2009.3.4
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第七十七回

 血煙り高田の馬場


 ずいぶん回り道をしてしまった。
 こんどこそ、鶴亀劇場のことを書く。
 その前に、日立の広報劇団で片岡当兵衛と知り合ったことを、すこし書かねばならない。
 当兵衛と触れ合うことがなければ、私がどんなに芝居好きな少年だったとしても、鶴亀劇場の一座へ入る運命にはならなかっただろうと思う。
 市村正子がこの「広報劇団」へ入ってきたときの印象は、華やかで鮮烈なものだったが、当兵衛はいつのまにか、するりと一座の中に同化していた、という感じだった。
 一座の人たちの名前を、私は当然、本名しか知らない。用があって呼び合うときは、みんな本名である。
 当兵衛も四十歳を過ぎて徴用され、兵器を作るこの工場へつれてこられた人なので、当然本名はあるはずだった。
 なのに、私も一座の他の人たちも、みんな「当兵衛さん」と呼んでいた。
 そのくせ、歌舞伎役者としての片岡当兵衛を、実際に舞台で見ている人はいなかった。
 だが、いかにも役者らしい、マナ板のような幅の広い大きな顔で、そのマナ板に、細い柔和な両眼がついていた。
 鼻も口も大きく、白粉焼けした立派な顔なのに、目だけがポツンと小さくやさしいので、いかにもお人好しの「当兵衛さん」という雰囲気の人だった。
 私たち素人に対して、自分はプロの歌舞伎役者なのに、それを鼻にかけたりせず、威張ったりしないで、質問するとなんでも親切に教えてくれた。
 私のような子供にも、ていねいに受けこたえしてくれた。
 ただし歌舞伎界の階級からいったら、舞台でいい役のつく幹部俳優ではなく、「名題下」あたりだろうと私は見当をつけていた。
 芝居好きの父親を持つと、子供のころからこういうことにくわしくなる。
 私は当時父親が愛読していた歌舞伎雑誌の山に埋もれ、その埃を吸って育ったようなものだ。
 広報劇団で、歌舞伎ネタの「御存知鈴ヶ森」を上演することになり、その立ちげいこのとき、幡随長兵衛(ばんずいちょうべえ)役の鈴木圭一郎と、白井権八役の吉岡新太郎の二人に、歌舞伎の動きと型を、きちんと教えている当兵衛を見て、
(この人は本物だ)
 と、私は思った。
 権八が大勢の雲助どもを斬り倒し、片足を引いて腰を落とし、血糊のついた白刃をじいっと見入る形、長兵衛が左袖で顔をかくし、提灯をかざしてその白刃を確める形、それぞれを当兵衛は、格好よく一人で演じ分け、要領よく二人に教えていた。
 大柄で恰幅のいい広報課の鈴木次長と、もとカツベンだった自称二枚目の吉岡新太郎のコンビは、人(にん)に合っていて好評だった。
「血煙り高田の馬場」を上演したとき、私は堀部弥兵衛の娘をやった。女形である。
 思えば、このときが私の初の女形である。
 堀部弥兵衛は、のちに、高齢ながらも吉良上野介邸へ討ち入る赤穂浪士四十七人の中の一人である。
 この役を、画家の間所一郎がやった。これも、まことに人(にん)に合っていた。
 当兵衛は楽屋の隅で私と向き合ってすわると、私の顔を、真剣になって、ていねいにつくってくれた。
 つまり、私の顔、首、襟足に白粉(おしろい)をぬり、紅と墨で目張りを入れ、眉を描き、口紅をさしてくれた。
 化粧品も化粧道具も、すべて当兵衛の自前のもの、つまり私物だった。
 私は練り白粉の濃厚な匂いと、皮膚にぬりつけられるねっとりとした感触に酔った。
 目張りを入れるとき、当兵衛の小さな目が、小さいなりにカッと見開いて、私の顔の前にせまった。
 私は思わず首をすくめたが、その当兵衛の鼻の両わきに、黒いゴマの粒を貼りつけたように小さな穴がぶつぶつあいていたのを、いまでもふっと思い出す。
 当兵衛はさらに衣装まで私に着せてくれた。
「きれいになったわ、きれいになったわよう、坊や。立ったまま、そこでひとまわりしてごらん」
 なぜが急に当兵衛は女言葉になって、ためつ、すがめつ、という格好で、うれしそうに私を眺めるのだった。
 私もまた、自分の顔や姿が、時代劇の中の武家娘に変身していくのを、ときおり化粧前の鏡をのぞきこんで確めながら、恥ずかしいような、おそろしいような、なんとも不思議な気分になっていた。
 が、このとき私の目に、じつはもう一つのものが入って、自分が変身していくのと同時に、それにも私は心を奪われていたのだ。
 そのことを、やはり正直に書かなければいけない。

 飲んべ安、喧嘩女と異名をとる市井の無頼浪人・中山安兵衛が、叔父から手紙をもらって高田の馬場へ駆けつけると、叔父はすでに決闘の相手に無残に斬り殺されている。
 それを知った安兵衛は、すぐにそこを仇討ちの場として刀を抜き、十八人を相手にしての大立ちまわりとなる。
 この仇討ちには、周囲に大勢の野次馬と見物人がいる。
 安兵衛の住んでいる貧乏長屋の住人たちも、大声を出してにぎやかに安兵衛を応援する。大衆芝居でも映画でもおなじみのシーンである。
 この見物人には、厚生部に所属する男女とか、他の課からも出たがり屋の芝居好きが狩り出されて扮することになっている。
 六十畳ほどの広さの横長の楽屋に、上下の差別なく出演者たちが準備していた。
 見物人の一人に扮する女の子が、立ち上がって着ている服の上着をぬぐのが私の視界に入った。
 当兵衛が紅筆で私の唇に口紅をぬっているときだった。
 彼女は立ち上がったまま、つぎに上半身につけている白い木綿の下着のシャツの裾に両手をかけ、くるりとぬいだ。
 つぎの瞬間、大きな白い乳房が、ポロリと出た。
 ブラジャーなどというものが、まだなかった時代である。シャツの下は、すぐに素肌なのだ。
 当兵衛は彼女に背中を向けているので、そんなことはわからない。私の顔の化粧を熱心にやってくれている。
 その二つの乳房を見て、あまりの美しさに私はあっけにとられた。
 後頭部をいきなり固い物でなぐられたような気分だった。
 球形のものを正確に半分に断ち割って、胸の左右にぺたりと貼りつけたような、あざやかな形だった。
 女の子の顔の面積よりも、乳房の直径のほうが大きいように私には思えた。
 すこしのたるみもなく、固い感じで盛り上がっていて、美しいとしか言いようのない形をしていた。
 乳首は梅の花のつぼみのようだった。
 その女の子は、総務部の端の机にいつもすわっていて、顔は見知っていたが、名前は知らない。口をきいたこともない。
 彼女はすぐに町娘の衣装である肌襦袢を着て、その大きな乳房をかくした。
 いま思うと、それはホンの五、六秒、いや、二、三秒間のことだったろう。
 だが、思春期の私には、衝動的な瞬間だった。
 その証拠に、六十年経ったいまでも、その一瞬の光景を、きのうのことのように思い出せる。
 後年、私は仕事とはいえ、五千余人の若い女の乳房に触れることになる。
 ただ触れるだけではない。
 ときに五本の指でつかみ、ねじり、絞り、あるいは十本の指で左右の乳房を同時につかんで揉みねじるようなことまでする。
 だが、少年の日の、あの名前も知らない娘の乳房を瞬間見た衝撃度は、もう私になかった。エロティシズムも感じられなかった。
 仕事で触れるのだからあたりまえだと言ってしまえばそれまでだが……。
 思春期に味わったエロティシズムの甘美な衝撃は、だれもが一生忘れることのできないものなのだろうか。
 それともこんな感覚は、私だけが所有するものなのか。
 私のその後の一生は、あるいは、あの楽屋での瞬時の光景に支配されてしまったような気が、しないでもない。

 この「血煙り高田の馬場」には、もう一つ思い出がある。
 木造二階建ての厚生部広報課のとなりに、同じような木造建築で、工場に働く者たちの食堂があった。
 現在の社員食堂の献立てはバラエティ豊富だが、戦争末期の食糧難時代である。
 空襲で焼けのこったこげ臭い大豆が大量に混った米の飯と、なにやら海草の入った粗末な汁が、アルマイトの食器に盛られ、食券と引き換えにそれが支給される。
 昼食どき、もんぺ姿の労働服を着た女学生の一団が、連れ立ってこの食堂へやってくる。
 政府の命令によって学校の教室からこの巨大な軍需工場へ連れてこられ、兵器生産に従事している。「軍国女学生」たちと一緒に食事をしながら、私は言った。
「こんどの土曜日の夜、厚生館でやる芝居に、ぼく出演しますから、見に来ませんか」
「わあ、すてき!何やるの、格好いい役?」
 と彼女たちは口々に言い、期待のこもった目で私を見た。
 私は得意だった。
「ああ、格好いい役だよ、みんなびっくりするよ」
 時代劇の娘に扮した艶やかな自分の姿を思いうかべながら、私は言った。
 しかし、どんな芝居をやるのか、こまかいことは言わなかった。
 それは見てのお楽しみ!という気持ちがあった。私は自分の女形に自信があった。
「見に行くわ、きっと!」
 と、彼女たちは目を輝かして言った。
 そして、十人近く連れ立って、本当に見にきてくれた。
 が、舞台を終えたあとの私への批評は、さんざんなものだった。
 彼女たちが口々に言い、思い描いていた「格好いい姿、格好いい役」というのは、なんと、日本海軍の白い士官服をぴっちりと着て、腰に短剣をさげ、軍帽をかぶった姿だったのだ。
 それが、軍国日本の少女たちの憧れの若い男の姿だったのだ。
 海軍の真っ白い軍服を着て、顎紐のついた帽子をかぶった清廉潔白にして勇壮な姿。
 私が演じたのは、こってりと白粉をぬり、口紅をつけ、かつらをかぶり、振り袖姿で花道から舞台へなよなよと歩く武家娘である。
 そんな格好に変身して、うっとりと自慢している私は、「軍国女学生」たちの目には、「非国民」とも「国賊」にも映ったことだろう。
 私の体質にある価値観と、フツーの一般人が認識している価値観との間に、かなりの差があることに、はじめて私が気がついたのは、このときからかもしれない。

 鈴木次長扮する中山安兵衛は、途中から大小二本の刀をぬいて両手にかまえ、十八人をバッタバッタと斬り倒す。
 このチャンバラは、新国劇さながらの迫力があって大喝采だった。
(蛇足だが、ついでに書く。安兵衛はこの後、私が扮した堀部弥兵衛の娘の婿になり、堀部安兵衛となって吉良邸討ち入りの際に大活躍する)
 安兵衛の相手の斬られた役は六人いて、斬られては引っ込み、また舞台に出ては斬られて引っ込み、三回斬られて熱演し、これも見物席から拍手大喝采であった。
 その「殺陣」(たて)も、当兵衛が熱心に指導した。
 十八人斬り倒したあとで、安兵衛が両手の刀をふりかざし、大見得を切るときの「ツケ打ち」まで、当兵衛はやった。
 本当に、なんでも器用に、よくやる人だった。
 あとになって思ったのは、もともとプロの役者である当兵衛は、このときすでに「鶴亀劇場」に出入りしていたのではないか、ということである。
 そして、衣装、かつら、刀などの小道具類は、すべて鶴亀劇場から借りてきたものではないか、と思う。
 しかし、当時は、そんな裏事情など、子供の私にわかることもなく、アメリカ軍に殺される日のくることを漠然と予感しながらも、目の前に展開する毎日の変化を、夢中ですごしていたのだ。
 近いうちにかならずやってくるであろう死におびえながらも、私にとって当時の毎日は、結構おもしろおかしく、刺激的で楽しい出来事の連続だったのだ。
 戦争が終わって、兵器生産の仕事をする必要はもうなくなったはずなのに、広報劇団はなぜか芝居をやりつづけていた。
 このへんの事情も、少年の私にはすこしもわからない。だれも教えてくれない。
 昭和二十年(一九四五年)八月に戦争は終わったのに、広報劇団は厚生館での芝居をやりつづけ、他に娯楽もないせいもあって、客席はいつも満員だった。
 そして、そんなある日のこと、当兵衛は私のそばへ寄ってくると、
「坊や、鶴亀劇場へ一緒に行かないか」
 と、ささやくような声で、私を誘ったのである。
 行かないか、というのは、鶴亀劇場の役者にならないか、ということであった。

つづく

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