ZOU氏の撮影現場で
夢流ZOU(むるぞう)氏と、ひさしぶりに一緒に仕事をした。 ビデオ映像の撮影である。 あとで氏からいただいたメールによると、二十数年ぶりということである。 その間、お会いしていない。 同じ業界にいるのだから、おたがいの活動状況を、噂として耳にすることはある。が、仕事する場所が異なるので、直接会うことはなかった。 本郷菊坂にあるIスタジオへ入り、 「しばらくでした。おたがいに元気でなにより」 のあいさつを交わす。 「きょうはどんなことをやるの?台本見せてよ」 と、私はさっそくきく。 すると氏は、ドラマではないので、台本はないと言う。 「きょうの進行はすべて濡木先生におまかせしますから、自由にやってください。私たちは何も言いません。先生の思うがままにやってください。私たちはカメラでそれを追っていくだけです」 と、ZOU氏の言葉はかなり熱っぽい。 (夢流ZOUというのはどうも書きにくいので、失礼かもしれないが、この文の中では親愛の情をこめて、ZOU氏と書かせていただく。「夢氏」と書こうと思ったが、考えてみると私も「夢氏」である。まぎらわしいのでZOU氏と記させていただく) モデルはT・M嬢。 雑誌の撮影で、私はすでに彼女を縛っていて、顔見知りである。 顔見知りという以上に、気心がわかっている。表現力の豊かな、いいモデルである。 なによりも「SM」を知っている。 T・M嬢には、マネージャーというか、介添え役というか、奈加あきら氏がついている。 (あとで、この奈加氏もT・M嬢を縛るという進行になるのだが、私はまったく知らされていなかった。そういう段取りだとわかったときには、ガクンときた) すべてをまかせます、と最初に言われたときに、私の頭の中は、きょうの撮影の「起承転結」をどうするか、それをイメージして活動をはじめる。 クライマックスには、どういう縛り方をして、どういうポーズで盛り上げようか。そして、それからラストへ向けて、さらに盛り上げるためには、どういう縄の使い方が刺激的か。 モデルの腕を背後にまわして、一本目の縄を使いはじめるとき、この「起承転結」のイメージは、私の頭の中にもう出来上がっている。 このようなドキュメント映像で、T・M嬢のように私の縄を経験している場合は、とくにそのイメージが組み立てやすい。 撮影の過程でモデルのリアクションにどのように予想を超えた変化や変動があらわれようとも、その変化を利用して、さらに効果的な、縄の「起承転結」をつける。 感じやすいモデルのリアクションを生かして、より刺激の強い、興奮度の高い、感動的なラストシーンにもっていくときこそが、じつは、私のような緊縛係には、最高の快楽なのである。 このときの快楽と歓喜は、何物にも代え難い。ほとんど陶酔状態になる。 若く美しいモデルの性器の中に、おのれの男根を挿入して、摩擦して、射精する瞬間よりも、予想した以上の刺激的な、情感たっぷりの緊縛シーンでラストが盛り上がるのを見たときのほうが、快楽度はずんと高いのである。 私は、自分にまかせられた緊縛ドキュメント映像では、そういうふうにラストシーンまでを作ってきた。 (たとえば緊美研ビデオのほとんどがそうである) 私がイメージした「起承転結」は、途中で空白の時間がはさまってしまったが、それにしてもZOU氏の、 「濡木先生の思うがままにやってください。やりたいように、自由にやってください」 という言葉は、私にとってありがたかった。うれしかった。 AV系のSMビデオの撮影現場では、ぜったいといっていい位にない、めずらしい監督の注文だった。 私はZOU氏に媚びるように言った。 「でも私は縄をかけるのが早いので、もっとゆっくり縛ったほうが撮影しやすいと思ったら、遠慮なくそう言ってください。おのぞみどおりの早さで、わかりやすく、ゆっくりと縄をかけますから」 カメラをかまえている人にも笑顔をむけて、私はお世辞のように言った。 ZOU監督の他に、カメラマン、その助手、照明マン、その助手、スチールカメラマン、若いADたちが、いつものAV撮影のときのように待機している。 「ゆっくりと、わかりやすいように縛りますから」 と言った私の言葉に、ZOU氏は片手を顔の前で、大きく横にふると、すこし強い口調になった。 「ああ、そういうことはまったく考えないでください。ここにはスタッフが六、七人いますけど、だれもいないと思ってください。濡木先生とモデルが、二人きりの密室で緊縛プレイをやっているという気分になってください。なんでも自由にやってください。撮影ということを忘れてください」 私にとって、これはますますありがたい言葉である。 だが、いくら撮影だということを忘れてくれといっても、私とモデルの周囲には、私と彼女を照らす照明器具が並んでいるし、電源からのびているさまざまな黒いコード類が、視界の中に入っている。 これまでに五千人を超える女性を縛ってきたが、それらはすべて営業用の、つまり売るための緊縛ビデオの撮影現場での経験である。カメラを意識しないでくれ、などと言うほうが無理というものだ。 表面的な、型にはまりきったSMビデオはもうマニアの間に歓迎されなくなっている。 あくまでも濡木の縄をメインにしたマニア向けのビデオを作りたくなったのだ。 私にとって、こんなありがたいことはない。 ライトの中で、私は洋服姿のT・M嬢を後ろ手に、力をこめて縛りはじめた。 時間がたち、撮影がすすむにつれて、彼女は私の縄にしだいに強く、きびしく縛られていく。 彼女の反応はいい。すでに私の縄を経験しているせいもあって、この前の撮影のときよりも体が鋭敏になっている。私の指にそれが伝わる。 表情のエロティシズムも深みを増していく。彼女の顔を見なくても、縄を受け入れる体の弾力で表情がわかる。 カメラもライトもない本当にプライベートに楽しむ縄だったら、一本かけるだけで十分なのだが、これは報酬をいただくショーである。 私は頭の中で、尺(テープの長さ)を計算し、時間の経過と内容の進展をイメージしながら、すこしずつ縄の数を増やしていく。 私はこれから、ここに、縄に感じて悶える彼女のエロティックな悩ましい姿態、そして個性的な被虐のリアクションを、多少オーバーに、営業用の宣伝になるように書かねばならない。 が、私は過去数十年間、宣伝を兼ねたような文章を、かぞえきれない位に大量に、各誌に書きつづけてきた。 読まれるほうも、その種の紹介文、案内文、宣伝文の類いは、もう飽き飽きしているはずである。 そこで今回、私はいままでとはすこしちがった書き方をする。 これまでのような類型的な宣伝文にならないような気がする。 ZOU監督、ごめんなさい、とはじめに謝っておく。 美しいモデルが縛られて、責められて、ヒイとかハアとか言って泣いたとか、股間から淫蜜をタラタラ流して悶えたとか、そういう説明文を書くことに、最近、私、疲れてきたのですよ。 第一、そういうオーバーな、きまりきったむなしい言葉を並べ立てた宣伝文に惑わされるような、頭のにぶいマニアなんて、いまどき、もういないのですよ。 そういう惹句で飾り立てなくても、ZOU監督のこの作品は、十分に売れると思います。 売れるように、私がこれから書きます。 ですから、ZOU監督、途中で私のペンがすべって、お気にさわるようなことを書いたとしても、どうか怒らないでください。 すべてをまかせるから、なんでも好きなように、自由勝手にやってくださいと私に言ったあと、ZOU監督は私と彼女から三メートルほど離れた位置にすわりこみ、小さなデジカメを両手で持ってかまえている。 (ははあ、きょうは一日、スチールカメラマンをやる気だな) と私はうなずく。 どうかいい写真をたくさん撮って、それをパッケージとか、その他宣伝のために効果的に使ってくださいよ、と心の中で祈りながら、手は休みなく彼女を縛りつづける。 私主演の「緊縛ドキュメント」映像の売れゆきがよくないと、やっぱり私も困る。 私の名誉(?)に関わってくる。 (名誉なんか、ほんとは小指の先ほどもないんだけど、あると思って、自分をだまして生きている。自分をだまさなければ、私なんかとても生きてはいけない) ZOU氏は、スタッフの連中とか、私に遠慮しながらシャッターを押しているように見える。腰がひけているような感じにもとれる。もともと恥ずかしがり屋で、シャイな人なのだ。 (遠慮なんかしないで、もっと接近して、ずうずうしく、いいアングルを狙って、どんどん撮ってくださいよ) 彼女のスカートをまくりあげ、ショーツの上から股縄をかけながら、私は心の中でZOU氏に声をかける。 いいアングル。 そうなのだ。緊縛写真(もちろん動画の場合も同じだが)は、アングルがいちばん大切なのだ。 緊縛写真の良し悪しは、アングルの微妙な差できまってしまうのだ。 そうだ。思い出した。 いまから十数年前、雑誌のグラビアばかりを仕事にしている或る「緊縛カメラマン」がいた。 その人は自信たっぷりに、 「おれは緊縛カメラマンだ」 と言っていた。 恥ずかしがりもせず、自分ではっきりそう言っていたから「緊縛カメラマン」なのであろう。私は、そうは思っていなかったが。 その人は私にモデルを縛らせ、立たせたり、すわらせたり、横にしたりして、毎回、大量に「緊縛写真」を撮っていた。 十数年も前のことだから、 (こんなに毎回、大量に撮ったら、フィルム代が大変だろうなあ) と私は思ったが、当時すでにデジカメというものが出回っていたのかもしれない。 私はカメラに関しての知識が全くない。カメラに限らず、要するにメカニズムオンチである。 そのカメラマンと一緒に撮影現場にいると、 (縛られた女の姿が写っていれば「緊縛写真」というものでもないんだなあ……) と、しみじみ思ってしまう。 縛られた女の「形」だけではなく、縛られた女の悲哀、おののき、あるいは怖れ、よろこび、あるいは感動その他の、得(え)も言われぬ独特のムードが表現されていなければ「緊縛写真」にはならないのだなあ……と、毎回、骨身に沁みて教えられる。 だから私は十数年前におつきあいさせていただいたこのカメラマンに、心の底の深いところで感謝している。 この業界に長く棲みついているせいで、私はこでまでに約五十人の個性的なカメラマンの方々と仕事をさせていただいているが、 「緊縛写真とは、縛られた女の表面的な形ではなく、その女の心を撮るものだ」 と、つくづく、じっくりと、しみじみ教えられたのは、この人である。 言ってみれば、私の恩人である。 緊縛写真というしろものは、一般の人々の、だれもがよろこんで観賞する性質のものではない。はっきりいえば、眉をしかめる人のほうが圧倒的に多い。 その方面の、熱心な愛好家にしか見られないものだ。 マニア以外のフツーの人が好奇心でたまたま見ることもあるだろうが、まず、九十パーセントは、マニアがお金を出して、買って見るものであろう。 私たちは、言ってみれば、プロである。売り手である。 マニアにお金を出させようと思ったら(下品な言い方でスミマセン。でも本心です)マニアが「お金を出しても見たい、欲しい!」と思うような緊縛写真を、私たちは作り出さなければならない。 そういう写真を作り出さなければ、私たちは(いや、私だけ、かもしれないが)生きていけない。 ということは(ここでアングルの話にもどるけど)マニアの心に合わせ、マニアが見たいと思うアングルを、まず狙って、シャッターを押さねばならない。 十数年前におつきあいさせていただいて、私にいろいろなことを、身をもって具体的に教えてくださったそのカメラマンのことを、もうすこしこまかく書いてみる。 その人のことを、以下の説明ではB氏と呼ぶ。 B氏は私にモデルを後ろ手に縛らせ、指示した位置にすわらせる。 最初なのでモデルはまだきちんと洋服を着ている。 そこはJR目黒駅から線路沿いに歩いて七、八分のところにある古い大きな和風の建物である。庭も広く、樹木が茂り、石灯篭なんかも据えてある。もとは由緒ある料亭だったといい、むかしふうの蔵なんかもあるスタジオである。 B氏は撮りやすいといって、このスタジオばかり使った。和室はもちろんのこと、洋室まである。 縛られたモデルは畳の上に足をやや左のほうに投げ出してすわり、情感のあるいいポーズになっている。 顎をひき、ややうつぶせになった自然のポーズと表情が、私の目にはたまらなくいい。 彼女は早くも縄に感じているのだ。 私は彼女から三、四メートル離れた壁際に立って眺めながら、思わず、 「ああ、いい雰囲気だなあ。いいなあ。情感あるなあ」 とつぶやく。 ビデオとちがってスチール写真の撮影なので、録音はしない。声や音を発してもいいことになっている。 すると、B氏、 「えッ?なに?その位置がいい?よし、よし、それじゃそこへ行って撮ろう」 と言って、カメラをかまえたまま、私の位置に接近してくる。 私は邪魔になるので、反射的にB氏から離れる。 B氏が代わって私の位置に立ち、モデルにむかって、 「なるほど、いいぞ、いいぞ。よしよし、そのまま彼女、顎をもうちょっと左へまげろ。右の肩を三センチぐらい下げろ。ひねりながら下げろ。そうだ、よしよし。でも、これじゃ色気がないな。おい、G(GというのはB氏の助手である)彼女のスカートの裾をまくりあげて膝を見せろ。そうだ、もっとまくれ。もうすこしまくれ。太腿のあたりまでまくれ。いや、そこまでまくったらショーツを見せようか。ショーツがチラリと見えるところまでスカートをまくれ。よしよし。彼女、すこし腰をくねらせろ。尻を後ろへつき出せ。おお、いいぞ、いいぞ。やっと色気が出た、よし、撮るぞ、撮るぞ、それっ!」 と、こんなふうに指示する。 実際にはもっとこまかく、後ろ手になっている指の形まで指示する。 賢明なマニアの方々には、もうおわかりだろう。 私が、 「いいなあ、いい雰囲気だなあ!」 と思わず感嘆した彼女の被虐の情感は、B氏のこまかい指示によって、もうほとんど失われている。 カメラマンの指示に、忠実に従っているうちに、モデルは彼女自身が持っている個性的な、貴重な情感を失い、縄に巻かれている形だけの人間になっている。 魂を失った形骸になっている。 (魂のない形骸だけになって縄をまとっている写真が好きだ、というマニアの方も、中には当然いられるにちがいない。そういう写真は、そういう撮り方があるのだが、このことに関してはあとでのべる) 後ろ手にきびしく縛りあげられているので、一見形だけはなにやらむごたらしく見えるのだが、B氏の命令どおりにポーズを作っているうちに、マニアが最も見たいと思う、女の「心」が失われている。 カメラマンが、モデルのポーズを作ることにのみ神経を使っているうちに、彼女の全身から滲み出していた自然の被虐美は、どこか遠くへ去って行ってしまった。 お金をもらって雇われているモデルである以上、カメラマンの言うことに従うのは当然である。 だから、彼女にはまったくツミはない。 ややッ? 私はなにを書こうとしていたのだ。 いつものことだが、また横道にそれてしまった。 私は、ZOU氏が制作した映像の営業成績を上げるには、まず、パッケージ写真その他の宣伝に使用するスチール写真の出来が重要なポイントになるから、どうかマニアの目から見て魅力的な、傑作緊縛写真を撮っていただきたい、という気持ちから、この一文を書きはじめたのです。 ですから、この文章はまだつづきます。 ちなみに、私はまだ見ていないのだが、このZOU氏のDVD作品、もう編集を終えて販売されているそうです。みなさん、なんとか探して買ってください。そして、私のところへ感想を送ってください。 (つづく) ★以下「みか鈴」さんからお寄せいただいたご感想を、ご本人の承諾を得て転載させていただきます。 みか鈴さんからのcomment ★おしゃべり芝居第五十二回への感想★ 2008年09月05日 00:22 先生、美香です。 今回の「おしゃべり芝居」も楽しく読ませて頂きましたわ。 Bカメラマンの話の中で、先生が「カメラマンの指示に、忠実に従っているうちに、モデルは彼女自身が持っている個性的な、貴重な情感を失い、縄に巻かれている形だけの人間になっている。」という感想を述べておられますわね。 先生、美香はこの部分にSMと云うモノが持つ危うげな儚さと、そうだからこそ面白く難しいのだという事を感じましたわ。 何が危うげで儚いかと申しますと、SMの佇まいなのです。 先生がモデル嬢に感じたSM的な佇まいはBカメラマンの指示が入ることで、先生が感じたSMの佇まいは消えてしまい、SMとは違う種の佇まいに変化してしまっているというのはそれが、とても儚ない繊細なモノだからじゃないかしらと思うのです。 SMというモノは、先生も「芝居」という言葉を使って仰ってますが、苦しそうな表情や、哀しげな表情、恥ずかしそうな様というような佇まいを「ごっこ」といいますか「お芝居」といいますか、、、リアルではなくバーチャルな状態で見せる形なんだと美香は思うのです。 このようにSMというモノには、嘘といってしまえば語弊はありますが、虚の部分がSMの場合とっても重要なんですが、心が嘘では感じる事が出来ないのです。 ハリウッドの豪華な映像、CGを使い、もの凄いお金を懸けて作られた凄い映像でも、そこに心が共感できるものがないと、お金が懸かってる分、チープな映画よりも無惨な映画になってしまいます。 このようにもの凄いお金を懸けても、心がない映像はつまらないのです。 SMもまた、心が映し出されていないモノはどれだけ凝った縛り方をして、美しい人を撮ろうと、つまらないハリウッド映画同様、何の値打ちもないモノだと思います。 美香が思いますに、モデルの苦しそうな表情や、哀しげな表情、恥ずかしそうな様を本当の気分としてモデル嬢が演じてこそ、SMという「お芝居」は成り立つのでしょうね。 美香が「お芝居」と申しましたように、苦しそうな表情や、哀しげな表情、恥ずかしそうな様はまるっきり本物ではなく、少し「お芝居」がかかってる、、嘘ではないけれど、本当でもない、、、うっ、、何を言ってるのだろう、、伝わるかしらん。 表現するのは難しいですが、心は嘘ではないけれど、けっして本物の苦しさ、哀しさではない微妙な佇まいとでもいいましょうか、美香が思うSMの佇まいとはそういう危うげで儚い佇まいなのです。 ですが、苦しい、哀しい、恥ずかしいという「お芝居」は少しの邪魔で消えて無くなってしまいます。 そういう微妙なMの心映えが写る時、その写真は美香にとっては「お金を出しても見たい、欲しい!」と思うような緊縛写真なんだと思いますわね。 ただ、美香の思いますに、そういう写真を判別するのは、難しい事も事実です。 形式的な人形のようになっているものでも、上手いアングルで撮られてると、本物だと勘違いしてしまう事も多々あるように思うのです。 実際、ライブでは、SMっ気を感じないSMライブでも、写真になって見せられると凄くSM的に見えたりするものですから、写真から本物と偽物を100%見極めるのは難しいように思います。 ですが、ライブなら、嘘は嘘としてハッキリした形が判るのは、そういう微妙な心の動きをカメラのレンズでは上手くとらえれない事も原因なのかも知れないなんて思ったりもします。 ですが、そういう偽物ばかりが横行してしまいますとSMという世界がとっても陳腐な世界になってしまうと美香も思います。 ★みか鈴さん、ありがとうございました。 皆様もお読みになったご感想など、是非お気軽にお寄せください。 濡木痴夢男へのお便りはこちら
(つづく)