濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第六十五回
音羽屋安泰
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おはようございます。
菊之助の政岡、観てまいりました。
ついこのあいだまで、テレビのCMに出ていて、目尻の下がっただらしのない顔で、舌ったらずの声しか出なかった男の子に「先代萩」の政岡がつとまるのか、と正直いって半分は不安でした。
不安というより、バカにしていました。
しかし、なんといっても菊之助は、七代目菊五郎の息子であり、梅幸の孫であり、たどっていけば六代目菊五郎(私は名優六代目の舞台を数回観ている世代です)の血をひく御曹子でありました。
一万五千円の高額入場料を堂々と取り(私はおかげさまでいつもいつもご招待をいただいておりますが)人気歌舞伎の花形であり、都内一流の劇場でやる以上、ある程度の政岡は観せてくれるのではないか、という期待はありました。
結論をいうと、その期待どおり、菊之助の超々若い政岡、なかなかよかったです。
内心バカにしていて悪かった。
(前月、歌舞伎座で、この菊之助の三千歳を観ていたのです。吉原の花魁らしい爛れた色気に乏しく、まるで嫁入り前の商家の生娘みたいな三千歳でした。直侍は菊五郎)
今回は、鶴千代君の御乳人(おちのひと)としての気品、凛とした格調の高さを、はじめから終わりまで保ちつづけていました。
なによりも美貌なのが、まことに気持ちいい。
歌舞伎はなんといっても、ビジュアルな美しさがないといけない。
私は、政岡の表情の演技に、隙はないかと意地悪くオペラグラスから目を離さずに観察していました。
隙も油断もなく、寸時の気のゆるみも見られませんでした。
忠義一途の政岡の心を、菊之助は終始つかんでいました。
我が子千松の非業の死を、目の前にして平然として姿勢をくずさない烈女になりきっていました。
気のゆるみは見られませんでした(竹の間から御殿まで、息つくひまもない長丁場の大役、疲れただろうなあ、菊之助)。
たしかに、捕吏に追われる犯罪者を間夫(まぶ)に持つ、吉原の遊女の、暗く屈折した色恋の心情よりも、お家たいせつ、主君第一の武家の妻のほうが、若い菊之助にとっては理解しやすいと思います。
(雀右衛門の三千歳には、百人も千人もの男と枕を交わした退廃的なエロティシズムがありましたが、雀右衛門より七十歳も年下の菊之助に、それを求めるのは無理というものでしょう)
菊之助は口跡もよく、セリフ回しも的確で、不自然なおかしいところはありませんでした。
(どこだったか感情が激したところで、地の声を出してしまったことが一度だけありましたが)
お父さんがしっかりと手に手を取ってこまかく指導し、伜は素直に忠実に、父親の教えを守って演じていると思います。
家(いえ)の芸を伜に伝えよう、伝えなければならないという父親菊五郎の執念を感じました。
まあまあこれでいいだろう、あとは気をぬかずに、魂をこめて役になりきることだ、と多少不安の面持ちを残しながらも、父親は伜に言ったことでしょう。
そして、いま現在、となりの歌舞伎座で、花道の揚幕の口で、「船弁慶」の知盛の霊に扮した姿で、出を待ちながら、伜の政岡の出来に思いを馳せていることでしょう。
菊之助の政岡に、貫禄とか風格がたりないなどといま言うのは、酷というものでしょう。
ところどころ父親に似るのは当然ですが、ある瞬間、祖父である梅幸そっくりの顔かたち、表情を見せるのは、やはり「血」というもののなせるわざだと思います。
音羽屋は、安泰です。
きまりどころでは、客席から若い政岡になんども拍手が送られました。
大役をまかせられている花形役者への同情とか励ましの拍手ではなく、この悲劇の中に引きずりこまれている感動の拍手でした。
若い女性客も多かったのですが、この忠義と母子の愛情の古めかしい義太夫狂言の内容が、彼女たちの心に完全に伝わっているようでした。
新しいとか古いとかのもんだいではなく、こういうふうに一生けんめい魂をこめて演じれば、相手に伝わるのだと思い、意を強くした次第です。
若い俳優たちがおのれの道を信じて、このような純粋な精神で伝統芸に打ち込んでいれば、歌舞伎は安泰であり、これまでも繁栄することでしょう。
ドラマの流れを早くするせいか、飯(まま)炊きの場がカットされていました。
私にはちょっとものたりなかったのですが、いまのお客さん方には、このほうがいいかもしれません。
丸本物(まるほんもの)としてしっかり上演する会をつくって、べつにやればいい。
愛之助の八汐も、若い政岡と釣り合いのとれた若さで、ところどころみずみずしく、敵役としての憎々しげな風格がもう一つたりなかったように思いましたが、上品で、きれいで、よかったです。
上村吉弥の松島、門之助の沖の井、そして右之助の栄御前も、まずまずのところ。
ただし門之助には、滝之屋一門の総帥として、もうすこし個性をはっきり出していただきたい。猿之助一座にいたころの小米時代の彼のほうがよかった(私は彼の父親の門之助が好きだった!)。
海老蔵の仁木弾正は、顔のこしらえがいかにも妖術使いで不気味なところはいいけれど、ちょっとこわすぎる感じ。
でも、お客の心をわくわくさせる気合いのこもった仁木で、何やらやたらに凄んでいるところがご愛嬌。
いま若手ナンバーワンの人気ですが、たしかに花形役者の雰囲気があって好きです。
獅童の荒獅子男之助は、柄とこしらえだけは立派でしたが、心構え、魂がもう一つこのドラマの中に溶け込んでいない感じがしました。
私はこの人が猿之助劇団にいたヨチヨチ歩きのころからのファンです。
成人してから、萬屋錦之介(亡くなった)が歌舞伎座でやった「瞼の母」の、金町の半次郎は好演でした。
元気ハツラツ、わきめもふらず荒々しく、忠義一徹にこり固まっていなければならない荒獅子男之助の雰囲気に、なぜか不安とためらいのようなものを見ました。
ステージの上の役者の内心の在り方は、意外にお客にわかるものです。
厚いメイクを施し、派手な衣装を着ていても、心の中がわかります。
なにしろ役者は、全身を客席にさらし、大きな声を出して、すべてを露出しているのですから。
人のことを言ってはおられません。これは私自身の自戒です。
この獅童と愛之助が、コンビで踊る切りの「竜虎」。
これはあきらかに、けいこ不足でした。
(私はたぶん、この踊りを観るのは初めてだと思います。つまり、新作舞踊ということです。振付は坂東三津五郎)
初日をあけてからまだ二日目でしたから、踊りの手が揃っていないのも無理はないと思いますが、お客さまは一万五千円払い、一日つぶして観にきてくださるのですからね。
けいこ不足だなんて言ってはいられません。
さて、R子おねえさま。
私たちの一座も、今夜から新しい台本のもとに、けいこに入るのですね。
たわむれに、私たち一座にあてはめてみると、R子ねえさまの役どころは、政岡でしょうか。
いや、政岡はH美さんにゆずって、私はR子ねえさまの八汐が観たい。
さぞかし憎たらしい、政岡を頭から踏みつぶすような、重量感のある八汐をみせてくださることでしょう。
私は仁木弾正といきたいところですが、仁木は問注所の対決でセリフがたくさんあり、セリフ覚えの苦手な私は、荒獅子男之助のほうにしましょう。
小学生のころ、私は近所の子供たちと、仁木をやったり、男之助をやったりして遊びました。
「アーラ、怪しやなア。……うかがい寄ったどぶねずみめ、うぬもただのねずみじゃあんめえ。この鉄扇を食らわぬうち、一巻渡してキリキリ消えて、カッカッカッ、なくなれえええ!」
芝居ごっこをやる遊び仲間に、ウメコという柄の大きな活発な女の子がいて、その子が男之助をやるとき、私は大きな風呂敷を体に巻きつけて、ねずみをやりました。
仁木弾正が化けたねずみです。
そのねずみが、ウメコの足にぎゅうぎゅう踏まれてもがきます。
子供心にとても気持ちよかったのです。
東京下町の、そういう環境のもとで私は生まれ、育ちました。
そういえば、R子ねえさまも、生まれ育ったのは向島でしたね。
浅草と向島、隅田川をへだてた、となり町です。
これからもよろしくお願いします。
以上、いいお芝居にご招待いただいた御礼と、観劇のご報告まで。
(つづく)
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