私が作務衣を嫌うわけ
「夢縄」という、私が画面に登場する新作のDVD作品について、「丸木」さんという方から、ごていねいなお手紙をいただいた。 感謝感激であります。 心からお礼を申しあげ、これからご返事いたします。 その前に「みか鈴」さんからも、私にとってありがたい、貴重なお手紙をいただいております。そのことから書きます。 (みか鈴さんはまだ「夢縄」をごらんになっていないようですが) もうすこし経ったら、風俗資料館で、女性の方だけに参加をいただいて、「夢縄」の一部分を上映し、濡木痴夢男が、その場で解説をするという催しをしてみたい、という宣伝をしました。 (ただし、これはまだ企画の段階で、奈加あきら氏とモデルのT・M嬢にはご賛同をいただいていますが、夢流ZOU氏からは返事がありません。つまり未定ということです) そのことを、予告みたいな形で、この「おしゃべり芝居」にすこし書きました。 中で私は、 (ただし、実技は一切やりません) という注意を添えました。 すると、みか鈴さんはさっそくごていねいな返事をくださり、そこのところを、こんなふうにほめてくださいました。 「……実技しながら説明を入れちゃうと、SMが、お馬鹿な喜劇になりそうな気がしますわ。美香はいわゆる、緊縛ショーっていうのは、どちらかと言えば、好きではありません。そういうショーを見たり、やった経験はありますが、そのほとんどの場合、SMを見てる(してる)という気分ではなく、SMとは違ったSMのようなモノを見てる(してる)という気分になります。SMという佇まいは、観客に触れる事で、変貌してしまい、そこには形骸化した、死んだSMが存在するだけなのです。」 いつもながら、みか鈴さんはSM・緊縛に対して、おそろしいほどの是非の直感力、そして明快な分析力、批判力をもった人です。 私が現在置かれている立場も、自分のことのようにわかっている人です。 たとえば、私が書いたBカメラマンのことを、 「Bカメラマンという方は、写真家として素晴らしいお仕事をされる、良い写真家だと思えるのです。仕事に誇りを持って、緊張感のある良い写真をお撮りになられると思うのですが、写真として見ればそうなんでしょうが、SMというフィルターを通してみれば駄目なんでしょうね。」 と、みか鈴さんは評されていますが、じつは、そうなんです。そのとおりなんです。 一般的にいえば、すばらしい仕事をされている良い写真家であり、ピュアな性格で、誠実な、いい人です。 ですから私も、 「緊縛カメラマンとしてのあなたは、私から見たら、こういうところが良くないんだよ」 なんて、とても言えないのです。 言ったところで、いまさらなおるものでもないし……。 まじめな、いい人間であっても、SMのオーラを持たない人には、SMの味、雰囲気、みか鈴さんの表現によると「佇まい」を伝えることは、至難の業(わざ)なんです。 Bカメラマンの本質を、実際につきあっている私よりも、みか鈴さんは鋭く見ぬいているような気がします。尊敬に価(あたい)します。 つぎに、「丸木」さんからいただいたお手紙の内容に関係したことになります。 私からの丸木さんへの返事です。いや、釈明といったほうがいいかもしれません。 丸木さんのおっしゃることは、百パーセント、そのとおりなのです。正しいのです。 私もまったく、そのように思います。 ですから、私の釈明は、釈明などというより、単純に、弁解というべきなのでしょう。 本郷菊坂にあるIスタジオへ入り、夢流ZOU氏(以下略してZOU氏と書かせていただく)と、二十数年ぶりの再会をしたとき、氏のまわりには、すでに六、七人の撮影スタッフが集合していて、撮影準備が整っているのを知った、と私は前々回に書きました。 ですから、ZOU氏に、 「撮影だとは思わずに、ここは濡木先生とモデルの二人きりの密室だと思って、お好きなようにやってください」 といくら言われても、すでにスタジオ内のムードは、これまで私が何百回、何千何百回経験してきた「撮影」の体勢に、いやおうなしに入っていたわけです。 東京メトロ南北線の後楽園駅から、二十数本の縄を背負って、スタジオまでトコトコ歩いてきた私に、なんの打ち合わせもなく、 「モデルと二人きりのムードになってくれ」 と言われても、それは無理というものです。監督の狙いがわからない。 あいさつも自己紹介もなしに、助監督らしい人が近づいてきて、私の足もとに、なにやら衣装を置くと、 「これに着替えてください」 と、言うのです。 「なんですか、これ?」 と、私がきくと、 「作務衣(さむえ)です。きょうの撮影の衣装です」 いやも応もない。 「えッ、作務衣?」 思わず、ききかえしました。 女を縛る人を画面に登場させるときには、なぜか作務衣を着せるというふしぎな習慣が、いつのころからか、撮影の現場にはあります。 私は、この作務衣というものが大嫌いなのです。 作務衣を着ると、一応形は筒袖で身軽なようなのですが、実際には袖がビラビラしていて、縄の繊細な操作が、やりにくいのです。 どんなに短い袖でも、縄を持つ手の指先に無駄に触れます。 女体を縛る縄というものは、縛り手の指と指の間から、水が流れるようにスムーズに出なければならないのです。 この際、はっきり書いておきます。 作務衣は、女体緊縛の実作業には不向きです。指先の自由な動きをさまたげます。 ですから私は、黒い半袖シャツに、動きやすいはき古した黒っぽいジーパン姿で、モデルを縛ります。 私が画面に登場するときでも、たいていこの服装です。縛りの過程をしっかり見せることに重点をおきます。 縄をもたもたとにぶい動作で扱っていて、見苦しくなることは、縛り係として恥です。 ですから気持ちよく、自由に縄を操作するには、五体、とくに腕と手と指先の動きを邪魔するものを極力排除しなければならないのです。 以前、或る制作会社の撮影の現場で、なにやら特別に質の良さそうな、値段も高そうな作務衣を渡され、 「これを着てください、衣装です」 監督に言われたとき、私はその理由をのべて拒否しました。 すると、その監督、 「濡木先生が作務衣を嫌いなことは知っています。でも今回の撮影は着てください。お願いです。濡木先生は縄師の大家です。緊縛の大先生です。ですから、これを着て威張っていただかないと、縛りに箔(はく)がつきません」 「箔?縛りに箔なんて必要ないじゃないですか。たかが縛りじゃないですか。そんな仰々しい扱いをする必要がどこにあるんですか」 「先生はそうおっしゃいますけどね、縄師などと自分から名乗って、ふつうより偉いと思ってる人だっているんですよ」 「そういう人は偉いかもしれませんが、私は偉くもなんともない。女性に対して、縛って自由を拘束しなければ何もできないなんて、劣等感の最(さい)たるものじゃないですか。劣等感のかたまりみたいな人間が、どうして威張れるんですか」 「そんなこと言わずに、とにかく着てください。そういうビデオなんですから」 スタジオへ入ると、なるほど、長さ二メートル以上もある白紙に、 「濡木痴夢男緊縛道場」 くろぐろと、墨で書かれたものがぶら下がっている。 道場らしいセットもできあがっている。 仕方なく私は作務衣の袖に手を通した。 その作務衣は袖口が厚くて、いっそうビラビラしていて手首にひっかかり、縛りにくかった。 ――とまあ、こんなばかばかしいいきさつが、過去に何度かあったのですよ。 「緊美研」のときには、私は絶対に作務衣なんか着ませんでした。 「緊美研」は、緊縛が命(いのち)です。 緊美研の会員の人たち、そして緊美研ビデオを見てくださっている方たちは、私が作務衣嫌いだということを、よくご存知のはずです。 作務衣を着ると、緊縛に対する集中力が、どうもおろそかになるような気がします。 そしてもう一つイヤなことは、作務衣を着せられると、いかにもショーの衣装を身につけたというような感じになり、お気軽な見世物芸人になった気分になってしまいます。 (見世物芸人のみなさん、「お気軽な」なんていってごめんなさい。「お気軽」に演じていても、その裏側には大変な努力と修業があることを私は存じております) 丸木さんは、私が書いた「落花さんとの緊縛」についても言及してくださいました。 そこで申しあげますが、落花さんを「密室」で縛るとき、私は絶対に作務衣なんか着ません。 たとえば、ラブホへ行くときに作務衣なんか着て行きません(想像しただけでも笑ってしまいます)。 作務衣をバッグの中に入れて持参し、室内で着替えるなんてこともしません(あたりまえです。これも笑ってしまいます)。 やはり、いつのまにか(意識したことなんかありませんけど)いちばん身軽な、手や指を動かしやすい半袖のシャツ姿になっています。 いちばんこれがリアルで(他人がのぞき見でもしていたら)迫力のある、そしていやらしい姿に映るでしょう。 作務衣というものは、相手の女性との間に距離をおく気分にさせるんですね。 作務衣なんか着ると、相手との親密感が消滅してしまうんですね。 ラブホの一室で女性を縛るなんて行為は、これ以上親密な関係はないわけです。 作務衣なんか着て縄を持ったら、縄さばきが不自由になることはもちろん、気分的にも邪魔になります。 河出文庫6冊目の「緊縛★命あるかぎり」の中で、私は石谷秀さんを主演とした緊縛ビデオを撮りたい、という文章を書きました。 私なりに心血をそそぐ思いで、こまかいシーンをシナリオのように書いたのですが、結局は念願だけで終わってしまいました。 でも、まだ未練はあります。 その映像の中でも、私が作務衣なんか着て現れたら、どんなに強烈な緊縛を石谷秀さんに対して施したとしても、ドキュメントムードはぶちこわしになってしまうでしょう。 しかし、ちかごろは私もすこし大人になりました。 「夢縄」撮影のときは、私はニコニコと笑いながら、与えられた作務衣を着ました。 スタジオには十人近い人たちが待機しています。 着ないと、せっかくの空気が乱れます。 撮影の現場では、何よりもまず「和」がたいせつなのです。 なんだか、親の敵(かたき)みたいに、作務衣のことばかりをいろいろ書きつらねてしまいました。 賢明なるマニアであられる丸木さんには、作務衣に託した私の気持ちがおわかりいただけたと思います。 着るもの一つでも、生身(なまみ)の女性を相手に縄を持つ人間としては、微妙な心理的影響があるということを、すこし言いたかっただけです。 そんなこと位で影響されるのはおかしい、がんがん縛って責めりゃいいじゃないか、とおっしゃる方も、もちろんいるでしょうけど。 しかし丸木さん、はじめに申しあげたように、結局は私の弁解です。 いいわけでしかありません。 (そんなこと知ったことか、内容だけがすべてだ) と思われて当然です。 縛り係として長い月日を送ってきた人間の、心の奥のうちあけ話として、多少でも興味をもっていただければしあわせと思い、おしゃべりした次第です。 こういうおしゃべりをするきっかけを与えてくださったことを感謝します。 つぎは、丸木さんのおっしゃる「撮影派」「ショー派」「プレイ派」について考えてみたいと思っています。 みか鈴さんが、 「ショーをやっていると、SMとは違う、SMのようなモノをしているという気分になります」 と書いておられますが、これはまさしく至言です。 よく言ってくださいました。 じつは私も、まったく、そのとおりなのですよ。 「SMのようなモノ」 という表現は、まさしく、言い得て妙です。 (つづく)
(つづく)