2009.1.9
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第七十一回

 広報劇団の異才たち


 この時代のことは、目の前におこった現象しか、私にはわからない。
 まだ十五歳であった。
 学徒動員令とかいうもので、いやも応もなく学区の教室から引きずり出され、兵器を製造する巨大な工場へ連れてこられた。
 右をみても左をみても黒い鉄のかたまりがそびえ、ぎたぎたに光る機械油にまみれて、金属を叩いたり削ったりする現場は大嫌いだった。
 こんな色気のない、殺風景なところで働くんだったら、死んだほうがマシだと思った。
 私は、私たちを引率してきた教師に直訴して、ポスターを描いたり、労働者を慰問しにくる芸人たちを接待する広報課へまわしてもらった。
 目の前のことしかわからないので、戦争のゆくえがどうなるか、見当もつかない。
 わかるのは、きょうはまだ生きているな、ということと、目の前に流れ映る毎日の変化だけである。
 東京の空へやってくるアメリカ軍の爆撃機は日毎に多くなり、無防備の町の人たちがたくさん殺されていた。
 暗い時代、といってしまえばそれまでだが、人間の世の中、人間の一生、どうあがいてみても、いつでも、しょせんは暗い。
 人間が地球上に棲息しはじめてから今日まで、耐え間なく、ずうっと殺し合いがつづいている。
 殺すほうも殺されるほうも明るいとはいえない。
 工場に慰問にくる芸人たちの接待係を、私と一緒につとめていた久我千代子が、ある日、ふいにいなくなった。
 彼女は、お茶の水に学校がある女学生で、学徒動員の仲間である。私より三つ年上だった。
 きびきびした動作としゃべり方で、与えられた仕事をてきぱきとこなし、評判のいい、おかっぱ頭の美少女だった。
「このごろ、久我さん、見ないけど、どうしたんですか?」
 と、私は洋画家の間所一郎にきいた。
 久我千代子も私と同じように、広報課の先輩である間所一郎を、絵と書(しょ)の師として仰いでいた。
 彼は小さな彫刻刀で、木片に「一露」という文字を彫り、印鑑を作っていた。
「一露」というのは、書道における彼の号であった。その落款を彫っているのだ。
「私の名は、書のほうでは、真心一露(まごころいちろ)だ」
 と、彼は笑った。間所と真心。こんな洒落も言える人だった。
「久我さん、もう三日休んでますよね。病気なのかな」
 と、私はまたきいた。彼女の姿を見ないと、私はさびしかった。年上の先輩に、私はひそかな憧れを抱いていたのだ。
「久我くんかね、久我くんはね」
 と言って彼は彫刻刀の手を休め、重い目つきになって、ゆっくりと周囲を見まわした。
 木造建てのバラックの二階にある広報課には、他に人の姿はなかった。
「きみ、前にも注意したけどね、このあたりでスケッチなんかしてはいけないよ」
 口ごもりながら、低い声で、私の顔を見ないで間所一郎は言った。
「え?」
「久我くんはね、工場の南門の塀の外に咲いていたヒマワリの花をスケッチしていたんだ。それを、こわい人に見つかったんだ。それで、どこかへ連れていかれたんだ」
 どこへ連れて行かれたのか、いまどこにいるのかわからない、と間所一郎はつぶやいた。
 こわい人というのは、特高とか、もっとべつの秘密警察とか、あるいは憲兵のような人たち、というような意味のことを彼は静かな低い声で教えてくれた。
 久我千代子がスケッチしたヒマワリの花の後方には、工場の建物を囲む塀があった。
 それだけで彼女はスパイ行為と見なされ、どこかへ連れていかれたのだ。
 それ以上のことを、間所一郎は私に言わなかった。それから先のことは、彼も知らなかったのであろう。
 おかっぱ頭の美少女は、ワラ半紙を小さく切って自分で綴じた手帳に、詩を書いていた。
 読ませてください、と私が言っても、恥ずかしがって見せてくれなかった。
 当時の日記の端に、私はこんな文字を書きつけている。

 そうか
 そうなんだな
 人間てやつは
 生きているようだが
 みんな死ぬんだな
 死ぬのがわかっていても
 今日だけは
 じたばたして 生きるのだな

 今日
 ひまわりが枯れた

 私はなぜか、久我千代子が私の前から消えたのは、彼女が死んだからだと思っていた。

「いまこそ奮起の時、本土決戦近し!」
 などという、いま思うと死を目前にした、せっぱつまった文句入りのポスターを描かされる日がつづいた。
「本土決戦」というのは、即「死」ではないか。
 それなのに、死という現実を私はあまり意識していなかった。
 私だけでなく、私の周囲にいる大人たちも「本土決戦」による確実な死を、あまり身近なものとして感じていなかったのではないか。
 このころになると毎日のように空からの爆撃があり、そのたびに、町に残っている女や子供や老人たちが殺されるので、すでにみんな本土決戦みたいな気分になっていたのかもしれない。
「死」に慣れていたのだろうか。
 一時はかなりひんぱんにおとずれて来ていた慰問団が、あまりこなくなった。
 労働者の生産意欲を鼓舞するための芸人を派遣するというゆとりもないくらいに、戦争は追いつめられていたのかもしれない。
 どういういきさつがあったのか、年少者でいちばん下っ端の私にはわからなかったが、外部からくる芸人をあてにせず、広報課を中心にして、自分たちだけの力で労働者に芝居を見せようという計画がもちあがっていた。
 どんなにせっぱつまった情況になっても、人間には慰安と娯楽が必要だということを、工場の上層部にはわかっていた。
 徴用工として数千人、あるいは一万人を超す人間が工場の中に集められているのだ。
 ずらりと並んでいる巨大な建物の中から、芝居心のある男女を探がし出すのは、むずかしいことではなかったように思う。
 素人芝居の一座は、すぐにできあがった。
 座長格は、広報課の次長の鈴木圭一郎という人だった。
 背の高い、恰幅のいい四十過ぎの男で、徴用されてきたのではなく、もともと日立製作所の社員だった。
 実際に舞台に立った経験はないらしいが、芝居が好きで、主役ばかりやりたがる人だった。
 素人劇団をつくろうと言いだし、積極的に行動したのが、この副課長だった。
 労働者たちへの慰安のためではなく、自分の趣味のために劇団を組織したのにちがいなかった。
 おもしろいキャラクターがそろった。
 もと活動写真の弁士、つまりカツベンだった吉岡新太郎、この人は自分が二枚目だと本気になって信じていた。
 鈴木座長に媚びて、「広報劇団」では、つねに二枚目の役を与えられていた。
 カツベン時代、自分がいかに女性客からキャアキャア騒がれていたかを自慢していた。
 頬骨が高く、両眼が落ちくぼんでいて、私はそれほど美男子だとは思わなかった。
 結核の既応症があるとかで、兵隊にとられるのをまぬがれていると言っていた。
「広報劇団」が歌舞伎狂言の「鈴が森」のパロディーをやったとき、鈴木座長の幡随院長兵衛に、この吉岡新太郎が白ぬりの二枚目、白井権八を張り切ってやった。
「橘屋の型でやる」
 と、吉岡は自信たっぷりに言っていたが、さすがに口跡はよく、一応の形になっていた。
 もと曽我廼家(そがのや)五郎一座にいて女形をやっていたという人がいた。
 当時関西で絶大な人気のあったこの一座の芝居を、私は父に連れられて、東劇か新橋演舞場で一度だけ見ている。
 曽我廼家五郎の実物を見ている人は、もうあまりいないだろう。
 私が見たのは、彼の十八番のお婆さん役だったが、がさがさしたしわがれた声で、三階席では声が聞きとりにくかった。
 一堺漁人の筆名で喜劇の脚本を多く残し、全集になっている。
 彼の書いた人情喜劇をアレンジしたものが、いまだに全国の大衆演劇の一座で上演されている。大衆演劇の人たちは、おそらく一堺漁人つまり曽我廼家五郎の作とは知らずに演じているのであろう。
 現在の松竹新喜劇の座長・藤山直美のやる芝居をたどっていくと、藤山寛美、渋谷天外をさかのぼって、この「五郎劇」にゆきつくのである。
 そして私も、じつはこの一堺漁人の脚本全集から、のちに数本をいただいている。
 だが、いまここでそのことを書いているとキリがないので省略する。
「五郎劇」をやめてから東京で何かの商売をやっていて、そのあと徴用されてやってきたその人の名は、山川音松といった。
 やわらかい上方言葉を使い、親切でオカマっぽくて、いい人だった。床山(とこやま)もできるので「広報劇団」では重宝がられた。
 床山とは役者がかぶるかつらを結ったり、かぶせたり、こまかい手入れをする人のことである。
 何かのときに、たとえば暗い舞台裏で私と二人きりになると、じいっと私の顔を見つめて、
「坊や、頭の上に気をつけるのよ。死んではだめよ」
 と母親のような口調で静かに言い、メガネをかけた大きな目玉から、いきなりポロリと涙の粒をこぼしたりするのだ。
 頭の上に気をつけろというのは、アメリカ軍の空爆に注意しろということである。
 いくら注意しろと言われても、相手は大きな飛行機で編隊を組んで、頭上ははるかな高い空を飛んできて爆弾を落とすのだから、気をつけようがない。
 十五歳の少年の目には、異才ばかりが集まってきた中に、のちに私を鶴亀劇場へ連れていき、役者にしてしまった片岡当兵衛がいた。
 そもそも私は、片岡当兵衛との出遇いを説明するために、この広報課のことを書きはじめたのだ。
 だが、つい説明がこまかくなり、長くなってしまった。
 この時代、私には書くことが多い。
 宝塚少女歌劇団にいた市村正子という女の人のことも書いておきたい
 で、当兵衛はあと回しにして、市村正子のことを書く。

 工場内の、どこかの現場事務所にいた彼女が、上層部のだれかの命令で「広報劇団」へ回されてきて、はじめて私の前に姿を現わしたとき、あまりの美しさに私の心臓は縮みあがった。
 毎日ポスター描きばかりやっていて、絵の具を溶いた皿が散乱し、色彩的にはにぎやかであっても、やはり殺風景な事務所の二階に、いきなり彼女は、
「お世話になりまァす、市村正子です!」
 明るくさわやかな、弾んだ声で入ってきた。
 まさしく、ハキ溜めに鶴であった。
 室内の一人一人に歯切れよくあいさつして、最後に私の前に立った市村正子は、
「坊や、仲良くしようね」
 と言って、私の肩に気軽に手をかけると、初対面とは思えない親しみのこもった顔で笑ったのだ。
 やや濃い目の白っぽい化粧をし、口紅までぬっていた。香水のにおいがした。
 私は生まれてはじめて、若い美しい女性から、肩に手を置かれたのだ。
 労働者慰問のためにやってきた女性歌手たちの、どんなスターよりも彼女は美しく光り輝やいていた。
 戦争のためのかげりみたいなものが、すこしもなかった。彼女の身辺からは、退廃のにおいすら発散していた。
 屈託のない、晴れやかな笑顔をすぐ前に見て、私は感動し、失神しそうになった。

 この市村正子は、戦後、宝塚歌劇にはもどらず、新派の水谷八重子の弟子になった。
 私は浅草の松竹座に出演中の彼女に会いに行った。
 水谷八重子はむろん先代で、まだ守田勘弥と夫婦だったころである。
 ああ、八重子と勘弥が同じ舞台で、コンビで演じたこの松竹座の「残菊物語」の、なんとまあ、すばらしかったこと!
 八重子のお徳、そして勘弥の菊之助!
 私は三階席で、涙をポロポロこぼしながら見た。三度も四度もくり返して見た。
 ときには手ぬぐいを口にあて、嗚咽したりした。
 市村正子は「その他多勢」の軽い役をいくつかもらい、舞台に出ていた。二言、三言、セリフを言う役もあった。
 休憩時間に、楽屋へ市村正子に会いに行った。
 水谷八重子の楽屋ののれんのかかった部屋の中で、彼女はいかにも弟子らしく、きびきびと働いていた。
 邪魔になりそうなので、私はすぐに、
「また来ます」
 と言い、八重子にも両手をついて頭を下げ、客席へもどった。
「残菊物語」に感動した私は、私の父と母にも同じ感動を分け与えたい思いにかられ、三人で連れ立って浅草の松竹座へ出かけたりした。
(ちなみに、その松竹座は、いまロックスビルが建っているあたりにあって、劇場の正面は国際通りに向いていた)
 劇団新生新派には、藤村秀夫、柳永二郎、大矢市次郎、伊志井寛、英(はなぶさ)太郎などの名優が揃っていた時代である。
(この浅草の興行では、なぜか花柳章太郎は出演していなかった)
 そういえば私は、新派の大御所・喜多村緑郎の舞台も、数回見ているのである。

 また話が飛んでしまった。
 水谷八重子の弟子になった市村正子よりも、それ以前の、戦争の末期に「広報劇団」のヒロインとして活躍する彼女のことを、私は先に書かなければいけなかったのである。
 いや、じつはそれよりも、片岡当兵衛との出会いを書かないと、私は、鶴亀劇場の私にもどることができない。
 私が役者として、はじめて出演料をもらったのは、鶴亀劇場であった。
 だが、当兵衛の前に、やはり市村正子のことを書きたい。
 なぜなら、十五歳の少年の心に、はじめて女のエロティシズムというものを、なまなましく灼きつけたのが、彼女だったからである。

つづく

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