2009.4.13
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第七十八回

 福二郎時代の始まり


 片岡当兵衛に連れられて、私は、はじめて鶴亀劇場の楽屋へ行った。
 そこは、私がイメージする芝居小屋の楽屋の入り口とはちがって、どうみてもあまり上等とはいえない、二階建て木造アパートの玄関だった。
「このアパートの一階が楽屋になってるんだよ、坊や。靴をぬいで上がるんだ」
 と当兵衛は言い、ぬいだ靴を玄関右側の壁側にある作りつけの下駄箱の中へ慣れた手つきで入れると、廊下へ上がった。
 私も、そのあとに従った。
 玄関からまっすぐ前方に廊下が通り、その左右に、木製のドアがついた部屋がいくつか並んでいた。
 うす暗い廊下の突き当たりに、洗面所と共同便所が見えた。
 あとでわかったことだが、玄関を上がってすぐ左側の、南向きの四畳半が頭取(とうどり)の中村伝五郎の部屋だった。
 その頭取部屋の向かい側の、廊下をはさんだ北側の六畳の和室が床山(とこやま)部屋になっていて、そこには「万(まん)さん」という人がいた。
 床山というのは、役者が舞台でかぶるかつらを結う人である。ただ結うだけではなく、役者の頭にかぶせたり、はずしたり、手入れをして保存したりする重要な職人である。床山がいないと歌舞伎芝居は興行できない。
 万さんは頬骨のとがった眼光の鋭い人で、思ったことをズバズバ口にする。一座の役者たちの芸の批評までする。
 表方も裏方も、万さんには一目置いているふうだった。
 当兵衛はこの万さんと以前からの知り合いらしく、床山部屋の戸をあけると、
「はい、万ちゃん、こんにちは。連れてきましたよ」
 と親しげにあいさつして、私を紹介した。
 万さんはかつらに櫛を入れながらギョロリとした目を私にむけ、
「坊主、幕内の経験はあるのか?」
 と、きいた。
 客席から見えないところで働く人のことを幕内(まくうち)というのだが、舞台に立つ役者もまた幕内とよばれる。
 父の所有する演劇関係の雑誌や書物の埃にまみれて生まれ育ち、さらに広報劇団での体験で、私はそういう芝居世界の用語をしぜんに学んでいた。
 幕内の経験はあるか?と万さんにきかれたとき、私は黙って上着のポケットから、日本映画学校の入学許可証を取り出した。
 そしてそれを、万さんの目の前に、うやうやしく差し出した。
 うっかりして書くのを忘れていたが、小学校を終了すると同時に(太平洋戦争が始まった翌年のことであり、もう小学校とはいわずに国民学校と改称されていた)私は、小田急線参宮橋近くにあった日本映画学校の入学試験を受け、合格していたのである。
(当時の日本映画学校の校長は田中栄三)
 このことは、両親には内緒だった。
 銀幕の世界に憧れがあったのは当然だが、映画学校を受験したのには、もう一つ理由があった。
 それは、その学校を卒業すると、特別技芸証とかいうものが与えられ、徴兵とか徴用とかの政府からの殺伐な命令からのがれられるということである。
 私は小学校低学年のころから体を動かすことが嫌いで、体操の時間が嫌い、運動会が大嫌い、重そうな鉄砲をかついでどこまでも歩かねばならない兵隊になることなんかもっと嫌いで、鉄の臭いのする兵器を作る工場で労働することも、戦争へ行くのと同じ位に嫌いだった。
 俳優になって特別技芸証(技能証だったかもしれない)という資格をとれば、その種の不愉快な労働からのがれられると、親にもだまって勝手に受験したのだが、結果はそううまくいかなかった。
 私は映画学校の演技科を志望し、三日間の試験はすべてパスしたのだが、最後の個人面接で、小杉勇から、
「せっかく合格したんだけど、きみはまだ小さすぎるから、あと二、三年たったら、またきなさい」
 と説得され、入学延期ということになってしまった。
 小杉勇は当時の演技派スターであり、名優と言われていた。
 映画学校の演技部の部長であり、審査員の一人であった。私はもちろん、小杉勇が主演した「路傍の石」他の日活映画をみている。
「私は、きみみたいな少年が教室に一人いるのもおもしろいと思うんだがね」
 と、小杉勇はやさしい、もの静かな微笑で私に言った。渋い、滋味のある声音は、スクリーンでみるときと全く同じだった。
 二十歳前後の男女が百人近くいた受験生の中に混って、私はついきのうまで小学生であった。体も小さい。
 私は得意であり、その合格証を神社かお寺の守り札のように持って、鶴亀劇場の楽屋へ行ったのである。
 が、床山の万さんは、私が差し出したその合格通知と入学許可証が一緒に印刷された紙片を、チラと見ただけで、
「そんなもん、屁の役にも立たねえよ」
 と冷やかに言った。
 そして当兵衛にむかって、
「それじゃすぐに福之助親方の部屋へ連れていきな。話はついているから」
 と、ぶっきら棒に顎をしゃくった。
 映画学校の合格証を見せたところで、なんの役にも立たない実力と経験が支配する芝居社会へ、一歩足を踏み入れたこの日のことは、私の記憶の中に、妙に深く沁みこんでいる。
 それから万さんと二言三言雑談を交わしてから当兵衛はつぎに私を、市川福之助の部屋へ連れていった。
 弟子が欲しいと言っていたのは、この福之助であった。
 万さんと当兵衛の仲介によって、私はこの日から福之助の弟子という身分となり、鶴亀劇場で給料をもらうことになったのだ。
 父に連れられて通った本所緑町の寿劇場では、かぞえきれないほど見ている女形の市川福之助だが、楽屋でおっとりとすわっている姿は、はじめてだった。
「お前の名前をいろいろ考えていたんだけどね、福二郎というのはどうだい」
 と、いかにも女形らしい、細い、ゆったりした声で、福之助は言った。
 この日から私は市川福二郎という名前になった。

 ここで市川福之助という歌舞伎俳優について説明しておきたい。
 昭和五十五年(一九八〇年)に雑誌「演劇界」から十月号臨時増刊として発行された「歌舞伎俳優名鑑」の中から抜粋させていただく。

本名は水島春男。
住所は東京都大田区大森本町二ノ十五ノ三。
屋号は成田屋。定紋は瓢箪桐(ひょうたんぎり)。
師匠は二代目市川右団次。十代目市川団十郎。
身長は一・五四。
体重は四八。
略芸歴は、大正九年十月、市川鶴之丞で中座「六波羅物語」の町の娘で初舞台。昭和七年十一月、宮戸座「時雨の炬燵」のおさんと小春で命題昇進。昭和十年九月、市川福之助と改名。
明治三十七年三月二十一日、大阪島の内大宝寺町に生まれ、父親の名は浅井秀松で印刷業を営んでいたとある。
最終学歴は関西商業、卒とある。
 この「歌舞伎俳優名鑑」の中に「歌舞伎を支える人々」という欄があり、そこに市川福之助はつぎのように紹介され、忠臣蔵六段目の、おかやに扮した舞台姿の写真が掲載されている。
 市川福之助。かたばみ座で活躍した一人で、様々な役柄の経験が生き、現在成田屋一門にとり、欠かせぬ人になっている。訛のあるせりふが気になるが、それが世話物の老母にうまく生かされて、若手達の「六段目」のおかやの、相手にたいする、ほどのよいやりとりにもはっきりと示された。時代物の老母には貫目不足を感じるが、芝居の旨さから見たいのは、「はったい茶」の小よしである。
「かたばみ座で活躍した一人である」とここでは記述されているが、私(濡木)の見ている限り、本所緑町の寿劇場で立女形として活躍した時代が最も長い。そして華やかであった。
 アメリカ軍の空爆で寿劇場が焼失してから、足立区亀有の鶴亀劇場に本拠を持つ新生花形劇団・坂東竹若一座の女形となり、この一座はさらに時を経て「かたばみ座」と名称を変えていく。
 劇団名は変わっても、一座の多くの顔ぶれは、寿劇場時代から同じ舞台を踏んできた者が多い。
 大ざっぱにいってしまえば、つまり一座の名称が変わるだけで、演じられる芝居の中身は、いわゆる小芝居の魅力と伝統を、頑強に保ちつづけていた。
 そしてこの「かたばみ座」が、東京における伝統的な「小芝居」の最後の一座となる。「小芝居」には違いなかったが、私が最も密接に歌舞伎とつながりを得たのは、福之助の弟子として過ごした、この福二郎時代である。
 わずかな年月ではあったが、その後の私の人生の支柱には、常にこの福二郎時代の影響がある。
 じつは、私のこの「おしゃべり芝居」は、この時代の数年間のことを、書きたい、書きのこしたい、という切実な思いから出発している。

つづく

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