2009.2.2
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第七十三回

 緊縛写真飢餓時代


「狂言半ばではございますが、口上 もっておんうかがい申し上げる次第でございます」
 と、むかしの芝居だったら、舞台中央の幕外(まくそと)へ出て正座し、見物席へむかってうやうやしく両手をつかえて頭を下げるところである。
 つまり、この文章の筋書、いきなり前回と離れたシーンになります。
 六十数年前のことをぐだぐだ書いているうちに、いまの私の毎日の、現実のほうが、どんどん先へ進んでしまっている。
 いま書いておかないと時期を失するおそれがあるので、あわてて「狂言半ばではございますが……」と、申し上げた次第であります。
 余所様(よそさま)にとっては、なにほどもない日常のあれこれでも、私めには記憶にとどめておきたいという気持ちの出来事がある。
 で、市村正子とのその後のこと、「広報劇団」に新しく片岡当兵衛という歌舞伎役者が加わったこと、戦争が終わってからその当兵衛に誘われて鶴亀劇場の一座の座員になったことなどは、あと回しにして、いま現在のことをすこし書くことにします。
 私がこの「おしゃべり芝居」を書き始めた目的の一つは、じつ鶴亀劇場時代のことを記録したいがためだったのに、六十数年前に意識がもどっているうちに、毎日毎日新しい刺激物が目の前に現われる。
 そして、それもたちまち、過去へと遠去かってしまう。
 すぐに書きとめておかないと、鼻の先をよぎって、数歩離れたとたんに忘れてしまう。
 忘れることはないにしても、時間がたつと感動がうすれ、印象があいまいになってしまう。
 まあ、忘れてしまってもいい場合がほとんどだけど、記録しておきたいこともある。
 というわけで、話は急に「鶴亀劇場」からも「広報劇団」からも離れて、現在のことになります。

 いま私は「SMネット」という隔月刊の雑誌に、
「前略、縛り係の濡木痴夢男です」
 というタイトルの連載エッセイを書いている。
 まだ始めたばかりの連載だが、その四回目に、やや本音に近いことを書いた。
 現在の私の心境についての本音である。
 概略こんな内容である。
 撮影の現場において、いまの縛り係は、大体において、ただ縄で女体を縛る、その手順とか、表面的な緊縛の形を示すだけである。
 それだけで良(よし)としている。
 最近のモデルは、縛られることが好きな女性ばかりなので、たとえ形だけでも、体に縄をかけられるとすぐに反応し、陶酔して、羞恥する心も忘れて自分の性的快楽にのめりこむ。
 まあ、正直といえば正直、素直といえば素直である。
 プライドも羞恥心もかなぐりすて、白眼をむきだして自分だけの快楽に寝穢(いぎた)なく溺れるM女群のそういう姿を、映像制作会社は、ここぞとばかりに映像化し、商品化して、その女体の性器に異物を挿入したりして、これがSMだ、などと得意になっているが、私はもはや、そういうものは刺激的なSMとは思わないし、じつはもう見たくもない。
 映像を好む緊縛マニアにとって刺激的なのは、目の前に縄を見せただけで素直になり、よろこんで全面的に従順になってしまう女よりも、縄が体に接近してくると、ハッと危険を感じておびえ、おののき、縛られる忌わしさを拒否し、反抗を見せる女の姿なのだ。
(そこにまず、緊縛マニアの心を怪しく興奮させ、グッと盛り上げる要素がある)
 不安におののく女のその反抗をねじ伏せて縄をかけ、縛りあげていくサディスティックなプロセス(そして女の悲哀にみちたあきらめの表情と、はかなく悶える姿体)の中にこそ、SMの快楽、緊縛の妙味がある。
 この「妙味」の有無こそが、SMビデオが商品として売れるか、売れないかを左右するのだ。
 この妙味のシーンがなかったら、縄を持って女を縛る男の存在なんて、マゾ女にとっては、自分の欲望を満足させる、単なるサービス係でしかない。
 縛り係なんて、M女性の快楽のために面倒な縄の作業をして、労力だけを提供する奉仕人にすぎない。
 もっといってしまえば、女性の快楽のために存在する奴隷みたいなものである。
 私が自分のことを「縄師」なんかではなく「縛り係」と称するのは、このへんの理由からである。
 縛り係というのは、縄による刺激(あるいは、縄でなくてもいいのかもしれない)を楽しみたい女王様に、ひたすらに快楽を捧げる、卑しい男の仕事である(ひねくれて言えばこうなる)。
 こんな現実の姿を商品として映像化したところで、特殊な嗜好世界をもつ鋭敏な緊縛マニアに、いまどき、よろこばれるはずはない。
(一時は歓迎されるが、マニアの神経はとにかく敏感である。永続きするはずがない)
 よろこばれなければ、商品として売れない。
 SM出版産業が衰微していくのを見ているのは、やはりさびしいことである。
 たとえどのような姿であれ、すこしは残って続けていってもらいたい。
 そう思って私は「SMネット」の編集部に、
「私が、思いをこめて激しく女体を縛り、縄だけで十分に迫力のある、強烈な、マニア緊縛の原点ともいえる場面をつくるから、貴誌で撮影しませんか」
 と、提案した。
「そして、その映像を、貴誌の膨大な長さの付録DVDの中に、十分間でも、五分間でもいいから加えていただけませんか。ホンモノの緊縛マニアを、絶対によろこばせてみせます」
 と、お願いしたのだ。
 付録のDVDは、長さ三時間近くもあるのだ。
 その提案を私はそのまま原稿にして、
「前略、縛り係の濡木痴夢男です」
 の、第四回目に掲載してもらうことにしたのだ。
 しかし、結果を先にいうと、この案は採用されなかった。
 まず、担当の人からの電話での返事があり、このことについて語り合った。
「第四回目のお原稿は、いかにも濡木先生らしい、すばらしい内容であり、このまま掲載させていただきます。先生のご希望に沿うことのできない私どもの立場を、先生のお原稿のあとに、私が書かせていただきますので、その校正刷りを、どうかお目通しください」
 と、担当編集者のK氏は私に言った。
 二、三日後に、その校正刷りがFAXで送られてきた。
 私はすぐに読んだ。
 私の原稿のあとに、私が提案した五分間の強烈緊縛シーンの撮影を、編集部としては実現することのできない理由が、K氏の文章で正確に要領よく表現されていた。
 一読、私は納得した。
 私がそんなに情熱をもって訴えても、編集部の立場としては、私の思いをこめた緊縛映像の撮影を実現できない理由が、誠実に、簡潔に説明されていた。
 緊縛マニアの一員である私の心情を、正確に理解してくださっていることが、私には最もありがたかった。
 K氏とは連載原稿を書き始める以前から何度もお目にかかっており、その誠実なお人柄は、いつも私の心に好ましかった。
 誠実というのは、SMというものに対する、ときに謹厳とも思える態度をふくめてである。
 この雑誌の編集者としての立場、ご自分の心情を、せまいスペースの中に正直に、飾りけなく書きのべられていることに、私は感動した。
 連載中の「前略、縛り係の濡木痴夢男です」その四回目の「真の緊縛美を見せたい」という私の文章、そして、それに対するK氏の返事を読みたい方は「SMネット」という雑誌を、ぜひ書店で探して買ってください。
 買いもとめて自分の物にしないと、付録のDVDを見ることができません。
 この長時間のDVDをごらんになると、私が「真の緊縛美を見せたい」を書いた気持ちを、ご理解いただけると思います。
 といっても、このDVDの中身が、よくないというわけでは決してありません。
 よくないどころか、フツーの人が見たら、絶対におもしろい。手に汗を握って興奮することでしょう。
 きわめて強烈な、ものすごい迫力があります。
(その意味で、これはやはりアブノーマル映像の一種だと思います)
 映像制作会社各社の選りすぐりの新作映像の、それぞれの作品のクライマックスと思えるシーンが、つぎつぎと、見本市のように華麗に展開されます。
 肉体を拘束され、両足を左右に大きくひろげられて(あるいはモデル自身が自分でひろげて)男根型バイブその他の異物を性器に導入されるシーンが、圧倒的な勢いで展開します。
 男優に凌辱されるシーンも、もちろん連続します。
 画一的ではありますが、美しく愛らしくメイクをほどこされた若い女性たちが、つぎつぎに、ぜいたくな数で出現し、下半身をひろげ、性器のほとんどの部分を見せてくれます。
 もちろん、性器の中心を思われる部分は、ボカされています。
 ボカされているために、いっそう全体がエロティックに見えるのかもしれません。
 くり返しますが、この付録DVDをごらんになれば、「真の緊縛美を見せたい」を書いた私の気持ちが、すくなくとも緊縛マニア諸氏にはわかっていただけると思います。
 本誌に掲載されているカラー写真も、各社の映像のクライマックスシーンが、効果的に美しく、見事にレイアウトされています。
 このレイアウトの格調の高さに、私はこの雑誌の編集者のセンスと手腕を感じます。

 私が自分の原稿と、K氏からの返事の文章を校正刷りで読んでから二日後に、不二企画の春原悠理(すのはらゆうり)から連絡があった。
「そろそろ緊美研を復活させたいと思うので、近いうちに会って打ち合わせをしませんか」
 という。私は応諾した。
 まだ会っていないのでどういう形になるのか具体的にはわからないが、悠理の言葉には並みならぬ情熱がこもっていた。
 私たちのこの世界、情熱がすべてである。
 情熱がなければ、ゼロにひとしい。
「真の緊縛美を見せたい」という私の切なる願望が、すこしずつ実現の方向にむかっていきそうな予感がある。
 真の緊縛マニア諸氏に集まっていただき、私がモデルを使って緊縛責めのテクニックを披露する日が、再びやってきそうな気がする。
 そういえば不二企画のブログに、私は「濡木痴夢男の緊縛ナイショ話」という文章を書き続け、すでに七十三回目になる。これを読んでいただくと、緊美研復活の今後の動向がわかるかもしれない。

つづく

★Rマネの註★
2009年2月2日現在、書店に並んでいる「SMネット」の最新号は2009年2月号です(この号には「前略、縛り係の濡木痴夢男です」の第三回目が掲載されております)。
上記「おしゃべり芝居 第七十三回」で話題になっている「前略、縛り係の濡木痴夢男です 第四回」が掲載されるのは次号=2009年4月号(2009年2月23日発売予定)になります。

みか鈴さんからのcomment   ★おしゃべり芝居第七十三回への感想★
2009年02月03日 15:03
先生、美香です。
久しぶりにSMの緊縛に関するお話になりましたわね。
市村正子さんのとの「広報劇団」のこと、戦後の鶴亀劇場の一座の座員になられてからのお話、先生の青春の思い出、楽しく拝見させて頂いておりますが、なにせお芝居の素養のない美香ですので、コメントはできずにいましたわ。
今回はSMの話ですから、久しぶりに長いコメントを書こうかしらって思いますのよ。

>特殊な嗜好世界をもつ鋭敏な緊縛マニアに、いまどき、よろこばれるはずはない。

そうなのです。
美香は緊縛マニヤでなくても、どのSMマニヤだって「苛め」のないSMはつまらないと思いますのよ。先生なら分かって頂けると思いますが、SMマニヤは人を苛めて、もしくは苛められて喜ぶ、鬼畜(という言葉はあまり使いたくないのですけれど)の趣味なのです。そして、そういう事を性的な悦びとするのは鬼畜であるのを自覚してるが故、臆病で繊細な神経をもっていますのよ。
ですから「苛め」がないといけないと言いましても、その「苛め」が、本物の陰惨な「苛め」であってもいけないのです。そういうのは破滅を予感しますし、嫌悪を覚えるのです。

本物の「苛め」に嫌悪するくせに、Mが抵抗も拒絶もしないで先生の書いておられるようなプライドも羞恥心もかなぐりすて、白眼をむきだして自分だけの快楽に寝穢(いぎた)なく溺れるMでは「苛め」そのものが無くなってしまい、そういうSMは何にも面白くなく、興奮もしませんのよ。
かといって「苛め」そのものが本物でMが本気で嫌がるようなSMには憤りさえ覚えるのです。
「苛め」という行為なしには、興奮しませんが、「苛め」という行為が本物であっても興奮しないのです。
この所がその趣味を理解していない方とお話するとずれる所なのですが、SMマニヤにとって(少なくとも美香にとっては)「苛め」は無くっても、有ってもいけないのです。
本物の苛めと偽物の苛め、その微妙なライン上に美香はSMの面白みを感じるのです。それは、本物の苛めでも駄目、かといって偽物の苛めも駄目……矛盾していますが、それこそが社会生活を営みながら許されるリアルなSMプレイの本当の姿だと思います。
勿論、小説やAV映像といった作りモノであったなら、本気で嫌がるような設定であっても構いません。寧ろ、そういう設定で、嫌がり、泣くような被虐にみちたSMって好きなのです。でも最近のAV映像では、本気で鼻汁まで垂らしながら嫌がるリアルなM役の女性の姿もありますが、そういう映像は余り見たくありませんのよ。

>不安におののく女のその反抗をねじ伏せて縄をかけ、縛りあげていく
>サディスティックなプロセス(そして女の悲哀にみちたあきらめの表情
>と、はかなく悶える姿体)の中にこそ、SMの快楽、緊縛の妙味がある。

そうなのです。
SMの面白みはこのような細い線なのです。
M女の反抗は本物の拒否でもつまりませんし、積極的に進んで悦ぶのもつまらないのです。
「悲哀にみちたあきらめの表情とはかなく悶える姿体」という言葉で先生は的確に表しておられますが、美香が見て本当に面白いと思うのは、こうした、少しでも、どちらかにぶれるとなくなってしまう、儚いMの佇まいなのです。
縄を使って女体を複雑に縛られ、女性を悦びに導くような性的快楽ものを演出できる縄師は沢山おられますが、それは、「M女性の快楽のために面倒な縄の作業をして、労力だけを提供する奉仕人にすぎない」と看破されてる縛り係は少ないのです。
「サービスのS」という言葉があり、SはMの快楽の奉仕者たるべきという意見から出ている言葉なのですが、それが行き過ぎるとサービスのSはスレイブ(奴隷)のSになってしまいますのよ。
奴隷が御主人様にご奉仕するが如く、SがMのされたいことだけを丁寧にするようなSMには「苛め」という存在は少しも存在しなくなりますのよ。
「苛め」が存在しないのにMが其処に存在するのでしょうか?
美香にはそういうSMでM役の方が自分だけの快楽に寝穢(いぎた)なく溺れたからといってMの佇まいを感じる事はありません。
そういうMを見て美香は羨ましいと思うより浅ましいと思いますのよ。
そして、快楽追求型といいますか、そういうSMを良しとしてるSの方は、なんの為に複雑な縄まで掛けてこのような事をしてるのかって思ってしまうのです。
無論、Sにサービス精神や心配りがないのはいけないとは思いますが、それはMが寝穢(いぎた)なく快楽に溺れる為のものではなく、拒否や抵抗が本物の嫌悪に変わるのを防ぐ目的で無ければなりませんのよ。
SMに「苛め」が存在せず、M役の快楽だけが存在したとしたら、M役にはMの快楽も存在しないのです。
Mの悦びとはそんな、儚くひっそりとした佇まいなのです。
それを映像化するのは難しいでしょうけど、美香のようなMも含めて、SMマニヤの見たいのはそういうモノなのです。

 ★みか鈴さん、ありがとうございました。
  皆様もお読みになったご感想など、是非お気軽にお寄せください。

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