先生、美香です。
久しぶりにSMの緊縛に関するお話になりましたわね。
市村正子さんのとの「広報劇団」のこと、戦後の鶴亀劇場の一座の座員になられてからのお話、先生の青春の思い出、楽しく拝見させて頂いておりますが、なにせお芝居の素養のない美香ですので、コメントはできずにいましたわ。
今回はSMの話ですから、久しぶりに長いコメントを書こうかしらって思いますのよ。
>特殊な嗜好世界をもつ鋭敏な緊縛マニアに、いまどき、よろこばれるはずはない。
そうなのです。
美香は緊縛マニヤでなくても、どのSMマニヤだって「苛め」のないSMはつまらないと思いますのよ。先生なら分かって頂けると思いますが、SMマニヤは人を苛めて、もしくは苛められて喜ぶ、鬼畜(という言葉はあまり使いたくないのですけれど)の趣味なのです。そして、そういう事を性的な悦びとするのは鬼畜であるのを自覚してるが故、臆病で繊細な神経をもっていますのよ。
ですから「苛め」がないといけないと言いましても、その「苛め」が、本物の陰惨な「苛め」であってもいけないのです。そういうのは破滅を予感しますし、嫌悪を覚えるのです。
本物の「苛め」に嫌悪するくせに、Mが抵抗も拒絶もしないで先生の書いておられるようなプライドも羞恥心もかなぐりすて、白眼をむきだして自分だけの快楽に寝穢(いぎた)なく溺れるMでは「苛め」そのものが無くなってしまい、そういうSMは何にも面白くなく、興奮もしませんのよ。
かといって「苛め」そのものが本物でMが本気で嫌がるようなSMには憤りさえ覚えるのです。
「苛め」という行為なしには、興奮しませんが、「苛め」という行為が本物であっても興奮しないのです。
この所がその趣味を理解していない方とお話するとずれる所なのですが、SMマニヤにとって(少なくとも美香にとっては)「苛め」は無くっても、有ってもいけないのです。
本物の苛めと偽物の苛め、その微妙なライン上に美香はSMの面白みを感じるのです。それは、本物の苛めでも駄目、かといって偽物の苛めも駄目……矛盾していますが、それこそが社会生活を営みながら許されるリアルなSMプレイの本当の姿だと思います。
勿論、小説やAV映像といった作りモノであったなら、本気で嫌がるような設定であっても構いません。寧ろ、そういう設定で、嫌がり、泣くような被虐にみちたSMって好きなのです。でも最近のAV映像では、本気で鼻汁まで垂らしながら嫌がるリアルなM役の女性の姿もありますが、そういう映像は余り見たくありませんのよ。
>不安におののく女のその反抗をねじ伏せて縄をかけ、縛りあげていく
>サディスティックなプロセス(そして女の悲哀にみちたあきらめの表情
>と、はかなく悶える姿体)の中にこそ、SMの快楽、緊縛の妙味がある。
そうなのです。
SMの面白みはこのような細い線なのです。
M女の反抗は本物の拒否でもつまりませんし、積極的に進んで悦ぶのもつまらないのです。
「悲哀にみちたあきらめの表情とはかなく悶える姿体」という言葉で先生は的確に表しておられますが、美香が見て本当に面白いと思うのは、こうした、少しでも、どちらかにぶれるとなくなってしまう、儚いMの佇まいなのです。
縄を使って女体を複雑に縛られ、女性を悦びに導くような性的快楽ものを演出できる縄師は沢山おられますが、それは、「M女性の快楽のために面倒な縄の作業をして、労力だけを提供する奉仕人にすぎない」と看破されてる縛り係は少ないのです。
「サービスのS」という言葉があり、SはMの快楽の奉仕者たるべきという意見から出ている言葉なのですが、それが行き過ぎるとサービスのSはスレイブ(奴隷)のSになってしまいますのよ。
奴隷が御主人様にご奉仕するが如く、SがMのされたいことだけを丁寧にするようなSMには「苛め」という存在は少しも存在しなくなりますのよ。
「苛め」が存在しないのにMが其処に存在するのでしょうか?
美香にはそういうSMでM役の方が自分だけの快楽に寝穢(いぎた)なく溺れたからといってMの佇まいを感じる事はありません。
そういうMを見て美香は羨ましいと思うより浅ましいと思いますのよ。
そして、快楽追求型といいますか、そういうSMを良しとしてるSの方は、なんの為に複雑な縄まで掛けてこのような事をしてるのかって思ってしまうのです。
無論、Sにサービス精神や心配りがないのはいけないとは思いますが、それはMが寝穢(いぎた)なく快楽に溺れる為のものではなく、拒否や抵抗が本物の嫌悪に変わるのを防ぐ目的で無ければなりませんのよ。
SMに「苛め」が存在せず、M役の快楽だけが存在したとしたら、M役にはMの快楽も存在しないのです。
Mの悦びとはそんな、儚くひっそりとした佇まいなのです。
それを映像化するのは難しいでしょうけど、美香のようなMも含めて、SMマニヤの見たいのはそういうモノなのです。
|