濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第五十八回
苦痛があっても快楽縄
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石谷秀さんへおねがい。
撮影当日、あなたが朝からはいているショーツを、私がぬがして丸めてあなたの口の中へ押しこんで、サルグツワに使いますから、かならず替えのショーツをご持参ください。
顔半分に大きくかけるサルグツワ用の白い布(晒布)は、もちろんこちらで用意します。目隠し用の布もこちらで持っていきます。
あなたの口の中にねじこんだショーツは、あなた自身の唾液でぐしょぐしょになりますから、帰るときにはもう使えません。
あなたが着用してきたものを、すべてこの日の「衣装」として使わせていただきますから、かならず、替えの服をご持参ください。
「衣装」には麻縄のこまかい毛のような繊維がたくさん付着したりして汚れると思いますので、ぜひ着替えの服を用意してください。
両腕や胸のあたりに、かなり目立つ縄のあとがつくと思いますから、それを隠すための長袖のブラウスとか、カーディガンのようなものも、帰りのために持ってきてください。
縛ったり解いたり、縛ったり解いたりが、約三時間つづきますので、どうしても体に縄のあとがつきます(翌日には消えますけど。あ、これはあなたもよくご存知のはずです)。
当日はヘアメイク係など一切使いません。
なにしろあなたは、誘拐される人妻の役ですから、AVの女優さんのような、やたらにきれいなメイクをする必要がありません。
あれは著しくリアリティを損ないます。
犯人に捕われ、いろいろ責められ、時間がたつうちに、どんなに美しい女の顔でもだんだん疲労して、汚れてくるはずです。その汚れた表情が、また被虐的でエロティックなのです(AVの制作者たちはこんな重要なことを知らない)。
AV系のSMビデオは、撮影の途中で何度も何度も長い休憩をとって、プロのヘアメイクの手で、女優さんの顔をきれいに、きれいにお化粧しなおします。
あんな不自然な、現実感を喪失させる、色気のない行為はありません。
責められる女の顔が、はじめから終わりまで、妙にツルツルした、きれいなままでいる無神経な演出を、マニアたちはみんな内心で嘲笑しています。
このことに気づかず、ワンシーンを撮り終えるたびに、惰性的にヘアメイクを整えさせるSM映像は、あまりにもリアリティに乏しく、マニアの心を冷えさせるばかりです。
こんどの石谷秀さん主演の「人妻誘拐酒場」(このタイトルはいまひょいと思いつきました。もちろん仮題です)は、そういう惰性的な、習慣的な安易なことは、できるだけ避けたいと思います。
秀さん。メイクはすべてご自分でやってください。
秀さん演ずる人妻は、仮に名前を青山テルコとでもしておきましょうか。
ま、名前なんかどうでもよいのです。便宜上の名前です。「人妻」だけでもよいのです。
プロデューサー(あるいはカメラマンになってくれるかもしれない)のA子さんにおねがい。
以上、こんどの「人妻誘拐酒場」の撮影について、ずいぶんよけいなおしゃべりをペラペラしてしまいましたが、人妻・青山テルコを縛りあげた後、どういうふうに展開させていくか、それをどういうふうに魅力的に、官能的に見せるか、などの具体的な動きは、どうか私におまかせください。
あの、独特のSMムード漂う密室の中で、縛りあげ、ぎっちりとサルグツワを噛ませた人妻・青山テルコに対して、私がどういうポーズをつけ、カウンターの上に立っている柱を「責め柱」として、どのような嗜虐的なシーンを作りあげるか、どうかご期待ください。
いま、SMムード漂う密室、とつい書いてしまいましたが、壁のあちこちに赤や白や青い色のロープが束になってぶら下がっていたり、犬の首輪やムチなんかがやたらにものものしく飾り立てられているああいう部屋は、はっきりいって私は嫌いです。
鉄の檻があったり、木馬責めの道具が置いてあったりするあの種の部屋は、マニアにとっては、逆にSMムードを損なう風景としか思えません。
とくに緊縛マニアは、あんなふうに、まるで玩具店のように飾り立てた風景を嫌います。
マニアにとっては、神聖な自分達の領域が、汚されたような気分にさえなります。
ああいうものは、SMマニア以外の、ごくふつうの感覚しかもたない「正常人」たちを珍しがらせたり、おどろかせたり、感心させたりする場所としか私には思えません。
マニアはあんなコケオドカシの風景を、心の中では軽蔑しています。
それと同じように、いかにも女王様然とした黒い革やゴムの衣装をつけた女性が、ムチを片手に登場するSM風景も、多くのマニアは嫌います。
まあ、ああいう類型的な眺めを好むマニアも、中にはいると思いますが、私がおつきあいさせていただいている人たちは、みなさん冷笑しています。
考えてみますと、私があの「作務衣」を嫌うのも、同じ理由からです。
形だけのコケオドカシで、魂の入らない類型のものに、私はどうしても好意を抱くことはできません。
また話が横道に外れてしまいましたが、A子さん(おや、いつのまにか敬称になっている。前回まではA子、A子と呼びすてだったのに。どうしてだろう?)酒場の中でカメラが回り始めたら、どうかこの濡木めにおまかせください。
これから先の「縄」の演出を、こまかく書いたり説明したりするよりも、当日、あの限られた空間で、欲情がわきあがり、アイデアがひらめき、緊縛欲が炸裂する展開のあれこれを、A子さん、あなたもどうかお楽しみください。
せまいがゆえに情感たっぷりのあの渋い色彩の店内で、むごたらしく後ろ手に縛りあげた人妻・青山テルコの肉体を、斬新な被虐ポーズでごらんにいれましょう。
ただちょっと心配なのは、石谷秀さんのあのすばらしい恍惚と陶酔の羞恥表現(ご当人はべつに"表現"しているわけではなく、あれが地のままで無意識の中の反応だとおっしゃるにきまっていますが)にあるいは変化があるのではないかということです。
こういう失礼なものの言い方、どうかおゆるしください。
私としては、秀さんが出演してくださるという、願ってもないチャンスをいただいたので、出来得るかぎり、満足すべき結果を得たいのです。
秀さん。
二年前のあなたと私の、あの濃密な数カ月間を思い出しながら、失礼とは思いつつ、私に不安があります。
ほら、よく言うではありませんか。
「女心と秋の空」。
男心と秋の空とも言いますが、人の心は移ろいやすく、変わりやすいということです。
十九世紀のロシアの文豪チェーホフの小説「可愛い女」。環境が変わり、恋人が変わるたびに性格も変わってしまう女の話。
二年前、あなたはご自分の住所や電話番号を秘密にしておられ、私に教えようとはしなかった(私も聞こうとしなかったけれど)。
それなのに、先日、出版社のA子さんと私と三人で話し合ったときには、なんのためらいもなく、すっとA子さんにご自分の電話番号を告げられた。
あの瞬間、私はドキンとしたのですよ。
A子さんに住所を教えたということは、当然私も知ってしまうことになります。
この変わりようは、なぜか?
いや、すみません。失礼な憶測をするところでした。
いまこういう私的な方向に話をもっていくことはやめます。
私は二年前の石谷秀さんの、あの悩ましい反応の姿体を、しっかりと胸に刻みつけて、夢中になって、ひたすらに「誘拐犯人」を演じればよいのです。
じつを申しますとね、秀さん。私は撮影の前に、あなたと二人きりで一度会おうと思いました。
でもやめました。
二年ぶりであなたを縛るのは、撮影のときにしようと思いました。
そのほうが、私の「縄」へのあなたの反応が、激しく深いと思ったからです。
もちろん、私の「縄」も、そのほうが「新鮮」な迫力を生じます。
ひさしぶりにあなたに触れる私の手も、緊張と感動にふるえることでしょう。
私はどうしても、二年前のあなたの、あの悩ましく官能的な反応を、あのまま再現したい。
どんなに羞恥に悶えても、あなたはけっして下品になることがない。
あなたの被虐エロティシズムは、常に新鮮で、しかも清潔だった。
縛られた女がすぐに股をひろげて男をむかえいれようとするポーズになるよりも、緊縛マニアというものは、必死に足を閉じ、太腿をよじり合わせて抵抗する女のほうを好みます。
股なんかひろげられたら、瞬間的に緊縛マニアはその女への興味を失います。
これは理性とか知性に関係なく、感覚的にそうなんですから仕方がありません。
(つい最近もそういうモデルに出会い、がっかりして逃げ出したことがあります。このことはRマネもその場にいて知っています)
秀さん、あなたはそういう女とは正反対のところにいる「縄好き」の女です。
(そうだ、いま思いついた。「足をひろげて股を見せろ」という言葉責めを、誘拐犯人は人妻に対してネチネチしつこくくり返して脅迫しよう。それでも絶対に足をひろげない人妻・青山テルコの哀れにもけなげな姿を、たっぷりと撮ろう!)
ああ、またコーフンしてきた。
秀さん、あなたも撮影前に、もう一度、私が書いた河出文庫の中の「人妻・石谷秀の美しさ」と「石谷秀の極秘映像」のところを読みなおしてください。
そのページに吐露している私の狂おしいほどの情熱を感じとってください。
あのときの熱い炎は、まだ私の胸に燃えさかっています。
二年前、秀さんを縛っていたときには、私は、じつは「愛撫縄」しか使いませんでした。
秀さんを縛るときはもちろん私と二人だけであり、ラブホばかり使っていました。
今回の撮影には「責め縄」を使ってみようと思っています。
といってもわかりにくいと思うので、わかりやすくかんたんにいうと、「愛撫縄」というのは、相手の女性の心身に快楽のみを感じさせる縛り方のことをいいます。
「責め縄」というのは、その「愛撫縄」に微妙なきびしさを加えて、苦痛を感じさせる縛り方のことをいいます。
苦痛といっても、もちろん甘い苦痛で、これにも相手によって何段階かの差異があります。
ここで、いきなり落花さんのことを出すのは唐突ですが、ちなみに、私が落花さんにかけるのは「愛撫縄」だけです。
落花さんには「責め縄」は不必要なのです。なぜなら、落花さんという人は「愛撫縄」だけで、失神状態になってしまいますから。
つまり、落花さんは秀さんよりも「縄」に対する感度が、さらに鋭敏なのです。こわい位に、始末におえない位に鋭敏なのです。あるいは、鋭敏になってしまった、というべきなのでしょうか。
「責め縄」とか「愛撫縄」といっても、快感と苦痛は紙一重の感覚であり、女性によって一人一人微妙な違いがあります。
その微妙な感覚の差を、女性に対したとき、できるだけ早く察知するのが、「縛り係」の役目です。
私がこんどの撮影で、秀さんに対して「愛撫縄」の中に「責め縄」も加えていこうと思ったのは、もちろん秀さんの反応をみながらのことです。
くり返しますが「責め縄」といっても、私の縛り方の場合、結局は「甘美な苦痛」の範囲内ですから、秀さん、どうか心配しないでください。私は過去に、女性の体を傷つけたことはありません。
いつ撮影するかまだ未定で、あるいは企画だけで実現しないかもしれない「人妻誘拐酒場」について、ずいぶん延々と書いてしまいました。
突然ですが、先日お世話になったZOU監督へ、おねがいがあります。
私は、ZOU監督もご存知のとおり、本当にしがない、その日暮らしの縛り係ですが、一寸の虫にも五分の魂、虫のような縛り係にも、表現することは闘うことだ、という程度の認識はあります。
闘いには、準備が必要です。
猿まわしが猿にいうように、
「そこで好きなように跳んだりはねたりしてみろ」
といきなり命じられても、ある程度の準備、心がまえがなかったら、闘いには勝てません。
小手先の芸だけで必勝の信念がなかったら、戦場では敗北します。
跳んだりはねたりしてみせれば、芸に似たものは見せられるかもしれませんが、しょせん芸そのものにはなり得ません。
「石谷秀との再会、そして……」
「『隠微』な照明こそ『淫靡』なのだ」
「わかるわけない女の本心」
そして今回のこの文章「苦痛があっても快楽縄」が、私の闘いのための準備です。
自分が納得する映像を作るためには、これだけの「魂」の準備を必要とするのです。
それでも結果はわからない。
やってみなければ結果がわからないことも、この仕事のおもしろいところかもしれません。
石谷秀さん、いまのあなたのお気持ち、その他の事情について、私は何も知りません。
あくまでも二年前の秀さんに対する心のままで私は撮影に参ります。そして誠心誠意、あなたを縛ります。よろしく。
A子さん。
この企画が、上層部の意向で「没」になったら、すぐにそのことを私に伝えてください。遠慮することはありません。企画が「没」になることは、いくらでもあります。
私への気がねはいりません。「没」と決定したときは、早く言ってください。
私としては「いまだったら写真にもビデオにも出ていい」という秀さんの気持ちを、まず考えたいのです。
十日後に、いや五日後には、彼女の心が、また変わってしまうことだってありますから。
(つづく)
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