2009.2.10
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第七十六回

 ものすごく濡れながら


 村山由佳という作家が「週刊文春」に連載していた「ダブル・ファンタジー」という小説が一冊になった。
 当時、治療にかよっていた歯科医の待合室に置いてあった「週刊文春」で、トビトビに読んでいておもしろかったので、全部を通して読もうと思った(文藝春秋刊・一六九五円+税)。
 時期を同じくして「オール読物」(二〇〇九年二月号)に、村山由佳と石田衣良の対談が、この「ダブル・ファンタジー」を中心にして行われている。
(同じ出版社なので新刊書の宣伝も兼ねているのだろうが)
 この二人の対談が、あけすけで、また素敵におもしろい。
 ここまで大胆にしゃべってしまっていいのだろうか、私にはとてもできない、と思う。
 なにしろこのお二人は、いまや地位も名誉もある人気作家なのだ。影響力だって大きいはずだ。
 雑誌のほうの対談に目をやりながら、単行本になった「ダブル・ファンタジー」を読みすすめていると、思わずニヤニヤし、おもしろくておもしろくて、なんだか人生浮き浮きしてくる。
 男が女と一緒に裸で寝ているとき、いちばん気になるのは、女が本当に気持ちいいかどうか、ということである。
 どれくらい気持ちがいいか、男にはわからない。女でないから絶対にわからない。
「ダブル・ファンタジー」の作者は女なので、男の作家が想像して書くのと違って、かなり本心が出ているような気がする。
 だから興味をそそられ、男は興奮する。
 やっぱりおもしろい小説を読むことが、この人生において、一番の快楽なんだなあ、と思ったりする。
 で、いまのこの自分の気持ちを記録しておきたいという欲望に抗しきれず、今回も「鶴亀劇場」時代にもどることなく、「ダブル・ファンタジー」によだれを流す話を書いてしまうのだ。
(Rマネが不機嫌になるかもしれないが、これがいまの私の気持ちなのだから仕方がない。いまこんなにこの小説をおもしろがっていても、すこし時間がたつと、この感動もたぶんうすれてしまうのだ。ストーリーも登場人物も、タイトルすらも忘れてしまったりする。だけど、いま感動して夢中になっていることだけは確かなので、その自分の気持ちを、正直に書きのこしておきたいのですよ、Rマネさん!)

 しかし、チクショー、うまいなあ、この村山由佳という人。
 いや、呼びすてにしては申しわけない。
 これからは尊敬と友愛をこめて、村山由佳さん、と書くことにしよう。

 さて、どこからこの小説のおもしろさを伝えようか。
 といっても、五百ページ近くある内容の、いまやっと百五十ページまで読みすすめたところである。
 私が歯科医の待合室で読んだところにまで、まだ到達していない。
 けど、やっぱりおもしろい。
(まさか、蜷川幸雄が出てくるとは思わなかったなあ!)
 全ページ読み終えてから、気分を落ちつけて、冷静になって、全体の印象を書けばいいし、それが常識なのだろうが、それまで待ちきれない、というのが私のいまの気持ちなのだ。
 私はせっかちなのだ。
 考えてみると、私の人生において、私はあまり冷静になったことがない。
 私は浅草生まれの浅草育ちで、根ッからのオッチョコチョイなのだ。
 つまり、軽薄人間なのだ。
 自分でいうのだから、まちがいはない。
 私の父も母も浅草生まれの浅草育ちなのだ。
 芸ごとが好きで、まじめに働くことが嫌いで、怠惰が好きで、なにごとも自分勝手だった。
 私が子供のころ、梅雨の季節で毎日雨が降っていた。
 父は仕事をするのが嫌だと言って、雨が降っている間じゅう、家の中で、布団を敷きっぱなしにして、ごろごろ寝ていた。
 母も寝ていた。似たもの夫婦というが、母も布団を敷きっぱなしにして、ごろごろ寝ているのが好きな、だらしのない女だった。
 三人の子供(私と弟と妹)も、一日じゅう布団の中で、学校へも行かず、ごろごろ寝ていた。
 畳の上に布団を敷きっぱなしにして、親子五人、ごろごろ寝ていた。
 私たち一家の布団は、いつも湿ってべとべとしていて、なにやら臭いにおいを発していた。
 私はその臭い布団の感触とにおいが好きだった。

 やッ、私は何を書こうとしていたのだ。
 そうだ、私は頭の悪い、軽薄な性格で、こういうオッチョコチョイの下品な人間になってしまったのは、すべて両親のせいだ、と言いたかったのだ。
 オッチョコチョイなどという江戸の下町の下品な言葉は、まさか辞書にはのっていないだろうと思って、ためしに引いてみたら、びっくりした。
 ありました。

「おっちょこちょい」浮ついていて、考えの浅いこと。軽薄なこと。また、そういう人。

 そうなのですよ。親の代からオッチョコチョイで下品な私に理論的な、系統立った批評文なんか書けるはずはない。
 だから、この「ダブル・ファンタジー」も、順序なんかかまわずに、おもしろいと思ったところを、どんどん書くことにしよう。
 順不同に書いていこう。それしかない。

 やっぱり最初にギョッとしたのは、奈津という名前の三十五歳になる脚本家のヒロインが、愛する夫と一緒に寝ていながら、ひそかにオナニーをする場面の描写である。
 男の官能作家が書く女のオナニー場面だったら、いくらでもある。
 それこそ、馬に食わせるくらい、みなさん、精力的に、扇情的に、大量に書いています。
「性生活白書」みたいな投稿雑誌にも、男性の読者や投稿家の書いた女性のオナニーシーンは、山ほどあります。
 しかし、女性の、いまをときめく若く美しくチャーミングな直木賞作家が、ここまで書くか、と思われるほどのオナニー描写は、やっぱりなまなましく、私を感動させてくれる。
 私を興奮させるのは、じつは「オール読物」の対談で、由佳さんが、石田衣良氏を相手に、このようなことをしゃべっているからであります。

石田 たとえば暗いレストランで食事していますよね。『眠れる真珠』で書いたんですけど、僕、女性にショーツを脱いでもらうんですよ。
村山 おや。
石田 テーブルにクロスがかかっていると足下は見えないでしょ。「じゃ、ちょっと脱いでみて」って言うと、「エッ、ここで?」なんて言いながら、こうやって(もぞもぞする仕草で)脱いで、「それをちょっとテーブルの上に出してみてくれる?」と言うと、置いてくれる。
村山 うわあ。
石田 それを手に取って、レースのところが見えるように畳んで、胸ポケットに挿して。
村山 なにそれ、エロくさ!
石田 それでお会計とかするの。
村山 そうすると、女性はもうメロメロなわけ?
石田 というか、楽しいの。「なんか、スースーするんだけど」とか言うし。
村山 そういうふうにして非日常をつくり出すんだ。
石田 非日常というか、日常なんだけど(笑)。
村山 日常!
石田 これ、テレビじゃ絶対言えないなあ(笑)。

 いま人気絶頂の直木賞作家であられる石田衣良氏のこのおしゃべりは、大胆にして小気味いい。
「SM界の大御所」とか「巨匠」とかよばれている某作家が、
「女を後ろ手に縛るときに、背中にまわした手首をていねいに縛るバカなマニアがいるけれど、背中なんかどうせ見えないのだから、後ろ手の手首に縄をかける必要はない」
 と言っていたのにくらべると、石田衣良氏のこのおしゃべりは楽しくて好感がもてる。
(ちなみに私は石田衣良氏の小説のファンで、本もたくさん買って読んでいます)
 そういえば、某SM界の大御所作家の、その無知きわまる発言が掲載されていたのも、数年前の同じ「オール読物」の鼎談ページだった。
(私はこの鼎談記事を読んで怒り、あきれ、不二企画のブログ「濡木痴夢男の緊縛ナイショ話」に、こまかく書いておいた。興味のある方は、そちらをお読みください)

 さて、村山・石田対談の、このあとに、私をギョッとさせる発言がある。

村山 石田さんは、じゃあ、セックスの場面を書いていて苦しいということはないんですね。
石田 もう楽しいんだよね、純粋に。
村山 私は石田さんと違って、正直、ものすごく濡れながら書くわけですよ。
石田 へえ、いいなあ。
村山 いいでしょう(笑)。でもそうすると、ワンシーン書くとね、ぐったりするんですよ。もうムチャクチャぐったりするんです。
石田 ちょっとうらやましい(笑)。
村山 苦しいし、欲求不満になる。やっぱり文章は絵に描いた餅なので。だから、連載している間の自分の欲求のコントロールがものすごく難しかった。

 若くて可愛らしい女性作家が、セックス場面を、
「ものすごく濡れながら書く」
 というのは、どういうことなのか。
 ただ濡れるだけではないのですよ。
「ものすごく」濡れながら書くのですよ。
「ワンシーン書くとぐったりする、ムチャクチャにぐったりする」のですよ。
 凄いなあ。
 よくこんなこと言えるなあ。
 しかも、歴史と実績を誇り、膨大な発行部数を維持しつづけている一流出版社の月刊誌の中での発言ですよ。
(私なんかもの心ついたときからこの雑誌を愛読しつづけている。少年時代、野村胡堂の「銭形平次捕物控」は毎号楽しみだった)
 国民的といってもおかしくない大雑誌の中で、こういうことが堂々と言える時代になったんだろうなあ。
 この対談のページには、村山由佳さんと石田衣良さんの写真が、数枚掲載されている。
 衣良さんのダンディなお姿は、ちかごろテレビでもよく拝見しているのでおなじみだが、由佳さんはめったにお目にかかれない。
 この写真の由佳さんが、まあ、なんとも可愛らしいのだ。
 ちょっとしもぶくれの、愛嬌のある、そして肉感的な白っぽいセーターを着用されたお顔が、バッチリ写されているのだ。
 こんな可愛らしい色気のあるみずみずしい女性が、「ダブル・ファンタジー」のような小説を書き、雑誌の対談の場では、びっくりするような発言をされるのかと思うと、私のような男は全身がむずむずしてくる。
 小説の中の奈津という三十五歳のヒロインがオナニーするシーンと、その場面を「ものすごく濡れながら」書いている由佳さんの姿が入り混じり、重なって、私の頭の中では、ほとんど同一人物になっている。
 それに由佳さんのお姿の写真を加えると、まあ、エロティックな妄念がひろがること、ひろがること、無限に怪しく、そして妖しくひろがりつづける。
 お二人は対談の中で、このことを、作家らしい味のある言葉で語っている。

村山 誤解を気にしはじめると際限がないので、もう書いたものはすべからく虚構なんだ、と思うようにしたんです。私が選んで書いた言葉自体、幾つもある言葉の中から選ばれて出てきたもので、意図的に書いたことはもちろん、意図的に書かなかったことがある時点で、それは既に現実と乖離しているわけですよね。それを読む人はさらに自分の経験で翻訳して読んでいくわけだから、また乖離が進むわけでしょう。そう考えると、現実はどうであれ一度書かれた時点ですべて虚構なのだから、つまらないことを考えるのはやめようと。奈津は私自身のことだと思われても構わないと開き直って、ずいぶん楽になりました。むしろ、どうせ裸になるなら銀座の往来の真ん中で、って(笑)。
石田 いや、そうなんです。小説って、みんな必ず勘違いするので、勘違いさせておけばいいんですよ。

 よくわかっていらっしゃる。
 そうなんですよ。
「翻訳」「勘違い」「妄想」みんな同じことです。
 読者に勘違いさせ、自由に翻訳させ、勝手に妄想させておけばいいんです。
 勘違いし、翻訳し、妄念に浸ることに勝る快楽はないのですから。
 小説の中のかなりリアルなオナニー場面を、すこしここに紹介「させていただこうと思ったのですが、著作権のこともあるだろうし、やめました。
 じつは、この場面の描写、
(この程度だったら自分にも書けるぞ)
 と思ったのですが。
 しかし、由佳さんが「ものすごく濡らしながら」書いた文章だと思い、彼女のふっくらした肉づきの写真を眺めながら、縄を一本加えて「翻訳」していると、むらむらと欲情が高まってきます。
 要するに私は、いやらしい男なのでした。

つづく

★Rマネの補足★
文中にあります某作家の鼎談記事について書かれた「濡木痴夢男の緊縛ナイショ話」は第58回〜第63回となります。

濡木痴夢男の緊縛ナイショ話 第58回 或る三者会談を読んで

このテーマは、第59回「笑いもの」、第60回「ノーマルなSM小説」、第61回「臍(ほぞ)を噛む」、第62回「裏側も縛りたい」、第63回「マニアのいない現場」まで続きます。どうぞあわせてご覧ください。

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