ZOU氏よ、ありがとう!
いい緊縛写真は、いいアングルから撮られている、だから、マニアの共感を得ようと思ったら、いい位置にカメラをかまえ、いいアングルで、そして、いいタイミングでシャッターを押さなければならない、というようなことを前回書いた。 「いいアングル」というのは、もちろん、マニアにとっても最も魅力的な「良いアングル」ということである。 では、「良いアングル」とは何か、となると、これを説明するのが、むずかしい。めんどくさい。 めんどくさいと言ってしまっては、ミもフタもないのだけれど、こればかりは感覚的なものだから、文字で説明するのは、きわめてむずかしい。 いくらこまかく説明しても、相手に伝わりにくい。納得してもらえない。 説明不可能、といってしまいたい位のものである。 この感覚がわからないやつは、そんなこときくな! そんなこときくやつは、マニアの資格なし! と言って、突き放したい。 私は縛るのが専門で、カメラはまったく操作しない。いや、操作したくてもできない。 カメラをいじれない機械オンチだから、縛ったあとは、モデルのそばをさっと離れ、カメラマンの邪魔にならないような位置に立って、モデルを眺める。 ふしぎなもので、いや、ふしぎというよりも「習い、性となって」いるので、無意識のうちに、「良いアングル」の位置に立ってモデルを見てしまう。 そして私は、なにしろ好きなものだから、自分が縛ったモデルを見て、 「ああ、いいなあ、いい雰囲気だなあ!」 と、つい正直に、声に出してつぶやいてしまう。 すると、カメラマンのB氏はそれをききつけ、 「なに、その位置がいい?それじゃそこへ行って撮ろう」 といって私に近づき、縛られているモデルの、私の感覚ではその「良いポーズ」「良いアングル」を、どんどん変えて、ちがうものにしていく。きつい言葉でいえば破壊していく。 (これはいまの話ではなく十数年も前の話です。念のためにお断りしておきます) 破壊という形容はきびしいかもしれないが、私の目からみたら、あれはやっぱり「破壊」でしかなかったなあ。 どんなに私が緊縛マニアによろこんでもらえるように縄をかけても、カメラマンの感性と主観によって、それがたちまち訂正され、モデルの哀感と被虐性が消されてしまう。 彼女の体から、しぜんににじみ出している微妙な雰囲気が消されてしまう。 私がかけた縄の「心」も無残なくらいにうすくなってしまう。 縛られた彼女の体が魂を失って形骸化したように、私の縄も形骸となる。 もちろん、B氏は自分があれこれとこまかく指示することによって、「良い緊縛ポーズ」になったと信じている。 固く固く信じこんでいる。だから気合いをこめてシャッターを押す。 モデルは、かなりいい感じで、私の縄で縛られている。 だから、B氏の作品も緊縛写真といえば、緊縛写真にちがいないのである。 しかし、私が親しくしている多くの緊縛写真愛好家たちには、あまり好まれないムードの作品に、結果的にはなってしまう。 「なんだか凄いポーズで、きびしい感じに撮られているんだけど、私たちが求めているものとは、どこか違うんですよねえ」 と、マニアたちは首をひねりながら、異口同音に言う。 みんな私と同じ意見なのである。 B氏は邪心のない、仕事一途のいい人である。芸術家にふさわしい純粋な情熱の持ち主である。そのひたむきな姿勢が私は好きだ。 私はあるとき、おそるおそる言った。 「縛ったあとでモデルをそんなに粘土の人形のようにこねくりまわさなくても、縛られてせつなげに、しぜんに身をよじる被虐の姿を撮ったほうがいいと思いますがねえ」 だが、私の言うことを、きいてはもらえなかった。 B氏には、ゆるぎのない自信があるのである。 B氏の撮った緊縛写真は、B氏の作品として世間に公表される。彼には全責任がある。 私は一介の縛り係でしかない。 「一介」という言葉を辞書でひくと、「いっかい」とるにたらない一人。つまらない一個、とある。 撮影の現場では、黒衣(くろこ)にすぎない。 黒衣とは、陰あるいは影の存在である。 目立ってはいけない人間である。 よけいな口出しをしてはいけない立場にある。 だが、私は長いあいだこの道を歩いてきているので、多くの緊縛マニアたちの気持ちを知っている。 マニアたちがよろこぶ写真というものを、理屈ではなく、感覚で知っている。 男の股間の一物を勃起させ得る緊縛写真とはどういうものか。それを知っている。私自身が、そのマニアの一人だからである。 断っておくが、それはモデルの股間を不自然にひろげたり、何かの異物を挿入したり、女のその部分をことさらに誇張して写したりするものではない。 そういう写真は、緊縛マニアの心をしらけさせるものだということを、ここにはっきり記しておく。 かといって、緊縛写真が女性の股間をまったく無視しているわけではない。 女を縛り、責める男の意識の中には、女の性器周辺がつねに存在している。 しかし、その部分だけに欲望を集中させることはない。 女の股間だけに欲情を集中させることがないために、緊縛マニアは「異常」と呼ばれるのだ。 あるとき、私は思いきって、そのことをB氏に言った。 心の中でいつも思っていることを、口に出さないで黙っているのは、卑怯のように思えたからだ。 するとB氏の答え。 「濡木さんが感じている『良いポーズ』『良いアングル』と、ぼくの感じている『良いポーズ』『良いアングル』と、すこしちがうようですね。ぼくは、濡木さんに縛ってもらったモデルを、ぼくの信じるがままに動かし、『より良いポーズ』に作りあげて、シャッターを押しているんです。濡木さんがお好きな、できるだけしぜんな形の『良いポーズ』を好むマニアの数と、ぼくが信じて作りあげる『良いポーズ』『良いアングル』の写真を好む人の数と、どちらが多いでしょうかねえ。それが問題ですね。ぼくもこれが仕事で、これで収入を得ているのだから、たくさんのマニアの人によろこばれてくれることを目標にして、ぼくなりの緊縛写真を撮っている。ぼくは、ぼくが作りあげているこのポーズを、最高だと信じているんです」 こうまで言われたら、私は黙るより仕方がない。 また、彼はこうも言った。 「濡木さんの言われる『良いポーズ』とか、あるいは『良いアングル』とかは、結局、濡木さん個人の好みでしょう。ぼくが作りあげるポーズのほうを良いと言って支持してくれるマニアの人もたくさんいるんです。どちらのポーズが、より多くの人に好まれるか、はっきりした数字がわからなければ、ぼくはぼくのやり方で撮っていくより仕方がありません」 言われてみれば、そのとおりである。 どちらを好むか、マニアの数の問題になってくる。 なにしろ私たちは、そういう写真を作って売る、プロなのだから。 ただ私の場合は、そういうプロ意識とか、営業意識とか、売れればいいんだという気持ちだけになってしまうのは、さびしい。 どのような緊縛写真が、より多くマニアに売れるかを考えるよりも、まず、自分が勃起するような(たびたび下品な形容が出てきてスミマセン。なにしろ私、学がないので言葉を知らない)写真を作りたい欲望のほうが強いのだ。 ああ、私はまた、とんでもない横道に、いつのまにか入ってしまった。 どうしてこんな、ゴテゴテ、ゴチャゴチャした話になってしまったんだろう? しかも、十数年も前の話を、いま書いたって、しようがないじゃないか。 いくらゴチャゴチャ書いたところで、その写真をここに、具体的にみせることはできないんだから、わかりにくいことおびただしい。もうやめた。 そもそもは、私が二十数年ぶりにZOU監督に雇われ、本郷菊坂のスタジオで、T・Mというモデルを縛りはじめたときの説明から、この話ははじまったのだった。 「私は何も言いませんから、濡木先生、そのモデルを相手に、自由に縛って、はじめから終わりまで、やりたいようにやってください」 と、ZOU監督に、いきなり、うれしいことを言われ、私は、 「ようし、やるぞ!」 と、舞いあがってしまったのだ。 こんなありがたいことを言ってくれる監督は、いまどき、どこにもいない。 (いや、もう一人いた。シネマジックの吉村彰一監督である) そしてZOU監督はカメラをかまえ、スチール写真を撮りはじめたのだ。 やっ、これは本気で、濡木にきょうの撮影のすべてをまかせるつもりだ、それだったら「良い緊縛写真」をたくさん撮ってもらい、パッケージとか、宣伝に使ってもらいたい、という気持ちに、私はなった。 私は気合いをこめ、情念をこめて、モデルをびしびしと後ろ手に縛り、ポーズをつけた。 スチールカメラマンになったZOU監督は、モデルのポーズについて、本当に一言の注文も発しなかった。 私はモデルの表情と体の反応と変化を確かめながら、つぎつぎに縛りとポーズを展開させた。自由に、やりたいようにやった。 ――と、さっきここまで書いたら、なんだか急に、十数年前の撮影のことを思いだしてしまったのだ。それで横道に外れて、ゴチャゴチャ、ダラダラ書いてしまったのだ。 十数年前のあの当時よりも、私はさらに多くの緊縛マニア諸氏とつきあい、愛すべき同好の人たちが、どのような緊縛写真を求めているかを知った。 私は勉強し、修行した。 勉強するつもりはなくても、なにしろこの世界にどっぷり浸りこんでいる。だから経験と知識はいやでも増えていく。 B氏が自分の「緊縛写真」について絶対の自信を抱いていたように、私も、私の好む「緊縛写真」については、ゆるぎのない自信がある。 私の緊縛に対する美意識、性意識は、六十年前からすこしも変わらない。 というより、これは生まれついての性癖だから、変わりようがないのだ。 ZOU氏が制作されたこの「夢縄」という映像は、編集を終えて、もう完成しているらしい。 私はまだ観ていない。 ZOU氏から私にあてたメールを要約させていただくと、 「自分は、少なくとも今回の仕事はこれで『良し』と思っています。自分の中では、出発点としては『視点』を踏み外してないと思っています。この方向で、より良いもの、皆さんと(なかんずく濡木先生や奈加あきら氏と)より共感できるものを目指したいと思っています。そのためにも、これからの先生の、『おしゃべり』が、なによりの羅針盤と思っています。」 と、ある。 なんという謙虚な、控え目で誠実な言葉であろうか。 いまのこの混沌として業界の中にあって、このように誠実で、純粋な魂にふれることができようとは……。 私は胸が熱くなるのを感じた。この文章だけで「夢縄」という映像作品の質がわかるような気がする。 空疎な文字をならべた誇大宣伝よりも、マニアたちに与える力は強い。 私が自由気ままに、思うように縄を使って、やりたいようにやった緊縛映像のための演技を、ZOU氏は「これで良し」と思われたという。 よかった! ZOU氏よ、ありがとう! あなたのおかげで、私はのびのびと、ひさしぶりに快楽的な気分で縄を使うことができた。 これからも私にできることがあったら、なんでもやりますから、遠慮なく言ってください。 つぎに、ZOU氏に提案、というより濡木痴夢男からお願いがあります。 もうすこし経ったら、風俗資料館の片隅をお借りして、 「女性のための、濡木痴夢男の緊縛講座」 というのをやりたいのです。 SM・緊縛について関心のある女性ばかりを、限定十名ほど集めて、緊縛写真、緊縛映像についての話を、私がしてみようと思っています。 そのとき、テキストに「夢縄」の映像を二十分か三十分上映させていただき、私の縄のかけ方、ポーズのつけ方、その心構えなどについて、具体的な解説をしたいのです。 (ただし、実技は一切やりません) 映像の中で、モデルを実際に縛っている当人がしゃべるのですから、説得力があると思います。 そして、女性はこういう映像に接するチャンスがなかなかないと思うので、歓迎されるのではないでしょうか。 これはまだ中原るつ館長からの正式な許可は得ておりませんが、夜二時間ほどでしたら、貸していただけると思っています。 じつは、こういう集まりで得た刺激こそが、私の緊縛意欲を高める勉強となり、より良い緊縛映像のための原動力になると思うのです。 いまの女性は、はっきりと自分の感想や意見を言ってくれるので、実現できたら、今後の大きなプラスになると思います。 私のこの講座に、夢流ZOU監督、奈加あきら氏、出演した女性たちが出席されたら、どんなに豪華で、楽しい内容になるでしょうか。 ただし、これはいまひらめいたばかりの私のアイデアなので、こまかいことはまだ何も考えておりません。 (つづく) ★以下は「みか鈴さん」「丸木さん」からお寄せいただいたご感想を、各々ご本人の承諾を得て転載させていただきます。 みか鈴さんからのcomment ★おしゃべり芝居第五十三回への感想★ 2008年09月06日 00:12 先生、美香です。 今回の前半のお話は、前回のBカメラマンの話の続きですわね。 このお話、美香が日頃思っているSMというモノについて、大いに共感できる話でしたわ。 何処に美香が共感を覚えたのかと申しますと、マニヤの緊縛写真とカメラマンの写真・・・芸術写真といっても良いかと思いますが、つまる所、その気のない人がとった緊縛写真の違いという事です。 先生の言葉を借りますと、そういう方の撮った写真は「彼女の体から、しぜんににじみ出している微妙な雰囲気が消されてしまう。 私がかけた縄の「心」も無残なくらいにうすくなってしまう。 縛られた彼女の体が魂を失って形骸化したように、私の縄も形骸となる。 」となるという事なんです。 マニヤは緊縛写真に所謂アートとしての美を求めている訳ではありません。ひっそりと息づく羞恥や縄に耐える様、、、先生が以前仰ってたMのオーラが出ている写真が見たいのです。 いくら複雑に、美しく縛ってあっても、そこにMのオーラを感じれない画像は芸術的には美しくありますが、SMとして見た場合のそれは、何の値打ちもない写真なんだと思うのです。 勿論、趣味、嗜好の違いによってSMで感じる部分は十人十色ですから、180度、見方の違いはあるのでしょうけれど、けれどなんです。 けれど、そのように違いがありましてもSMっ気のない人が撮った写真とその気のある人の写真には大きな埋められない程の溝が横たわっているのです。 先生の文章を読んでいますと、Bカメラマンという方は写真家として素晴らしいお仕事をされる良い写真家だと思えるのです。 仕事に誇りを持って、緊張感のある良い写真をお撮りになられると思うのですが、写真として見ればそうなんでしょうが、SMというフィルターを通してみれば駄目なんでしょうね。 それにしても、SMってフィルターは、なんと普通の方には判りづらいフィルターなんでしょう。 その気がある人間なら「そう、そう、そうなのよ」と共感できるのに、その気のない方に説明する時、上手く説明出来ない・・・説明すればする程、何やら自分の言ってる事まで自分の思いから遠のいて行きます。 テレビで女優が「私、どちらかっていうと、どMなんです」なんて会話を笑いながらするようになり、SMとタイトルのついたAVが氾濫している現在、SMってモノは一般化してるように見えますけれど、本当の所、SMは深い闇の中にいるように美香には思えるのです。 「女性のための、濡木痴夢男の緊縛講座」 いいですわね。 >(ただし、実技は一切やりません) っていうのが良いですね。 実技しながら説明を入れちゃうとSMがお馬鹿な喜劇になりそうな気がしますわ。 美香は所謂、緊縛ショーっていうのはどちらかと言えば好きではありません。 そういうショーを見たり、やった経験はありますが、そのほとんどの場合、SMを見てる(してる)という気分ではなく、SMとは違ったSMのようなモノを見てる(してる)という気分になります。 SMという佇まいは観客に触れる事で、変貌してしまい、そこには形骸化した、死んだSMが存在するだけなのです。 何故そう思うのかを説明すると長い説明しても、説明する程、美香の気持ちから遠のきそうな気がしますから説明しませんが、この辺りの所は先生は判って下さると思います。 そのような美香のSMの感じ方から「女性のための、濡木痴夢男の緊縛講座」のコンセプトを伺いますと、とても素晴らしいように思います。 只、美香は女のふりはしてますけど、男性なので参加は出来ないのがちょっぴり悔しい気分ですわね。 丸木さんからのcomment ★おしゃべり芝居第五十三回への感想★ 2008年09月06日 19:35 夢縄拝見しました。 総てを見終わって、私が最初に感じたことは「責めが無い」でした。誤解しないでいただきたいのですが、ここで私が言う「責め」は、鞭打ちでも浣腸でもありません(私はいわゆる虐待映像が大嫌いです)。縛り手がモデルに対して、何をしたく、何を伝えたいかが見えてこなかった、ということなのです。縄の「意味」あるいは「ドラマ」と言っても良いかもしれません。私には、このビデオの中で、濡木さんの単なる「縛り係」としての面しか見ることができませんでした。 ビデオの中でも、濡木さんのこの「おしゃべり芝居」の中でも、夢流ZOU監督は、濡木さんに「何でも好きなようにやってください」とおっしゃっています。かつての「女囚幻想」や「縄の世界」、そして何よりも「緊美研ビデオ」を愛する私は、濡木さんの「おしゃべり芝居」を読んで、久しぶりにドラマチックな縄の世界を見ることができると本当に楽しみにしていました。わくわくとして到着を待ちました。 しかし、このビデオが本当に濡木さんがやりたかったことなのでしょうか。 私は濡木さんの文庫の大ファンでもあります。「緊縛★命あるかぎり」の石谷秀さんの章に書かれていたような映像、私はそんな映像を期待していました。「おしゃべり芝居」で読むたびに羨ましくなるような濡木さんと落花さんの二人きりの「お芝居」が、もちろんそのままではないにしても、いえ、そのものではないからこそ「ドラマ(複雑な筋のあるドラマという意味ではなくて、密室の二人だけの縄のドラマという意味です)」として表現されているのではないかと期待していたのです。 このビデオの監督、出演者、スタッフの中でおそらく唯一のマニアである濡木さんが縛り係になり、モデルのT.M.さん、奈加さんはその情念を表すために一生懸命の演技をされています。それは私にも伝わって来ます。SMは「ごっこ」であり「演技・プレイ」であることは濡木さんも常々おっしゃられていることであり、私も深く賛同するものです。しかしながら、このビデオの中の濡木さんからは、これを見るであろうマニアのために演技をしようという気持ちが伝わってきません。自分自身が表現したい、演じたい「ドラマ」が伝わってきません。 ビデオの中で、濡木さんは何回か「縛られていると良い顔だなあ」とか、奈加さんもしくは監督が「凄い」とおっしゃっていますが、本当でしょうか?私には濡木さんが酷評する「縛り師」以上では無いように思うのです。 私は、縛りをする人には「撮影派」、「ショー派」、「プレイ派」があると思っています。撮影における縛りは縛った結果をカメラマンが撮影するのであり、その過程や写真の裏の情念は直接的には見えないため、「縛り係」であっても仕方ないと思います。カメラマンのB氏が言うように、その画像にどれだけの読者が共感するかなのです。 しかし、ビデオはその過程を見せるだけでなく、特に今回のようなマニアドキュメンタリタッチのビデオの場合、いかに責め手と受け手が縛りという「プレイ」の中で、それぞれの縛りの感性をやりとりできるかに掛かってくるのだと思います。それは濡木さんのこれまでの主張にも現れていると信じています。 他の出演者が頑張って演技をしている中で、濡木さんが「縛り係」としか見えなかったのは私の感性の問題かもしれませんが、非常に残念でした。 奈加さんが(mixiの「おしゃべり芝居」に)感想を書かれていますが、次の夢縄もこのような作品になるのでしょうか? 私は、濡木さんと落花さんとのプレイのように、濡木さんの縄と相手に対する熱い思いを感じられるような作品を期待します。 期待が高かっただけに、あまりにも非礼なコメントでしたら失礼を謝罪いたします。 ★みか鈴さん、丸木さん、ありがとうございました。 皆様もお読みになったご感想など、是非お気軽にお寄せください。 濡木痴夢男へのお便りはこちら
(つづく)
>(ただし、実技は一切やりません)