにぴったりの人を私に会わせてくれました。私の心身が、あまりに下等で醜く汚濁しているために、みるにみかねた神様が、私とはまったく逆の、清潔な、上等な女性をお会わせくださった。
 私があまりにも不浄であるがゆえに、その不浄を清めようとして神様は私に彼女を引き合わせてくださったのか。まるで諸悪を救いたもう観音様のように。
 とすれば、なんという粋な神様。味な神様。あるいは、いたずら好きな神様。
 私は彼女の口の中では果てないのです。つまり、射精しないのです。もともと口の中では射精できない性質、いや体質なのです(いやいや、習慣か)。
 落花さんは誠実に、一生けんめいしゃぶってくれるので、私のその部分は摩擦が過ぎて痛くなります。それで私は、彼女の口の中から、私のものを抜きます。
 そして、姿勢を変えると再び彼女の唇に唇を押しつけ、舌をさしこんだりします。
 いま私のもの一生けんめいしゃぶっていてくれた口の中に、すぐそのあとで、こんどは唇をつけ、舌を入れたりしたら、私は私のものをしゃぶることになりはしないか。
 そんな妙な思いが、チラと私の脳裏をかすめます。しかしそんな妄想はすぐに打ち払い、私は彼女の唇を吸い、舌を入れて舌をからませ、そして息つくひまもなく、つぎに彼女の乳房に吸いつきます。
 乳首をなめたり、吸ったり、噛んだりしてから、再び唇へのキスにもどります。さんざんキスしたあと、再び姿勢を大きく変えて、彼女の股間へ顔を伏せて、性器周辺をなめまわします。
 飽きることなくくり返します。獲物を捕らえた老獣の執念のようにも思えます。ラブホへ入ったときには、このくり返しを何度も何度もやるので、とても三時間ではおさまりきれないのです。
 オフィスの中でも、いつも二時間か三時間、こんなぐあいにつづけます。
 あっというまに時間がたってしまうのです。女性器の中に男性器を挿入して、ただ射精して満足するだけの行為でしたら、こんなに手間もひまもかかりません。
 でも、でも……私は落花さんがどれほど満足しているのか、本当のところ、快楽度はどんな程度なのか、やはり気になります。
 いく、いく、いくウとさけんで、ジ・エンドとなれば、満足度は想像でき、男は安心できるのですが、そういう遊戯とはちがうので、やっぱり気になります。

つづく

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