2008.12.20
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第六十九回

 泥絵の具のにおい


 鶴亀劇場に隣接して、葛飾荘という木造二階建ての老朽アパートがあった。
 一階と二階に十部屋ずつ並んでいて、マッチ箱のように一室が六畳ひと間に区切られていた。トイレも台所も風呂場も共同だった。
 一階の玄関を履物をぬいで上がると、正面真中に奥までつらぬいている廊下があり、その左右に五部屋ずつ並んでいた。
 二階へ上がる階段は、玄関わきすぐの右側にあった。
 その階段の上がり口のところに、入居者全員が使う大きな木製の下駄箱が据えてあった。
 二階はやはり真中の廊下をはさんで、同じ形の六畳の部屋が左右に五室ずつ並んでいた。
 アパートというより、独身者の寮といった作りだった。よけいな飾りのようなものは、何もない。
 廊下の突き当たりに、共同で使う炊事場と便所があった。風呂場は一階だけだった。
 鶴亀劇場に出演する役者や、裏方たちは、劇場に隣接するこの葛飾荘の一階のすべてを、楽屋として使うことを許されていた。
 というのは、このアパートも大川興行社の所有物だったのである。
 二階の部屋を借りているのは、芝居にはとくに関係のない、一般の人たちだった。
 アメリカ軍の空襲によって家を焼かれた人たちばかりが、二階の十室に住んでいた。
 立女形である市川福之助には、日当たりのいい、劇場の裏口に最も近い部屋が与えられていた。
「寿座にくらべると、劇場はすこしばかりお粗末だけど、楽屋はなんだか、ずいぶん立派ねえ」
 と、はじめて楽屋をおとずれる福之助のひいき客は、みんなそう言って感心した。
 部屋の入口には、
「市川福之助賛江、ひゐき与利」
 という文字を染めぬいた華やかな紫色ののれんが掛けられている。
 楽屋ののれんが一枚下げられただけで、殺風景な寮のような雰囲気が、色彩ゆたかな浮き浮きしたものになる。
 寿劇場のことを、ひいきの客たちはみんな「寿座」と言った。
 寿座と呼ばれていた時代が長かったせいであろう。私の父も「寿座」と言う。
 六十数年たったいまでも、「寿座」という言葉をきいたり言ったりすると、私の胸の中になにやら熱い、なつかしい涙のようなものがジーンと鳴りひびき、ふるえながら溢れる。「寿座」は、私がこの世に生まれてくる以前に、虫のような形で私が棲息していた場所なのかもしれない。
「寿座」のことを思うと、なまぬるくて甘くて、途方もなくとろとろとやさしくて、手も足も体ごと引きずりこまれていくような、そんな親愛感に充ちた気分の中に落ちこんでいく。
 本所緑町のあの小さな芝居小屋が、どうして私にとってこんなにも魅力と愛着を持った存在なのだろう。
 これまでに何度か自問自答してみたが、わからないのだった。

 福之助には「番頭さん」と呼ばれる付人(つきびと)がついていた。
 中島という中年の女性で、十年も前から福之助の付人をつとめているという。
 福之助に舞台衣装を着せたり、ぬがしたり、その他、身のまわり一切のこまごまとした世話をする。
 私はこの中島さんに、役者社会のしきたりや、楽屋用語や、女形の弟子としての心得を教わった。
 だが、一カ月たっても私は舞台に出してもらえなかった。
 セリフなんかなくてもいい、化粧をして、かつらをかぶって、時代物の衣裳を着て、舞台に出たかった。
 そのことを中島さんに言うと、
「そうねえ。いきなり女形でセリフのある役をやらせていただくのは無理だけど、こういう無人(ぶにん)の一座だから、そのうちに仕出しのお役でもいただけると思うわよ」
 頬骨がとがっていて、口の中には大きな金歯が光っていて、一見こわい顔だったが、中島さんはやさしいおばさんだった。
「そうお、あなた、寿座時代から親方の芝居をみているの。たのもしいわねえ。だけど、寿座時代といったら、あなた、まだ小学生でしょう。へええ、お父さんに連れられて見ていたのね。お父さんも、うちの親方好きだったのね」
 親方というのは、福之助のことである。
「師匠」とも「先生」とも呼ばずに「親方」と言うように教えられた。
 中島さんは、寿座時代からの福之助のひいき客がくると、自分は後方へすこし下がり、かならず私を紹介してくれた。
「このたび、うちの親方の弟子になった福二郎と申します。こういう小屋ですから、すぐに舞台に出られるようになると思います。どうぞ、ごひいきをお願いいたします」
 と、畳の上に両手をついて、ていねいにあいさつするので、私も同じように畳に額をすりつけてお辞儀する。
 すると、そのひいき客たちは、
「しっかりお勉強なさい」
 と言って、私と中島さんにご祝儀をくださる。
 そういうお客さんはほとんど中年女性で、質のよさそうな着物を着ていた。
(戦災で家を焼かれなかった人なんだな)
 と、私は思った。
 このころの私は、学校へ行くつもりで、かなり克明に日記をつけていたのだが、祝儀袋にいくらはいっていたか、それを書いておかなかった。
 いくらもらったかを書き残すなんて、はしたない、という心が私にあったような気がする。
 そのくせ、もらったとき、飛び上がるほどうれしかったことは覚えている。
 芝居の世界に入って、はじめてもらった祝儀であった。
 いまにして思うと、金額を書いておくべきであった。
 戦後すぐの、ああいうシチュエーション(地下に手で掘った防空壕の中で生活している人が東京都内にまだたくさんいた)の中でいただいた祝儀袋に、いくら入っていたか、いまとなっては、たいせつな資料に間違いないのに、まったく記憶がない。
 一円か、五円か、十円か。
 いや、十円というのは、当時は大金である。おそらく、一円くらいではなかったろうか。
 インフレと呼ばれた時代の食料その他の一般的な物価は、資料本を見れば図表になっているので大体わかる。
 だが、祝儀となると、きまりがないので見当がつかない。
 その人の、相手に対する本当の気持ちである。
 焼け跡だらけの東京の片隅にひっそりと息づく小さな芝居小屋で、女形をめざして修行の第一歩を踏み出した十五歳の少年に、あの女性たちは、どれほどの期待を寄せてくれたのだろう。
 あらゆる文化・芸能が、アメリカ占領軍のいいなりになっていた時代である。
「忠臣蔵」などの報復をテーマとした芝居はすべて禁じられていた。
 歌舞伎芝居の将来に、明かるい灯など見えない敗戦の年であった。

 ところで、私がなぜ市川福之助の弟子になったか、そのいきさつを書いておかねばならない。
 小学生のころから私は福之助の存在を知っていたが、それは客席から眺める女形の舞台姿からであった。
 とくに福之助だけに心を奪われていたわけではない。
 寿座で演じられる歌舞伎芝居全体のムードが好きだったのである。
 福之助のほうは、むろん私のことなんか知らない。私の父のことも知らない。父も私も観客の一人にすぎない。
 私を鶴亀劇場に引き合わせたのは、片岡当兵衛という歌舞伎役者だった。
 この当兵衛と私が知り合ったのは、なんと日立製作所亀有工場の中であった。
 戦争末期になると、私や私の級友たちや上級生たちは、学徒動員という名称の政府の指示のもとに、全員が教室から引き離され、数十棟の巨大な建物の内部で、数千人の労働者が働く兵器製造の仕事の手伝いをさせられた。
 当時の中学は五年制だった。上級生になると、体格はもう大人に近かった。
 天井がやたらに高い工場の中には、重苦しい鉄の機械ばかりが、朝から晩まで、晩から朝まで、つまり二十四時間、ごうごうと鳴りひびいていた。
 そういう殺風景な眺めと、機械油の色気のないにおいが、私は大嫌いだった。
 どんな武器や兵器を作っているのか、軍事機密とやらで知らされなかったが、(重装備の戦車だという噂はあったが)私はそういう力仕事が嫌いで、まったくやる気がなかった。
 当時の言葉でいえば、私はとんでもない「非国民」だった。
 私は、私たちを引率している教師に、
「このままでは、ぼくは死んでしまいます。死んでしまってはお国のためになりません。ぼくに合った仕事をやらせてください」
 と、直訴した。
 その教師は美術の先生で、私を可愛がってくれていた。私は小学生のころから絵と綴方(つづりかた)が得意だった。
 美術教師の口ききで、私は厚生部広報課という、重苦しい黒い機械の音とにおいのしないところへ移ることができた。
 二十四時間轟音鳴りひびく巨大な工場の建物群から離れた粗末なバラック建ての二階に、その広報課はあった。
 私はホッとした。安普請の板張りの小屋が、私には天国に見えた。
 そこでは毎日、労働者を激励し、叱咤し、米英撃滅、神国不滅、生産増強、戦意高揚のためのポスターが作られていた。
「神国不滅」というのは、日本は神の国だから、絶対に滅びない、戦争に負けない、という意味である。恥知らずな、バカな言葉である。
 いまではとても信じられないが、一枚一枚のポスターが、すべて手描きであった。
 描かれたポスターは、関東地区に散在している日立製作所の各工場に送られていくのである。
 広報課員は、七、八人いた。
 課長を除いては、すべて徴用されてきた人間ばかりであった。
「徴用」という言葉は、いまでは死語に近い。
 私が少年のころは、毎日のように耳にし、目で読まされていた、つまり、常用語であった。
 ためしに、辞典で引いてみる。
「徴用―国家が国民を呼び出し、強制的に一定の仕事をさせること」
 とある。学徒動員というのも徴用である。
 お上の命令に反抗する人間はいなかった。
 批判したり逆らったりすれば、すぐに警察に引っ張られる時代であった。
 広報課には、太平洋画会に属する洋画家がいた。
 私はこの人に毎日デッサンを見てもらった。誠実に、熱心に、ときにきびしく私のおさないデッサンを評してくれた。
 職場の先輩と後輩の関係ではなく、師と弟子という気持ちで、絵というものの心と、技術を私に教えてくれた。
 この誠実で真摯な画家の名前を私は一生忘れない。間所一郎という。私の恩師である。
 この画家の他に、広報課には中学校の美術の教師が二人もいた。
 紙芝居の絵を描いて生活していた画家もいた。
 街の看板屋さんがいた。
 綴方(作文)の教師がいた。
 年齢的には、もう兵隊にはなれない人間ばかりであった。
 つまり四十歳を超えていて、肉体労働の苦手な、いってみれば文化系の人間ばかりが集められていた。
 このことを知ったとき、
(ここは極楽だ、天国だ!)
 と私は心の中で叫び、歓喜した。
 当然、私が最年少だった。
 あの人たちは、どうしてあんなにやさしかったのだろう。
 毎日のようにアメリカ軍の空からの爆撃をうけ、日本の街のあちこちが破壊され、数は公表されなかったが、空襲のあるたびにたくさんの無抵抗の市民が死んでいるときに、どうしてあんなにやさしかったのだろう。
 巨大な兵器製造工場の一角にいて、明日は自分が殺されるかもしれない状況のときに、あの大人たちはどうしてあんなにやさしい気持ちでいられたのだろうか。
 私は与えられた仕事を、心を弾ませておぼえた。
 一カ月もたたないうちに私は広報課の仕事に慣れ、ポスター描きも一人前にこなした。
 好きな道なので身につけるのが早かった。
 楽しい日がつづいた。
 まわりの先輩たちは、いや、先輩というより全員が私にとっては先生だったが、私の質問にどんなことでも面倒がらずに答えてくれ、教えてくれた。
 泥絵の具の溶き方(ポスターカラーのようなものは、もうぜいたく品として生産がストップしていた)、ニカワの煮方まで、ていねいに教えてくれた。
 ニカワが調合された泥絵の具の強烈なにおいに、私は芸術の香りを感じ、涙がこぼれそうになった。
 どんなに粗悪な材質であっても、絵の具には戦争のにおいはない。
 テーマはなんであれ、絵の具と筆を使って絵や文字を描くという仕事は楽しかった。
 ルーズヴェルトの頭に、日本空軍の爆弾が突き刺さり、お陀仏になって棺桶に入っているマンガのポスターを描いた。
 棺桶の横に「最後の勝利は我等のもの!」と書いた。
 ルーズヴェルトとは、当時のアメリカ大統領である。
 私が作成したこのオリジナルのポスターは課長にほめられ、私は一人で百枚描き、それが広大な工場内のあちこちに貼り出された。
 他の工場からも注文がきて、さらに百枚描いた。
 こんなものを何百枚描いて貼ったところで、リアリティに乏しく、戦意高揚どころか、紙の無駄にしかならないと、子供の私でさえ思ったのだが、殺風景な工場内に、すこしでも色どりが欲しかったのだろう。
 ルーズヴェルトの頭から流れ出している血の色を、私はいささか毒々しく描いたのである。

 ところでRマネよ。
 私のこんな文章、読んでいておもしろいだろうか?
 不安になってくる。
 この時代のことは、夢中になって書くほどではないと思うが、こうして書きはじめてみると、私自身にとっては、すこしばかりやはりおもしろい。
 というより、つまらないと思ったら、とても書く気にはなれない。
 私は、私を鶴亀劇場に連れて行ってくれた片岡当兵衛さんとのいきさつを述べようとして、この広報課のことを書きはじめたのだ。
 それがいつのまにか、兵器工場の広報課が舞台になってしまった。
 学校がなくなってしまったので、そのかわりに私はこの時代、毎日克明に日記をつけていたと前に書いたが、その日記を読み返しながら、いまこの文章を書いている。
 それなりに少年の感情がこもっているので、ついよけいなことまでだらだら書きそうになり、それを自戒している。
 私は役者の当兵衛さんと、この広報課の中で知り合ったのである。
 だから順序として、徴用されてきた人ばかりの中でも、重い物の持てない、工場労働不適応者だけの職場を説明したのだが、つい長くなってしまった。
 だが、この場所での私のことを、もうすこし書きたい気持ちになってきた。
 絵やデザイン文字の修行と同時に、私はこの職場で、芝居の勉強もしたのだ。
 そのへんのことを、いつかは書かなければいけないと思っていた。
 Rマネから与えられたきっかけをいいことに、私は十五歳から十六歳にかけての話を、もうすこし書きたいと思うのだが、どうだろう。

つづく

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