2008.12.3
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第六十七回

 寿劇場の筋書


 私は一冊のうすいプログラムを、たいせつに持っている。
 思い出せないくらいの遠いむかしから、つまり、少年時代から持っている。
 それは、昭和十九年五月一日発行の、
「花形歌舞伎一座」
 の「筋書」である。プログラムのことを、歌舞伎の世界では、大体「筋書」とよぶ。
 この筋書の表紙には、「花形歌舞伎一座」と赤地に白ヌキの文字で記され、その下に小さく、
「本所緑町・寿劇場・電話本所二四二二番」
 とある。
 表紙をも数えに入れて、わずか十二ページのプログラムである。
 表紙裏には、つぎの文章が印刷されている。

 御挨拶
 大東亜戦争の様相は愈々凄愴苛烈一億一心火の玉となって、"鬼畜米英撃滅"せずば不止の決戦の秋に當りまして四方の御贔屓皆々様益々御健勝の御事と拝し恐悦に存じ奉ります。就ては時局の要請に基き吾人劇界も種々変動が御座いましたが幸ひ当劇団は大衆演劇が本旨であり皆様の御支持もありまして残存、興行を継続致すことになりましたことは吾等団員一同の感激に堪えない處で御座いますと共に皆様のご支援の賜物と深く感謝致します。
 当局の命にて四月一日より一回興行時間が二時間卅分(幕間共)と短縮になりましたので従来の四、五本立が三本乃至は二本立になり入替なしで昼夜三回興行となりますが劇団戦時体制確立の為め配役の善悪に不拘全員一致協力相努めますれば益々御支援御来場の程伏して懇願奉り上ます。
 昭和十九年陽春興行 寿座劇団 敬白

 以上が表紙裏一ページをべったりと埋めて印刷された、劇場側の「御挨拶」である。
 この文章を、面倒がらずにお読みくだされば、この時代がいかに不穏な、緊迫した状況にあったか、すこしはお察しいただけると思う。
 書き写しながら感じたのは、この時代の文字(活字)なので、二〇〇八年の現代とちがって、画数の多い、見慣れない文字がやたらに多いことである。
(とはいえ、私はこの画数の多い漢字、そして旧カナ使いの世代に育っている)
 私は現在使われている簡略化された文字で原稿紙に書き移したのだが、原文の中には画数の多い、いまから見るとかなりむずかしい字がある。
 たとえば「壽座」、「劇團戰時體制」、「繼續」などである。
 中高年以上でないと、読むことすらできないのではないだろうか。
 ありがたいことに、私のこの文章を、私に代ってパソコンのワープロで打ってくださるRマネは、むかしのこの面倒な文字に、並みならぬ愛着をもっていてくださる。
 年齢は若いのに、むかしの文字に情緒と魅力を感じてくださる。
 画数の多い複雑なこれらの文字を、趣味的な興味をもって探がし、ワープロ打ちをこまめに正確にやってくださる。
 ありがたいことである。
 むかしの人間たちが、魂をこめて凝結させ、作り上げたこういう古い美しいものに素直に感動し、傾倒していくRマネの姿勢を、私はいつもたのもしく思う。
 じつは、文字や活字に関してばかりでなく、彼女はいわゆる「SM」世界への理解力、造詣の深さも、五十年間この坩堝の中に生きている私が舌を巻くほどである。
 私の知識なんて単なる経験のつみかさねに過ぎないのだが、彼女には生来の感覚があり、加えて知性と理性、冷静な判断力をもっている。
 そういう武器を持って論戦を挑んでこられると、私はとてもかなわない。
 じつは、昭和十九年における濡木痴夢男のことを書けと命じたのは、Rマネなのである。
 もう一年以上も前から、彼女は「書きなさい、書きなさい」と言いつづけている。
 少年時代のことなんか書いたって、色気はないし、つまらないよ、と私が言っても、
「大丈夫です、書きなさい。おもしろいと言ってくださる読者が、かならずいます。書きなさい」
 頑として言いつづける。
 そのうちになんとなく、機が熟してきて、こうやって書きはじめたのだ。
 いや、なんとなく、ではない。
 Rマネが、意図的に、私の心の「機」を、「熟させた」のである。
 つまり、私をふるい立たせることに労を惜しまないRマネは、この古い時代の貴重な証人であり、証言者である「竹本弥乃太夫」師の存在を探がし出し、私に知らせてくれたのだ。
 私は歓喜した。
(このへんのことに関しては、あとで書くことになる)

 閑話休題。
(これは、かんわきゅうだい、と読む。それはさておき、とも読む)
 いまはあまり使われないこういう古い言葉も、Rマネは、若いくせに、すらすらっと読むことができ、意味もわかってくれるのである。本当にありがたいことである。
 かけがえのない、たのもしい同志である。私は全幅の信頼をよせている。
 全幅(ぜんぷく)というのは、あらんかぎり、すべて、最大限、という意味である。
 いや、同志などと気やすく言っては申しわけない。
 私のこの「おしゃべり芝居」、四〇〇字詰原稿紙で、すでに一千一百枚を超えている。
 かぞえたら合計何字になるのだろうか。
 私は頭がわるいので計算できないのだが、すべて彼女が、あのパソコンの中に、正確に、きれいに記録してくれているのだ。
 たいへんな労力であり、努力である。
 Rマネに対しては、同志などとよぶより、戦国時代だったら、馬上の主君の轡を取る武士の気持ちに、私はいまなっている。

 閑話休題。
 またまた、それはさておき。
 花形歌舞伎一座・寿劇場の筋書の表紙をめくって第一ページ目に演目が掲載されているが、二筋の線で囲った欄外の上に、
「鉄壁の防空陣を築きませう」
 という文字が、横に並べて印刷されている。
 右から左へ読む並べ方である。いまとは逆である。
 いまの人間だと、うっかり、
「うせまき築」
 と読んでしまう。
「鉄壁」の文字も、六十年前の筋書の印刷では「鐵壁」である。
「鉄壁の防空陣を築きませう」
 という標語の意味が、いまの人たちにわかるだろうか?
 わかりやすくいえば、アメリカの空軍が私たちの頭上に爆弾を落とすから、それを防ごう、守ろう、という標語である。
 防ごう、守ろうとお上から言われても、高い空から投げ落とされる爆弾を、木造建築の小さな劇場で、歌舞伎を見物している無力の庶民の、どこに抵抗する力があるのだろう。
 当時、東京の町中の至るところに、この種の標語が貼りめぐらされていた。
 爆撃も実際に、すこしずつ始まっていた。
 こういう情況下でも、寿劇場の花形歌舞伎一座は、幕をあけていたのである。
 そして、客は多勢、集まってきていたのである。
 誇張していえば、アメリカ軍の空襲をうけ、死ぬかもしれない情況の中でも、庶民は芝居を観たかったのだ。
 私もまた、私の父に連れられて、この寿劇場の芝居を、毎月観に行っていた。
 運命の歯車の回転が、ちょっとスピードを変えていたら、私は父と一緒に、本所緑町で黒焦げ死体になっていたはずである。
 筋書の一ページ目に印刷された、
「鉄壁の防空陣を築きませう」
 という標語の下側に、
「五月興行大歌舞伎」
 の文字が並んでいる。
 これも右から左へ横に並べた活字で、いまの人間だったら、
「技舞歌大行興月五」
 と読んでしまう。
 一本横線が引いてあって、その下側に、ここからはふつうのタテ組みで、
「昭和十九年五月一日初日(十二時開演・昼夜三回入替無)」
 と印刷されている。
 十二時つまり正午に開演して、同じ狂言を一日に三回、入れ替えなしでやっていたのである。
 現在の芝居興行の常識からいうと、異様としかいいようがない。
 その狂言は、

第一 鎌倉三代記 絹川村閑居の場 一幕
第二 天野屋利兵衛 天野屋奥座敷より淀川堤追放迄 四場

 の二つだけである。
 太平洋戦争末期にさしかかった当時の芝居見物のありさまを、資料とともに、もうすこし述べたくなった。
 少年時代の私が、まぎれもなく、そこにいたのである。
 いまさらそんなことを知ったところで仕方がない、おもしろくない、資料だなんて、そんな面倒くさそうな文章なんか読みたくない、と思われる方は、もうおやめになったほうがいい。
 興味のない方にとっては、ほんとにつまらない、なにをいまさら、という文章である。
 寿劇場の筋書の最終ページに掲載されている活字を、また書き移してみる。
「書き写す」が本当なのか、「書き移す」が正しいのか、わからない。
 私の実感としては、「書き移す」としたいところなのである。

 内務省防空局指示事項
 戦時興行場ニ於ケル防空上ノ措置要綱竝ニ寿劇場處理内規

 警戒及空襲警報発令ニ依リ各興行場ノ興行中止ノ際ニ於ケル入場券ノ取扱ニ関スル件

一、興行中警戒警報アリタル時ハ直チニ興行ヲ中止シ静ニ其ノ旨觀客ニ通知ナスコト
二、警戒警報解除ノ場合ハ興行ヲ開始又ハ続行ノコト
但シ之カ解除後ノ再開ハ興行終了予定時刻迄ニ残存番組ヲ終了スルコト能ハサル時ハ再開セサルモノトス亦長期ニ亘リタル場合ハ解除ノ日、午後一時マデニ解除ノトキハ興行ヲ開始ス
三、興行開始前ノ前売券等ノ入場料ハ原則トシテ払戻(現金)ヲ為スコト
但シ相手方ノ承諾ヲ受ケ次回興行ヲ開始シタル日又ハ特ニ指定シタル日ノ興行前項ノ払戻ハ警報解除後ニ為スコト
四、興行開始後ノ入場料ハ払戻(現金)ヲ為サヽルコト
五、興行開始中警戒警報ニヨリ興行ヲ中止シタル時ハソノ中止時期カ開演後一時間以内ノトキハ無料入場券二時間以内ノトキハ半額券ヲ発行シ入場ヲナサシムルコト
但シ空襲ニ依リ興行場被害ヲ受ケ其ノ他興行再開不能ナル時ハソノ入場券ハ無効トス
六、再入場ハ次回同種興行ヲナス時ハ残存番組ノ興行ニ限リ有効トス(替リ番組モ可)
七、割引入場料ハ其ノ入場券等ノ料金ノ半額以下トシ次回同種興行ノ全番組ヲ観覧セシムルコト
 其ノ他当局ヨリ特ニ命令又ハ指定アリタル時ハ其ノ指示ニ依ルコト

 以上である。
 アメリカ空軍の無差別爆撃によって、やがて東京の庶民の町が焼きつくされる不吉な気配が、内務省防空局というお上の機関が作ったこの要領の悪い、無味乾燥な文章から伝わってくる。
 当時の不気味な、不快な雰囲気を伝えるには、へたな世相描写の文章よりも、この権力者からの高圧的な命令文を読んでもらったほうが、実感としてわかるのではないかと思って、原文通りに書き写してみた。
 こんなに不吉で、不粋な悪文を、演劇のプログラムに載せなければならなかった時代のおぞましさに、いまさらながら暗澹となる。
 しかし、こんなに暗い、不気味な世の中の雰囲気にもかかわらず、小学生の私が父親に連れられてこの劇場を訪れるときは、いつも満員だった。
 正午に入場すると、同じ狂言が三度くり返して観られるわけである。
 入れ替えなし、というのは、入場料は一回払えば、一日じゅう観ていられるということだ。私の父は「入れ替えなし」が好きだった。
(入場料の金額が筋書に記載されていないので、いまは知ることができない。どうして筋書に入場料をのせなかったのだろう。物価の変動が激しかった時代のせいだろうか?)
 小学生の私が一日じゅう観ていられるのは日曜日しかない。
 私や私の父親のように、一回分の入場料を払って、一日に同じ狂言を三回ずつ観ている客は、当時たくさんいたはずだ。
 座頭の市川新之助と、松本高麗之助の屋号を呼ぶ、
「成田屋!」
「高麗屋!」
 の黄色い掛け声が、私の耳にいまでもこびりついている。
「黄色い掛け声」というのは、この劇場には若い女性客が多かったせいである。
 下町一帯のこのあたりの中小企業に、住み込みで働いている女の子たちが、誘い合わせて、グループで来ているんだよ、と私の父は楽しそうに私に説明した。
 そういう女性たちを、父は親しみをこめて「女工さん」と呼んだ。
 新之助も高麗之助も、すっきりと鼻筋の通った、いい男だった。
(この新之助は、いま人気の市川海老蔵の数代前の直系の血筋である。このことに関しては、あとでまた書くことになると思う)
 高麗之助は背の高い、姿勢のいい、口跡のいい、いかにも女の子にキャアキャア騒がれそうな色気のある風貌だった。
「河内山」の松江家上屋敷玄関先の場で、花道にさしかかった高麗之助の河内山宗俊が、北村大膳に呼びとめられて、ギクッとなるシーン、
(このときの北村大膳は、沢村紀三郎という役者だった。筋書も残っていないのに、小学生の私が、どうしてこんなことまで覚えているのだろう。自分でもふしぎに思う。紀三郎という役者は、いつも憎たらしい、敵役ばかりやっていた)

大膳「おとぼけあるな、宗俊どの。……なんで身共が見忘れましょうぞ。……いかようにシラを切るとも、のがれぬ証拠は覚えある、左の高頬に、一つのホクロ……」
河内山「や、(トぎっくり思い入れ)……大膳どのには知っていたのか、ははははは」

 というのが、いわゆる「大歌舞伎」でやる河内山なのだが、これが本所寿劇場の舞台では、
河内山「やッ、それじゃ大膳、てめえ知っていたのか。カッハハハハハ(と笑う)……いかにもおれは河内山だ……とんだところへ北村大膳、こんなひょうきん者に出られちゃあ、仕方がねえ。まあ聞いてくれ……悪に強きは善にもと、世にたとえにもいうとおり……」
 と、ここで黙阿弥調の有名なセリフになるのだが、ここんところの高麗之助の口調のいいこと、歯切れのいいこと、子供の私がうっとりと聞き惚れた。
 うっとりと聞き惚れて観ていたからこそ、あれから六十余年たった今日、ついきのうのことのように、鮮明に記憶しているのだ。
 こういう思い出話になると、キリがない。

「……空襲ニ依リ興行場被害ヲ受ケ興行再開不能ナル時ハ……」
 という、お上作成のこの悪文の条項にある不吉な予告のとおり、翌年三月九日の夜、アメリカ空軍の徹底殺戮作戦で、寿劇場は全焼した。
 この小さな芝居小屋を愛した人々も、大量に焼き殺された。
 新之助や高麗之助と同じように、下町の女工さんたちに人気のあった、中村鶴太郎という若女形がいた。
 ポッチャリした肉づきで、やや丸顔で、色気があった。可愛らしい娘役が多かった。
 一座の立女形で、格調の高い演技力をもつ市川福之助よりも、私はこの鶴太郎のほうが好きだった。
「野崎村」で、この鶴太郎のお染を観たとき、小学生の私が性的に興奮した。
 三月九日夜の空襲で、鶴太郎が焼死したということを聞き、私は悲しみのあまり、涙をこぼした。
 鶴太郎は、寿劇場と運命を共にしたのだ、と思った。
 数年後、私は市川福之助の弟子になり、福二郎という名前をもらうことになる。

つづく

濡木痴夢男へのお便りはこちら

TOP | 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 | プロフィル | 作品リスト | 掲示板リンク

copyright2007 (C) Chimuo NUREKI All Right Reserved.
サイト内の画像及び文章等の無断転載を固く禁じます。