濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第五十七回
わかるわけない女の本心
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この「おしゃべり芝居」を毎回読んでくださっている方から(それも数人の方から)、
「石谷秀との再会のときの模様を、もっとこまかくていねいに書くべきだ、書いて欲しい」
というおたよりをいただいた。
一時はあれほどひんぱんに会い、熱烈な行為をかさねていた相手なのに、二年の月日を経て、ただ「再会した」だけでは、あまりにもそっけないではないか、読者としたら気になって仕方がない、というご注文である。
ごもっともであります。そこを書かなかったら、たしかに、この「おしゃべり芝居」という長編小説の「結構」が成り立たない(なんと前回で四百字詰め原稿紙九百枚を超えました)。
「結構」という意味は、辞書で引くと、
――建物・文章などの全体のくみたて、あるいは仕組み。
とある。
まあ、早くいえば「形」のことです。長編小説としての形。
ですが、このところ書きつづけている「石谷秀との再会」は、女性編集者A子にあてた「撮影メモ」をメインとしているのです。
この場合の「メモ」は、いってみれば、撮影現場での実際的な段取り、進行表のような意味をもちます。
かんたんな台本というべきものです。
私、つまり濡木が登場して、若く美しい人妻を誘拐し、密室に監禁したあげく、いろいろいやらしく責めなぶる、という、ちょっとだけストーリー性のある映像制作の段取り、つまり具体的な進行予定を書いているわけです。
この「メモ」が、プロデューサーであり、あるいはカメラマンでもあるA子のイメージをふくらませる手助け、ということになります。
この作品のカメラマンはA子にたのみたいという希望が私にはありますが、実際の場合は、おそらく他の男性カメラマンになると思います。
プロデューサー兼カメラマンというのは、あまり聞いたことがないし(監督兼カメラマンというのは近頃よくあります)心身ともに労働が過重になって、現実には無理です。
私はカメラマンを、A子、A子とくり返して書くのには、理由があります。
カメラをかまえたA子は、ここぞというとき、おちついて静かに、じっくりと対象をねらい、バタバタ動くことをしないのです。
緊縛された女体のいちばんいいところを、精神を集中して、じいーッと凝視して撮ってくれるのです。
プロのカメラマンは、縛られた女体が巨乳だったりすると、やたらにオッパイだけをねらったり、女が下半身をくねらせると、すぐにアングルを変えてお尻ばかりアップにしたり、必要以上に女の股間に焦点を合わせたりして、「縄」をじっくりと撮ってくれないのです。
まあ、それが職業だから仕方がないのですけれど、私がせっかく「いい縄」をかけ、女のなめらかな皮膚や柔肉に絶妙の感覚で食いこんでいるのに、その「縄」に焦点をむけてくれないので、オッパイとか、下腹部ばかりに神経を集中させているのをそばで見ていると、私としては、本当に悲しくなります。
「ねえ、その縛られてねじれてぐんと上に絞られた手首のところを、もうちょっと長く撮ってよ」
と、がまんできなくなって、私はつい、口をはさんだりします。
すると監督、
「縄を撮るよりも女の股の間をしつこく撮ったほうが、商品価値は高くなるんですよ」
そう言われたら、私としてはもう黙って引き下がるより他はありません。
でも、やさしい監督は、私の気持ちを察してくれて、現場ではきちんとていねいに「縄」を撮ってくれます。
そのかわり、編集のときに、「縄」のシーンは、ばっさり切られ、つまりカットされてしまいます。
まあ「縄」ですから「切られ」ても仕方がないのですけれど……。これは私のせつないシャレです。
A子カメラマンだと、そのへんは心得ていて、背中でぎっちりと縛られている女の手首の痛々しさ、可憐さ、そこから生ずる被虐エロティシズムを、きちんと情念をこめて撮ってくれます。
撮り終えたあとの編集の段階でも、気を使ってくれます。
というわけですから、べつにA子でなくても、これは緊縛マニアのための映像だと納得してくれて、ていねいに「縄」を表現してくれるカメラマンだったら、私としてはだれでもいいわけです。
でも「縄」を理解してくれるカメラマンと「縄」への理解ができないカメラマンとでは、映像になった場合、やはり、大きな違いが出てくるんです。
これは理屈ではなく、「感覚」の世界ですから、本当は、仕方がないんですけど。
「縄」に関心のうすいカメラマンの場合は、どうしても「縄」に対する情念がうすく、女体にかけた私の「縄」が、呼吸しなくなるんです。
死んでしまいます。縄だって撮り方によっては死にます。
えッ?
濡木のかける縄なんて、はじめっから死んでいるのではないかって?
うぐッ!
それを言われたら、ミもフタもありませんけどね。
でも、生き生きと、いい感じで、激しくかかっている縄が、映像で見ると元気を失い、魅力を失い、死んでしまっているということが、よくあるんですよ。
「縛り係」には、縄の生き死にがよくわかるんです。
これがわからないと「縛り係」にはなれないんです。
憎まれ口をたたくと、縄の生き死にがわからなくても「縄師」にはなれますが、「縛り係」にはなれません。
(あ、筆がすべった。Rマネよ、ここんところ、ひどいと思ったら、ワープロを打つとき削ってください)
また話が横道に外れてしまった。
ええと……。
何を書いていたのか忘れてしまった。
そうだ、A子のカメラワークは、緊縛映像に合っている、ということを書いていたのだ。
A子カメラマンが現場で仕事をしやすいように、いま私はこの文章を、A子のために書いているのです。
いま私が書いているこの「メモ」を現場で見ながら、私もA子も撮影を進行させることになります。
で、ありますから(と、ここでさらに話をもどすと)「石谷秀との再会」のときの私の心理的な模様などを、いまここでこまかく説明していると、テーマがあいまいになり、撮影現場を盛り上げようという気分がおそろかになってしまいます。
ついでですから言いますけど、こんど私が作ろうと思っている映像は、石谷秀さんが主演ですけど、「石谷秀」そのものが登場するわけではないのです。
秀さんには、「石谷秀」以外の人妻の役を演じてもらうわけです(ちょっとややこしい。このへんのことをもっと早く、はっきりと書いておくべきでした。説明が足りませんでした)。
私と彼女との間に、つぎのような会話があったとだけ、書いておきます。
「秀さん、こんどこそビデオに出てください。横浜の貴婦人・石谷秀としてではなく、べつの人妻の役で出てください。私も出演して、好色な誘拐犯人として、あなたをがんがん縛ります」
「濡木先生のお手で縛っていただけるのでしたら、べつの人妻の役でも結構です。というより、そのほうがよろしいのです。でも、私にできるでしょうか。私、セリフなんて言えません」
「できます。第一、はじめから口の中に詰め物のあるサルグツワをされているのですから、セリフなんてとても言えません。あなたは密室の中でぎりぎり縛りあげられ、犯人のためにいろいろ責められるだけですから、絶対にできます。責められる人妻の、その反応をテーマにする映像ですから、あなたにできないはずはありません。もしあなたの反応が、カメラマンその他を意識してにぶくなっているようでしたら、その意識を払いのけるために、私がふるい立って、ぐいぐい、ぎりぎり、がんがん、力をこめて責めまくります。あなたの左右の乳首をタコ糸で縛って高く吊り上げたりします」
「こわいわ。でも、わかりました。やらせていただきます」
でも、正直いって私には、この企画が実現するかどうか、まだ自信がない。
そのうちに、なにかの理由が生じて中止になり、結局は私一人の「夢」で終わってしまうような気もする。
(二年前、不二企画で石谷秀さんを撮ろうとして、あんなにも熱烈な「撮影」メモを私が書いたのに、結局は何もできなかったと同じように……)
というようなわけで、石谷秀さんとの再会のときに、すこしばかりあった心理のやりとりは、あとで書きます。
本当は書きにくいのですけれど、やはり、書かないわけにはいきません。
えっ?
どうして書きにくいのかっておっしゃるんですか?
えっ? えっ? えっ?
おわかりになりませんか?
この私の文章は、あの、埼京線の沿線に住んでおられる落花さんも読んでおられるのですよ。
そしてもちろん、石谷秀さんも、この「おしゃべり芝居」を読んでいるはずです。
読んでいるはずなのに、秀さんは何も言わない。
「読んでいますよ、落花さんという方とのこと」
なんて言わない。
じつは「読んでますか?」と、私がおそるおそる聞いたとき、秀さんは唇だけでかすかに笑い、首をななめ横に、すっと動かしたのです。
読んでますか、と聞いても、タテにもヨコにも首をふらない。
かすかに、ななめ横に顎を引きました。
いや、引くともなく、うなずくともなく、顎の先をゆらしただけです。
顎をゆらしたときに、唇を三ミリほど上下にひらき、笑いをこぼしたように私は感じました。
こういう女の人の気持ちって、男にはわからない。
女を五千人縛ってきた私にだってわからない。
いまはもう六千人に近くなっているんだけど、六千人縛ったからといって、結局は仕事でそんな作業をしてきただけですから、女の本心なんてわかるはずはない。
あるいは……あるいはですよ、落花さんと私のことを、この「おしゃべり芝居」を読んで知った(たぶん、いや絶対に知っていると思う)石谷秀さんの心に何かしらの感情が動いて、つまり刺激されて、今回の撮影を承知された、ということも考えられるじゃありませんか。
あ、あ、あ……。
いけない。こういう私の文章も、たちどころに石谷秀さんと埼京線の落花さんの目に触れてしまうのだ。
おそろしい!
こんなおそろしいことってあるだろうか。
私はパソコンもケータイも持っていないので(すべてRマネまかせだ)その恐怖が本当は実感できないのだが、でもおそろしい。
インターネットというのは、まさしく文明の利器だ。
利器(りき)というのは、よく切れる刃物のことです。するどい兵器のことです。あるいは便利な器械、と辞書にはのっている。
おそろしい!
だから私はパソコンなんて嫌いなのだ。
おそろしかったら、書かなければいいのだ。
そうなのです。だから書かないのですよ、石谷秀と再会したときの、こまかい心理の模様。こわくて書けない。
「やあ、しばらくでした。お元気でしたか」
「しばらくでございました。先生にもお変わりなく……」
なんてものじゃありませんでした。
こういうことが原因になって、たとえば今後、落花さんに会えなくなったら、私、困るのです。
私は臆病な人間だって、これまでに何度も告白しているじゃありませんか。
でも、私の本来の職業はもの書きなので、たとえ臆病でも卑怯者でも、いつかは書かないわけにはいかないのです。
たとえ片腕一本切り落とされても、書かないわけにはいかないのです。もの書きの宿命みたいなものです。
書かない、書けない、ということは、私はもう死んでいるのと同じですからね。
「お前はもう死んでいる!」
いや、まだかすかに生きています。生きようとしています。
それにしても「みか鈴」さんは鋭いなあ。
「みか鈴」さんの頭の鋭さと、ボキャブラリーの豊富さには、私はとてもかなわない。
「SM」という、じつは正体不明で表現至難なものの「核」を、ときおりズバリと衝いて解明してくれます。
「……濡木先生が抱く、『石谷秀の極秘映像』の撮影現場における具体的な覚え書きを作る作業……美香が想像しますに、その作業の時こそ、先生のSMの至福の時ではないかしらって思うのです。ですから、美香は今、先生はとても高揚した、遠足の前の小学生のようなワクワクした気分なんだと思うのです……」
そのとおりであります。
まさしく、そのとおりですよ、「みか鈴」さん。
私の心は高揚したまま、ぐるぐる舞い踊っています。
たったいまも私のこのふつうでない気配を察したRマネから、
「書け書け、メシなんか食わずに書け。そういうコーフン状態のときに書くものがいちばんおもしろいんだ」
と、言われたばかりです。
A子のために「撮影メモ」を書き、「夢」を綴っているいまこそが、「みか鈴」さんがおっしゃられたとおり、私の「至福」のときであります。
妄想以上の快楽が、この世にありますか。
これが現実となると、世俗的な、愚劣なさまざまなわずらわしさが目の前にぐだぐだと出てきて、せっかくの「夢」をぶちこわす。
SMを純粋快楽とするには、つまるところ妄想しかないのですよ。
A子よ、ごめん。
こんなわけで、「撮影メモ」のつづきは、また次回まわしとなってしまった。
石谷秀さんの下着をむりやりぬがして、丸めて、口の中にぎりぎりぎゅうぎゅうねじこんで、その上から白い布のサルグツワを鼻の上までぴったりかけるところで、「メモ」はストップしてしまった。
秀さん、ではない誘拐してきた若い人妻を、これから本格的に、両腕をぎりぎり背中にねじあげ、音の出るほど強く、びしびし縄をかけていくのだ!
見せてやるぞ、濡木痴夢男の縄の凄さを!
(つづく)
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