2009.2.6
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第七十五回

 一時間よりも二十秒間


 まあ、しかし、「みか鈴」さんという方は、私の書いていること、言っていることを、じつによくわかってくださり、その理解度の的確さ、深さに、いつもびっくりさせられ、私には持ち合わせのない文章表現力の冴えに舌を巻き、あまりの見事さに、ときどき腰をぬかしそうになったりします。
 現在の「SM関連人間たち」の行動形態や心理分析を、私が感じている以上に的確に感じてくださり、わかりやすく表現してくれるのは、まず風俗資料館の中原るつさん、Rマネージャー、古い(いや、ベテランの)SM女優である雨月小夜(うづきさよ)、そして鶴花落花さん、卓抜した文章表現力の持主であられるみか鈴さんだけです。
 むろん、他にも、表面には出てこられない緊縛マニアの方々が、たくさんおられます。
(私の書いた本の売れ方、緊美研ビデオの売れ方で、それはわかります)
 みか鈴さんは、こんどの私への感想の中で、
「――先生の『緊縛術』敢えて術という言葉を使わせて頂きますが、この術はマゾっ気のない普通の女性でも耐えられるような安全な縛りです。そしてそれは、今のSMの縛りであります。」
 と、書かれています。
 そうです。そうなんですよ、みか鈴さん。
「安全な縛り」そのとおりなんです。
 私の「緊縛術」なるものは、いまから四十数年前、私が「裏窓」という雑誌の編集を引き受けたときに編み出したものです。
 その当時のモデルは、まさしく、マゾっ気のない、普通のヌードモデルばかりでした。ですから、そういう女性たちにも耐えられる「縛り」だったのです。
 このときのことを、角度を変え、見方を変えて、いま私は、不二企画のブログ「濡木痴夢男の緊縛ナイショ話」の中に、当時使っていた白い木綿(もめん)のロープを引き合いにだして書いています。
 つまり、感触のやわらかい木綿のロープでそろそろといたわりながら、あるいはだましながら、モデルを縛って撮影していた当時を告白しています。
「緊縛美」なんて言葉も、いってみれば、だましの一つの手段です。

「巷に氾濫している今の縛りは、先生の『緊縛術』のアレンジに過ぎない、と言いましても過言ではないように思います。『緊縛』というジャンルで圧倒的なシェアーを誇る、技術体系が濡木流とも云える縛りの方法ですわね」
 と、みか鈴さんは書いていますが、私の縛り方が圧倒的なシェアーを占めている実際を、先日もそういう人たちの現場をこの目で見てびっくりし、彼らの縄の使い方が、いわゆる「濡木流」の拙劣なアレンジにすぎないということを実感しました。
(あのときはほんとにびっくりし、そして嫌気がさしたなあ……)
 そして、つくづくと、しみじみと、我が身の罪の深さを自覚しました。(苦笑)
 濡木流の拙劣なアレンジでは、いくらマゾモデルが白眼をむき、鼻汁を流して泣き悶えたところで、商品として売れるはずがない。
 ホンモノの緊縛マニアは、そんなに愚かじゃありません。
 ですけどね、みか鈴さん、
「SMが安全になってしまい、そこにはSMの持つ緊張感がありません」
 などと私たちがうっかり言うと、とんでもない勘違いをされることがあるのですよ。
「あ、そうか、SMは安全ではいけないのか。緊張感がなければいけないのか」
 と、うなずき、縛って宙吊りにしておいて、わざと落とそうとしたり、やたらに危険な「責め」をやりたがるSM業者がいるのですよ。
 モデルに不安と苦痛を恐怖と疲労を強制し、それを商品化して、
「どうだ、凄いだろう、これがホンモノのSMだ!」
 と、意気揚々と胸を張る人たちがいるのです。
 一例をあげます。
 後ろ手に私が縛りあげたモデルを、予告も打ち合わせもせずに、水を張ったプールの中に、いきなり突き落とした映像監督がいました。
 そのモデルはもともと泳げない上に、両手を縛られているので、本気になって恐怖の悲鳴をあげ、溺れながら泣き叫びました。
 十秒ほどで彼女は助けられましたが、正気にもどるまで長い時間を必要としました。
 私は怒り、監督とけんかをしました。
「ショックで心臓麻痺でもおこしたらどうするんですか」
 それでもその監督は、
「いい表情が撮れた。危険がなければSMじゃない、これこそホンモノのSMだ」
 と、得意になっているのです。
 SM業界には、こういう人もいます。
 私はなるべく、そういう人とはつき合わないようにしています。
 ですが、さまざまな義理がからみ、どうしてもそういう現場に行かなければならないときがあります。
 でも、私の任務が終わったら、さっさと帰ります。
 そういう人と、緊縛の話も、SMの話も一切しません。

 みか鈴さんは、うまい、的確な表現をされています
「『苛め』という行為なしには、興奮しませんが、『苛め』という行為が本物であっても興奮しないのです」
「SMマニヤにとって(少なくとも美香にとっては)『苛め』は無くっても、有ってもいけないのです」
 無くても有ってもいけない、という表現はマニアだったらよく理解できます。そのとおりなのです。
 このレトリックがわからない人を、私はマニアと呼びたくない。
「本物の苛めと偽者の苛め、その微妙なラインの上に、美香はSMの面白みを感じるのです。それは、本物の苛めでも駄目、かといって偽者の苛めも駄目……矛盾していますが、それこそが社会生活を営みながら許されるリアルなSMプレイの本物の姿だと思います」

 みか鈴さんのこの言葉に、私はまったく同感します。
 個人的なプレイに限らず、モデルを使ってのSM映像、写真表現の場合でも、同様のことが言えます。
 本物の苛めと偽者の苛め……この微妙なライン上にSMの面白味はある、とみか鈴さんは書かれていますが、私はこの微妙なラインの上にあるのが、SM快楽の妙味、と言っています。もちろん同じことです。
 ラインの上というよりも、曲芸の綱渡りのときの細い綱の上、といったほうがわかりやすいかもしれません。
 まあどっちにしても、きわめて繊細な感覚です。
 偽者の苛めは駄目、かといって本物の苛めは、もっと駄目。
 デリケートな快楽なので、非デリケートな神経しか持たない人たちには、しょせん理解できないし、味わうことのできない官能世界なのです。
 だからもう、わかってもらえない人たちに対して、わかってもらおうと思わないほうがいい。
 あきらめたほうがいい。
 あの人たちには、あの人たちの、小さくまとまった「常識的」なSMの概念があり、その掌にのるほどの小さな固い箱の中から、一歩も出られないのですから。
「常識的な」というのは、もちろん私の、せいいっぱいの皮肉です。
 私たちのSM・緊縛は、あくまでも細くデリケートな一本の綱の上に、いつもかすかに揺れながら存在し、フツーの人には感じとれないほどのこまやかな感覚ですけれど、じつは宇宙のように果てしなく広い快楽地帯であります。
 広くて深い四肢の骨がとろけるような、脳髄が痺れるような独特の官能世界。
 でも、宇宙のような広さ、という形容は大げさですかね。
 それでは言い直しましょう。
 八十歳になっても、十代の若者のようにみずみずしく新鮮に欲情し、ときには神秘的とも思える快楽の中に熱く深く浸れる感覚。
 それが緊縛によるSM世界です。
 八十歳になる私がこのように実感し、実証しているのですから、まちがいないでしょう。

「最近のAV映像では、本気で鼻汁までたらしてリアルに陶酔しているM役の女性の姿もありますが、そういう映像は余り見たくありません」
 と、みか鈴さんは書いておられます。
 みか鈴さんは「SM映像」と書かずに「AV映像」と言っている。
 そうなんですよ。
 制作者側が、いくら「SM」と称していても、ああいう「M女」を見せられては、私たちはもはや「AV」と思うより仕方がないのです。
 こういうAV映像は、みか鈴さんだけでなく、緊縛マニアの人たちは、ほとんどもう見たくないでしょう。
(一時はめずらしいし、おもしろいと思ったこともありましたけど……)
 そして私も、もうあまり見たくない。見たところで感動しないし、なんだかシラケるだけです。
 ついでだから、はっきり書いてしまいましょうか。
 いくら制作者側が「SM映像」と称して宣伝しても、商品として販売成績がかんばしくないのは、それが本当の「SM」ではないからです。
 M女と称するモデルが、なんの抵抗もなく、羞恥心もなく、いさぎよくマタをひろげて快楽をむさぼり、満喫している映像なんて、結局は、巷に氾濫し、私たちをうんざりさせている「AV」の変型でしかないのです。
 どんなにモデルをアクロバット的な、不思議なポーズで縛って吊り上げたりしても、そこに「SM」の妙味、香気がなかったら、マニアの心には、なんの感動も与えないのです。
 感動も興奮も与えてくれない商品に、私たちはお金を出す気はありません。

「プライドも羞恥心もかなぐりすて、白眼をむきだして自分の快楽に溺れる女たちの浅ましさ」
 と、みか鈴さんは書かれていますが、この中で「浅ましさ」という表現には、私、まいりました。
 そうなんです、その「浅ましさ」なんです。
 私が撮影現場において、ある瞬間、フッと力がぬけてしまうのは、M女と自称する彼女たちの、この「浅ましく」傲慢に、無抵抗に快楽をむさぼるだけの表情と姿体に触れたときなのです。
 M女たちの、ただ「浅ましい」だけの姿を見せられたとき、そこにはもう緊縛SMの秘めたる魅惑のエロティシズムは無残に消え失せ、男の愛撫に身をまかせた「性技」の一つに陶酔している、フツーの女になってしまうのですよ。
 そして困ったことに、私たちはフツーの女には興味を抱かない人種なのですよ。

 みか鈴さん。
 緊美研が再出発したときに、私がやろうと思っている「三分間」の緊縛を、最早、耐えられる体力も柔軟性も持っていないから、もう味わうことはできない、とあなたはおっしゃられましたね。
 そんなことはないのです。
 前にも書いたように、「三分間」というのは、あくまでも一つの目安(めやす)です。
 あるいは、たとえ話です。
 二分間でも、一分間でも、それも耐えられなかったら、三十秒間でもいいのです。
 縄の強さに我慢できず、二十秒間で、
「ああ、もうだめ、ゆるして」
 と、あなたが声に出されたら、私はただちに縄を解いてあげます。
(そうです、私の縄には、苛めの激しさはありますが、苛めではないのですから)
 その二十秒間のあなたの全身の反応は、大股開きにされてバイブをねじこまれたまま一時間あえぎ、悶えつづける「M女」の映像よりも強烈で、魅力的なはずです。
 そして、それを見ているマニアたちを興奮させ、感動させるはずです。
 二十秒間がどんなにつらくても、あなたの心と体にのこるのは、最後には快楽のはずですから。
 私がめざしているのは、いかなる場合でも、結局は、おたがいの快楽の官能世界なのですから。
 相手に深くて確かな快楽がなかったら、私にも深くて確かなよろこびも快楽もないのですから。
 過去の緊美研ビデオでは、個人の秘密を守るために、顔つまり表情を、はっきり撮りませんでした。
 撮るのは、あくまでも「縄」による全身の真実の反応でした。
 モデルの顔をはっきり見せなくても、多くの緊縛マニアの方たちに共感をいただき、たくさん売れました。
 美人でないと緊縛物は売れない、可愛い子でないとSM物は売れないといって、やたらに無個性なメイクをほどこすのは、マニアの心を軽視する、愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)です。
 そうだ、いま思い出した。
 九条美影さん、私のこの文章がお目にとまったら、私のところへお電話ください。
(私はパソコンもケータイも持っていないので、私の部屋の固定電話にかけてください)
 あるいは、春原悠理のところへ連絡してください。
 みか鈴さんへの返事を書いているうちに、急にあなたが縛りたくなりました。

 ああ、また話が横道にそれてしまった。
 今回は私、ふたたび鶴亀劇場時代へもどるつもりでいたのだ。
 それなのに、アヘアヘM女の大股開き一時間映像よりも、二十秒間の迫力緊縛のほうが、マニアを興奮させ、欲情させるなどという話を書いてしまった。
(書きたかったから仕方がないのだ)
 新しい刺激的なシーンが、毎日つぎつぎに私の目の前や周囲に現れるものだから、むかしのことを書くひまがない。
 でも、書かなければいけない、といつもRマネージャーに言われている。あの時代があるから、いまの私があるのですよ、と。

つづく

★Rマネの補足★
不二企画内のブログ「濡木痴夢男の緊縛ナイショ話」は2009年2月6日現在、第71回までがアップされております。上記文中に出てまいります「白い木綿のロープの話」は、次回掲載予定の第72回そして第73回となります。どうぞ楽しみにお待ちください。

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