濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第六十八回
鶴亀劇場のこと
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私は十五歳のとき、人間の死体をたくさん見ている。
絵とか写真とかの映像で見たのではない。
現実に、肉眼で見ている。すぐそばで見ている。
死体を踏んで歩いたこともある。
道いっぱいに死体がかさなり合って溢れていて、踏みつけて歩かないと前へ進めなかった。
あちこちにバラバラになって逃げて行った肉親たちを探がして、私は焼きつくされた町なかを、十キロ四方ほども歩きまわった。
その歩いた範囲内だけでも、数千人の死体があった。
ついさっきまで生きていた男女、子供、赤児たちばかりであった。
私のように生き残って、だれかを探がして歩きまわっている人もいた。
当時のこういう情況については、しかし、これまでに多くの人が書いている。
写真などの記録も残されている。
いまさら私がここに書くこともないだろう。
というよりも、あの数日間の現実は、いくら精密に描写しても、私の力量をもってしては描写しつくされないし、体験していない人にあの事実を伝えようとしても、とうてい伝えることはできない。
私はあきらめている。
語り継ぐことが、生きている者の義務だと言われても、いまの私には伝える気持ちはない。
伝えようとしても、伝わるはずはない、と私はあきらめている。
つぎの世代というものを信じていない。
愚かなこととわかっていながら、その愚かなことを、同じようにくり返す人間の習性、あるいは本性のほうを、私は信じている。私は黙っている。
私の一家は運よく生き残って、千葉県松戸市の、市内から遠くはずれた土地に移り住んでいた。
そして私は、常盤電車亀有駅近くにある鶴亀劇場という映画館を改造した小さな芝居小屋で働いていた。
一九四五年十月、私はまだ十五歳だった。
働いていた、とうっかり書いたが、あれは働いていたと言えるのだろうか。
私は市川福之助という女形の、歌舞伎役者の弟子になっていたのだ。
敗戦後、まだ二カ月しかたっていない時期であった。
「働く」という実感は、あまりなかった。
あのころの私の日々は、何であったのだろうか。
何を考えて生きていたのか。
何も考えずに、漠然とした、あるいは茫然とした日々をすごしていたようにも思えるのだが、結果的には、あの当時の体験が、私のその後の人生や、ものの感じ方に、すくなからぬ影響を与えつづけていた、ともいえる。
が、しかし、よくわからない。なにしろ、まだ十五歳である。
私が通っていた学校は、アメリカ軍の爆撃を受けて消滅し、(焼滅ではない、消滅である。なにしろ屋上にアメリカの飛行機を射ち落とすための高射砲を五基も設置していたというのだからたまったものではない)再建の見通しはついていなかった。
頭の中が空白の時代だったように思えるが、逆にまた、生涯のうちであれほど体内にいろんなものを詰め込んだ、充実した日々はなかったような気もする。
私はこの時期、学校を失った間隙を埋めるように、かなり克明に日記をつけている。
その日記を、私は、いまもなお捨てずに、紛失もせず、持ちつづけている。
「そういう日記があるのでしたら、それも『おしゃべり芝居』の中に入れて書きなさい。十代のころの濡木痴夢男が、どんな考え方をして、どんな生き方をしていたか、私、すごく興味があります」
と、Rマネが言う。
「そんなこと言ったって、たかが十五の子供だよ。生き方も考え方もないよ。食べるものがない焼け跡だらけの東京で、飢えと絶望しかない時代だ」
と私。
「その焼け跡だらけの東京で、十五歳の濡木先生が、なにをやっていたか、やっぱり興味があります」
「あなたに興味があっても、ほかの人にはないだろう」
「あると思います。書きなさい、その時代のことを。いつか書きたいと、先生も言ってたじゃありませんか」
と、Rマネはくり返して熱心に言う。
それでこうやって書きはじめた次第だが、私としては、こんなむかし話をするよりも、本当は、鶴花落花さんとの情事の事を書きたい。
(いまでも熱く、前よりも激しく濃密につづいているのです。落花さんとのことを書くとき、私の体内には若々しい血がよみがえり、心が躍動して、勃起するのです)
なのに、Rマネはなぜか私の若い時代に興味を持って、しつこく書け書けと言いつづける。
あまり熱心に言うものだから、先日、そのボロボロになっている古い日記の、十数冊の中の一冊を、彼女に見せたのだ。
すると、
「わあ、すごい、すごい、なんですか、この日記帳、昭和十五年、皇紀二千六百年、学生日記……。わあ、右から左へ、横に字が印刷されているわ。この古さがすごい。感動するわ!」
と、大きく目をみひらいて言う。
私は、人が感動するのを見るのが好きだ。
Rマネのその驚愕と感激と歓喜の表情を見たとたんに、やはりこれは、どんなに恥ずかしくとも書かねばならない、と決心したのであります。
もちろん私も、この時代のことは一度は書きたいと思っていた。
書いてから死にたいと思っていた。
これを書かないと、私はこの世に生きたことにならないと思っていた。
(書いたからといって、どうなるというものでもないのだが……)
本所緑町の寿劇場が、アメリカ軍の空襲によって焼失したのは、一九四五年(昭和二十年)三月九日の夜である。
これによって寿劇場を拠点としていた「花形歌舞伎一座」は、働き場所を失った。
戦争末期の破滅的な状況にいる俳優といえども、働かなければ生活費を得ることはできない。
寿劇場の座頭(ざがしら)である市川新之助、松本高麗之助を除いた比較的若手の俳優たちは、結束して新たに一座を組織した。
「新生花形歌舞伎」と名乗り、空襲の被害をまぬがれた足立区・鶴亀劇場で興行を開始した。
座頭は坂東鶴蔵、坂東竹若で、両者とも新之助、高麗之助に次ぐ実力のある人気俳優であった。
女形では寿劇場の立女形である市川福之助が参加した。
その他の座員も、ほとんどが寿劇場以来のキャリアも人気もある役者を揃えた。
つまり、寿劇場を焼かれた役者たちが、鶴亀劇場へ引っ越してきたという形であった。
当然、本所緑町の「花形歌舞伎一座」を愛し、ひいきにしていたファンたちも、上野から常盤電車に乗り、亀有駅を下車して、この劇場の観客となった。
この時代、十五歳の私の目には、俳優たちの動きだけしか見えない。
つまり、表面的な移り変わりしかわからない。
興行全体をつかさどる人たちが、あの変動の激しい戦後すぐの状況下において、ビジネスの面でどういう活躍をしたのか、子供の私にはわからない。
私にわかるのは、私の目に直接映り、皮膚に触れたことだけである。
当時、下町一帯をとり仕切っていた大川芸能社という力のある興行組織があり、そこの社長の努力によって、根拠地を失ってから半年余りで、役者たちはまがりなりにも舞台復帰ができた、ということなどを私が知ったのは、かなり後になってからである。
大川芸能社は、鶴亀劇場の他に、隅田川の東側に、白鬚劇場という小屋を持っていた。
この小屋も、もとは映画館だったのを改装したものである。
本所から深川にかけて、アメリカ空軍の無差別爆撃はとくにひどく、多くの死者が出たところだが、この向島(むこうじま)の一角だけは、奇跡的に焼け残った。
舞台を広くし、小さな花道を張り出し、引き幕をつけて芝居ができるようにした。
大川興行社は、この二つの小さな劇場に、かつての「花形歌舞伎一座」を二分して、交替に出演させたのである。
坂東鶴蔵と坂東竹若の二枚看板を引き離し、それぞれに役者たちを配分して一座を構成した。
つまり「新生」花形歌舞伎は、鶴蔵を座頭とする一座と、竹若を座頭とする一座の二劇団になった。
そして、鶴亀劇場と、白鬚劇場に、一週間交替で興行させたのである。
市川福之助は、坂東竹若一座の女形であった。
したがって福之助の弟子である私は、当然竹若一座の座員ということになった。
市川福之助について、演劇雑誌「演劇界」が、昭和五十五年に発行した「歌舞伎俳優名鑑」の中に、こう記されている。写真入りである。
本名 水鳥春男
代数 三代目
住所 大田区大森本町二−十五−三
屋号 成田屋
定数・替紋 瓢箪桐
生年月日 明治37・3・21
出生地 大阪島の内大宝寺町
父の名・職業 浅井秀松・印刷業
師匠の名 二代目市川右団次・十代目市川団十郎
身長 一・五四
体重 四八
略芸歴 大正9・10 市川鶴之丞で中座「六波羅物語」の町の娘で初舞台。昭和7・11 宮戸座「時雨の炬燵」のおさんと小春で名題昇進。昭和10・9 市川福之助と改名。
(つづく)
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