2009.1.14
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第七十二回

 サドルの上のお尻


 自転車のサドルの上に、市村正子のお尻がのっている。
 のっているというより、サドルの部分に密着している。密着以上にズボンをぴっちりとはいたお尻の肉が、すこし食い込んでいるといったほうが正確か。
 市村正子が力強くペダルを踏むたびに、そのお尻の肉が、もこもこと私の目の前で動いたり揺れたりする。
 まるでお尻だけがべつの生きもののように悩ましく動く。
 私は、彼女がペダルをこぐ自転車の後ろの荷台にまたがって乗っている。
 彼女のよく動くお尻が私の目の前にあるのは、私が彼女の背後にいるからだ。
 私はリュックサックを背負っている。
 リュックの中には、広報課の人たちが描いた戦意高揚のポスターがおよそ三十枚、丸めて入れてある。
 その中の数枚は私が描いたものだ。すべて手描きである。
 幾棟も並んでいる工場の建物の内外にある掲示板に、そのポスターを貼るのが私の役目だった。
 市村正子が広報課にやってくるまでは、バケツに糊と刷毛を入れ、私が自転車にのって一人でポスター貼りを一日がかりでやった。
「坊や、その仕事、私も手伝うわ。私、自転車にのるの、好きだから」
 と、市村正子は自分から言いだし、課長の許可をとると、自転車の後ろに私をのせて走り出したのだ。
 糊と刷毛の入ったバケツは、ハンドルの前側に結びつけた。
 このころの女の人は、老いも若きも、下半身にはくものは、みんな腰のまわりがぶかぶかふくらんだ「もんぺ」だった。
 そういう女たちの中でズボンをはいた彼女の姿は、ドキッとするような異和感があった。色はたしか濃紺か黒だったように思う。
 彼女の年齢は、十九か二十だったろう。足は細く、長かった。
 そういう体型だけで「非国民」といわれた時代だった。足の細さと長さが、はっきりとわかるズボンなのだ。
 私の目には、まばゆいばかりに妖しく美しく、そしてエロティックに見えた。
 工場内のやや広いメインストリートにくると、彼女はペダルをこぎながら私にふりかえり、
「坊や、飛ばすから私のおなかにしっかりつかまって!」
 私はためらった。
 こんな美しい女性のおなかに、背後から両手をまわすことなんか、素直にできるはずはない。ためらっていた。すると、
「いい?飛ばすわよ!」
 言うと彼女はふいにお尻を上げ、宙に浮かした。
 下半身に力を入れると、勢いよくペダルをこぎはじめた。
 私は反動で後ろへひっくり返りそうになった。
 あわてて彼女の腹部に両手をまわし、かじりついた。
 彼女のおなかはやわらかかった。
 背中に顔を押しつけると、いい匂いがした。彼女の体温を感じた。
 彼女が体を浮かし、立つようにしてペダルをこぐと、私の両手はずり下がって彼女の下腹をつかむような形になる。そして、お尻が私の顔にぶつかるのだ。
 夢をみているような気持ちになった。
 工場の建物と建物の間の細い道路に入ると、自転車の速度をゆるめる。
 私はホッとして彼女の体から両手を離す。
 お尻も下がってサドルに落ちつき、私の目の前で、もっこりもっこり、悩ましく動くのだ。
 それまではあまり好きではなかった屋外のポスター貼りが、市村正子がきてから楽しくなった。
 彼女は机にむかってやるこまかい手先の作業よりも、外に出て約一キロ四方もある広い工場内を、自転車で走りまわるほうが好きだったのだ。
 私の仕事のポスター貼りを、その後も彼女はつきあってくれた。
 彼女のこぐ自転車の後ろにまたがると、私は夢のように甘美なエロティシズムの世界に包まれた。死と隣り合わせの現実を忘れた。
 その感覚は、私が生まれてはじめて味わうものだった。
 市村正子と一緒に自転車にのったあのときの快感以上の性的快楽が、その後の私にあっただろうか。なかったように思う。
 五千人以上の女性をハダカにして、縄で縛るなどというような仕事をしてきた私が、こんなことを書いてはいけないのだろうが、いま、ふっと、本心が出てしまった。
 しかし彼女が広報課にきたのは、ポスター貼りを手伝ってもらうためではなかった。
「広報劇団」の主演女優として、工場の現場事務所から引きぬいてきたのだ。
 彼女はまだ研究生か、劇団員になったばかりのころではなかったかと思う。
 スターでも幹部でもないはずだったが、とにかく宝塚少女歌劇団に在籍していたという実績は確かだった。
 当時発行されていた宝塚のプログラムを、彼女に見せてもらったことがある。
 いま思うと、時節柄、紙も印刷もお粗末な、うすっぺらなパンフレットだったが、ページの後ろのほうに、他の劇団員たちと並んで、彼女の顔写真が確かにのっていた。
 そのモノクロ写真の彼女は、目尻がやや吊り上がっていて、目鼻立ちがくっきりと整い、やはり美貌だった。
 市村正子という名前ではなく、他の芸名がついていた。
「きれいだなあ」
 と私は、その小さな顔写真を見て感嘆した。お世辞ではなく、本心だった。私好みの江戸前の、きりりとした美貌だった。
「そう?きれい?」
 うれしそうに、彼女は笑った。

「広報劇団」は、月に一度か二度ずつ、「厚生館」の舞台を使って、産業戦士たちに見せる芝居をやり、市村正子は、そのたびにヒロインを演じた。
 彼女はセリフを言いながら、ややオーバーに体をくねらせ、手足をひらひら動かす。うまいとはいえないが、存在そのものがとにかく華やかだった。
 セリフも、訛はないが、イントネーションに妙な癖があった。
 私はまだ十五歳だったが、芸術・芸能作品に対したときの子どもの直感は、意外に正確なものだ。
 十年、十五年経って、成人した後に同じ作品にふれて、子どものときの印象が正確だったことに気づき、おどろくことがある。
 子どもの直感とか鑑賞眼は、バカにできない、といまでも思う。
 うまいとは言えないが、市村正子の華やかな、派手っぽい演技は、しかし観客である産業戦士たちにはよろこばれた。
 若くて美貌の上にプロポーションに匂うような色気があり、全身をややオーバーに柔軟に動かす。客席から感嘆の声すらあがった。
「東洋平和のためならば」という戦意高揚劇をやった。
 広報課の次長であり、この劇団の座長を自認している鈴木圭一郎が書いた脚本だった。
 中国大陸のどこかの村を占領した日本軍の兵隊と、その村の住民である娘との恋愛めいた情景を描いた、いいかげんな芝居だった。
 いいかげんな芝居、というのは、いま八十歳になった私がいいかげんだった、と追憶するのではなく、当時十五歳だった私が、
「なんとまあうすっぺらな、いいかげんな芝居だ」
 と、けいこのときから感じていたのだ。
 中国軍に食糧を掠奪されて泣いている村の娘が、日本軍の若い兵隊(自称二枚目のカツベン・吉岡新太郎が扮した)に助けられ、二人は淡い恋におちいる。
 娘には老いた母親(もと五郎一座にいた女形の山川音松が演じた)と、弟がいて(この弟の役を私がやった)、姉弟の父親は中国兵に殺されている。
 敗走する中国軍を追って、すぐにこの村から進撃することになる。
 娘と二枚目の兵隊とその淡い恋は、わずか三日間で終わり、その別れのシーンが、クライマックスということになる。その間に、
「東洋平和のために日本は戦っているのだ」
 などのスローガンがやたらに入っていたりして、日中友好をうすっぺらに描いたつまらない芝居だったが、客席は大喝采だった。
 それは、中国娘に扮した市村正子の衣装が、両サイドの裾が膝の上まで割れた、いわゆるチャイナ服だったからである。
 チャイナ服の下には、白いズロースしかはいていない。
(当時はもちろんパンティとか、ショーツとかいう下着はなかった)
 ウェストが細く、胸と腰の線がくっきりと見える花柄の衣装だった。
 敵情偵察に出た吉岡新太郎扮する二枚目一等兵が、敵兵に撃たれて負傷してもどってくるシーンがあり、娘はけなげに介抱する。
 市村正子は熱演した。
 私が嫉妬するほどに熱演した。
 足を撃たれて、虫のように這ってもどってくる吉岡一等兵を発見した娘は、かいがいしく傷の手当てをする。
 彼女は舞台の上で、立ったり座ったり、膝をついたりして動きまわる。
 そのたびにチャイナ服の裾の左右が割れて太腿が見える。白いズロースが見える。
 客席にいる産業戦士たちは、圧倒的に男が多い。拍手喝采するのは当然だった。
 村に住む中国人たちが、日本の兵隊たちとみんな流暢な日本語で会話することの不自然さを、役者たちも観客たちも、だれもとがめなかった。
 見た目が楽しければ、それでよかったのだろう。
 その意味で、きびしい情況のもとで昼夜働く労働者たちの心に、たしかに娯楽を与え、いっときの慰安となり、それが生産力増強に役立ったことであろう。
 この「東洋平和のためならば」という芝居は、なぜか評判がよく、各工場からの要請があって、何度もくり返して上演した。
 亀有だけでなく、埼玉方面にあった同系列の軍需工場からの依頼もあり、役者たちやスタッフがトラックの荷台に分乗して出掛けていった。
 作者であり、座長である鈴木次長は、鼻高々だった。
 劇の中で、鈴木次長は日本軍の部隊長を、堂々と、得意げに演じた。体格がよく、いつも胸を張って歩いている鈴木次長にとって、まさしくうってつけの役だった。
 芝居のはじめのほうで、中国兵に襲われてあぶないところを日本兵に助けられた姉を弟が、抱き合ってよろこぶシーンがあった。
「えんりょしないで抱きついてきていいのよ、坊や」
 と私は市村正子に言われ、私は彼女の背中に両腕をまわし、一生けんめいしがみついていったのだが、このときの感触は、じつはあまり明確な記憶に残っていない。
 多感な思春期の官能的な体験として、忘れられない感動が刻みつくはずなのに、なぜか漠然とした記憶しかのこっていないのだ。
 ひしとばかりに抱き合い、あんなにも舞台で力をこめて接触した彼女の体の思い出が、もっと私の心にあってもいいではないか。
 いま、はっきりとおぼえているのは、やはり、自転車のサドルにまたがり、密着して、もこもこと弾んでゆれる彼女のズボンに包まれたお尻なのである。
 触れてしまうよりも、触れないで、いや、触れることができないで、空想を、いや妄想を胸に抱きしめていたあのときの自分の欲望の熱さのほうが、より強く、いまの私にこのように刻みついている。
 じつは、サドルの上のお尻のことを書きたいために、市村正子との思い出を、長々と記したのである。
 サドルの上のお尻の官能と魅力を、これほど長く書く必要があったかどうか、私にはわからない。
 サドルのお尻のことを書くのに、この市村正子の一章は長かったであろうか。
 読んでくれる人に、退屈させてしまったであろうか。
 私には、自信がない。
 だが、六十五年間、こうして忘れずに、私の脳の中に生きつづけていることだけは、事実なのだ。

つづく

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