2009.4.18
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第八十回

 小芝居の役者ということ


 私の師である市川福之助の芸歴について、もうすこし書いておきたい。
 一九八五年(昭和六十年)十二月に、これも「演劇界」から増刊号として発行された「歌舞伎俳優名鑑」に、福之助はモノクロの顔写真と共に、つぎのように紹介されている。
「現在梨園で大事な脇役といったら、福之助は五本の指に必ず入る。艶を失わぬ歌舞伎味と、豊かな義太夫狂言の素養。『忠臣蔵』のおかやで、傑作といわれた故多賀之丞に迫るものがある。」
 梨園というのは歌舞伎社会、劇界のことである。むかし、唐の玄宗皇帝が、宮中の梨を植えたところで、俳優の演技を学ばせたことから、こう呼ばれる。ちょっときどった言い方である。
「演劇界」はもちろん我が国唯一の歌舞伎専門誌であり、時を置いて増刊される「歌舞伎俳優名鑑」は、格調高く充実した豪華絢爛たる内容である。
 巻頭を飾るカラーページには、
「京鹿子娘道成寺」の白拍子花子を踊る尾上菊五郎。
「三世相錦繍文章」(さんぜそうにしきぶんしょう)の小柴六三郎に扮した片岡孝夫(現仁左衛門)。
「桜姫東文章」風鈴お姫の坂東玉三郎。
「四の切」の静御前の沢村宗十郎。(四の切とは「義経千本桜」四段目の切り、つまり「道行・河連館」の場のこと)
「連獅子」の狂言師右近を踊る松本幸四郎。
「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助に扮した中村吉右衛門。
「鞍馬獅子」を踊る中村富十郎。
「絵本大功記」の武智十次郎に扮した中村福助(現中村梅玉)。
「菅原伝授手習鑑・寺子屋」の松王丸に扮した中村勘九郎(現勘三郎)。
「義経千本桜」吉野山の静御前に扮した中村児太郎(現中村福助)。
「菅原伝授手習鑑・寺子屋」の武部源蔵に扮した坂東八十助(現三津五郎)。
「妹背山婦女庭訓」(いもせやまおんなていきん)の橘姫に扮した中村松江(現中村魁春)。
「仮名手本忠臣蔵」の高師直(こうのもろなお)に扮した市川左団次。
「義経千本桜」の新中納言知盛に扮した市川段四郎。
「玉藻前化粧輝裳」の紂王に扮した片岡我当。
「神霊矢口渡」の頓兵衛に扮した坂東蓑助(この蓑助はのちに九代目坂東三津五郎となる。現三津五郎はその子息で十代目)。
「関羽」の奥紫に扮した沢村田之助。
「夏祭浪花鑑」の釣舟三婦(つりぶねさぶ)に扮した河原崎権十郎(この権十郎は三代目で、現権十郎は四代目となる)。
「曽根崎心中」の徳兵衛に扮した中村智太郎(現中村翫雀)。
「玉藻前化粧輝裳」の三浦之助に扮した中村信二郎(現中村錦之助)。
「うかれ坊主」の願人坊主源八を踊る中村歌昇。
「侠客春雨傘」の傾城薄雲に扮した大谷友右衛門。
「船弁慶」の新中納言智盛の霊の中村橋之助。
「玉藻前化粧輝裳」のおやなに扮した中村浩太郎(現中村扇雀)。
「双面道成寺」の源頼光に扮した市川門之助。
「盛綱陣屋」の和田兵衛秀盛に扮した坂東彦三郎。
「仮名手本忠臣蔵」の顔世御前に扮した市村萬次郎。
「摂州合邦辻」の浅香姫に扮した中村芝雀。
「心中天網島」の紀の国屋小春に扮した片岡秀太郎。
「良弁杉由来」(ろうべんすぎゆらい)のかんざし売りおりんに扮した中村東蔵。
「義経千本桜」の源義経に扮した中村歌六。
「妹背山婦女庭訓」のお三輪に扮した中村時蔵。
「夏祭浪花鑑」の団七九郎兵衛に扮した尾上辰之助(この辰之助という名称は初代であり、二代目の辰之助が先年四代目松緑を継いだ)。
「野崎村」のお光に扮した沢村藤十郎。
「義経千本桜・吉野山」の佐藤忠信を踊る市川猿之助。
「保名」を踊る中村扇雀(現四代目坂田藤十郎)。
「助六由縁江戸桜」の花川戸助六に扮した市川団十郎。

 この華やかなカラーページにつづいて、モノクロ一ページ大に、この時代超一流の実力と人気をもつ十二名の重鎮俳優たちの姿が、「秀作舞台写真選」として、撮影したカメラマンの文章を添えて掲載されている。すなわち、
「京鹿子娘道成寺」の花子を踊る中村歌右衛門。
「参会名護屋」の不破伴左衛門に扮した尾上松緑(三世の松緑。三世は長男の辰之助に追贈され、その子息が辰之助から現四代目松緑となる)。
「鏡獅子」の獅子の精を踊る尾上梅幸。
「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)の熊谷直実に扮した市村羽左衛門。
「操三番叟」(あやつりさんばそう)を踊る実川延若。
「白浪五人男」の鳶頭清次に扮した中村又五郎。
「切られお富」のお富に扮した前進座の河原崎国太郎(先代つまり五代目。現国太郎は嵐芳三郎の子息で六代目を継ぐ)。
「京鹿子娘道成寺」で後シテの中村芝翫。
「無間(むげん)の鐘」の梅ヶ枝を演じる中村雀右衛門。
「沼津」の平作を演じる片岡仁左衛門(この仁左衛門は十三世。十四世の仁左衛門は十二世の長男の我童に追贈され、現仁左衛門は十五世と呼ばれる)。
「封印切」のおえんに扮した片岡我童。
「夏祭」の団七九郎兵衛に扮した中村勘三郎(十七代目。現勘三郎は十八代目となる)。

 つい調子にのって、私は、私の好きな役者たちの名前を、つぎつぎに書き写してしまった。
 毎度のことながら、私は手書きで原稿紙に一字一字を書き、これをRマネがきれいにパソコンで打ってくれている。さぞかし神経を使うことだろう。ときどき彼女のまぶたが腫れぼったくなっているのを見ると、気の毒になる。
 狂言名と俳優に興味のない方は、おそらく読み飛ばされることだろう。
 そう思いながらも、私は憑かれたように書きつづけてしまった。
 好きな役者の名前をもっとつづけて書きたいのだが、このへんでやめておく。
 これらの役者たちが演じたこれらの芝居の演目を、私はすべてみている。
 一人一人の名前を書き写すたびに、この役者たちの口跡が私の耳に聴こえてくる。
 舞台姿が脳裡によみがえり、太棹三味線の音色が胸に鳴り、清元が、長唄が、常磐津のメロディが耳にひびいて私は恍惚となる。
 私は先代国太郎の「切られお富」も、我童の「封印切」のおえんも、又五郎の「浜松屋」の鳶の頭も、みんなみているのです。一度や二度でなく、何度もみています。
 だが、もうみられない。
 みんなあの世へいってしまった。
 それぞれの舞台姿に、私は私なりの熱い思い出がある。それにしても、この十二人の中で、現存しておられるのは、二人だけなのだ!

 話を、もとにもどさなければならない。
 市川福之助が語られるとき、まず「小芝居出身の役者」という肩書きがつく。「かたばみ座出身の役者」とよばれることもある。同義語である。
「小芝居」と一口に言われるその中には、蔑称のひびきがある。その蔑称に価する役者が存在することに、否定はできない。
 だが、蔑称することのできない、充実した確かな腕を持った役者もいる。ほとんどが個性的で、達者な、お客を楽しませる、いい芸を持っている。
「福之助の忠臣蔵六段目のおかやは、故・多賀之丞に迫るものがある」
 と「演劇界」での紹介者は、端的に福之助の伎倆を賞讃している。
 このときの福之助は、もちろん「かたばみ座」から大歌舞伎へ移ってからの「おかや」である。
 私はこの「おかや」を、歌舞伎座の幕見席から観ている。ちなみに、故・多賀之丞のおかやも観ている。多賀之丞は、名人上手と称された俳優である。

 ああ、こういうことを書くのは、もうやめなければならない。ここで小芝居讃美論を展開していくと、キリがなくなる。どんどん横道へ外れていってしまう。
 小芝居とはやや質的に違うが、私はこの数年来ひんぱんにRマネと共に大衆演劇を見続けている。つい数日前も、十条の篠原演芸場で、思いがけなく博多仁輪加の伝統を引き継ぐ悪達者(わるだっしゃ……ああこの言葉ももう死語になってるかもしれない)とも思える達者な芸をみて、感嘆した。

 また横道に外れそうだ。もとへもどす。
 要するに私は、私の師である市川福之助の芸の上品さ、格調の高さを言いたかったのだ。そしてそれは、当時の歌舞伎社会で、十分に認められていたということを言いたかったのだ。
 もしあの戦後すぐの鶴亀劇場において触れ合った福之助の芸、人格が、下品で格調の低いものであったら、私の思い出は、まったくべつのものになっていたであろう。
 いや、思い出として残ることなく、消え去っていたかもしれない。
 まことに短い期間であったが、あのとき私の皮膚の、全身の毛穴という毛穴からしっかりと沁みこみ、浸透した妖しい魔力を持つものが、その後の私の人生の支柱になってきたように思う。
 二十歳前の、感受性のつよい時期だったから記憶に残っている、というだけではないような気がする。
 だからもう六十年もたつのに、消え去ることなく、忘れることもなく、ついきのうのように(いや、きのうのことはもう忘れている)息苦しいほどの実感をもって、あのときの自分の感情が、なまなましくよみがえってくるのだ。

つづく

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