濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第八十二回
手書きのビラ
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鶴亀劇場まで来て話はストップし、それからあと、なかなか前へ進まない。
この時代のことをくり返し書いているうちに、重複するところが出てきたりして、やや混乱気味である。
どこまで書いたのか、私自身わからなくなってきた。
思いきって、話をぐんと前に進める。
「大川興行社は、鶴亀劇場の他に、隅田川の東側に、白鬚劇場という小屋を持っていた。
この小屋も、もとは映画館だったのを改装したものである。
本所から深川にかけて、アメリカ空軍の無差別爆撃はとくにひどく、多くの死者が出たところだが、この向島(むこうじま)の一角だけは、奇跡的に焼け残った。
映画館のステージを広くし、小さな花道を張り出して、引き幕をつけ、芝居ができるようにした。
鶴亀劇場と白鬚劇場、この二つの小さな芝居小屋に、大川興行社はかつての本所・緑町の寿劇場の「花形歌舞伎一座」を二分して、交替に出演させたのである。
坂東鶴蔵と坂東竹若、この二人のスターを引き離し、それぞれに役者たちを配分して、二つの劇団を構成した。
つまり、「新生」花形歌舞伎は、鶴蔵を座頭とする一座と、竹若を座頭とする一座の二劇団になった。
そして、鶴亀劇場と白鬚劇場に、一週間交替で興行させたのである。
市川福之助は、坂東竹若一座の女形であった。
したがって、福之助の弟子である私は、当然、竹若一座の座員ということになった。」
この「おしゃべり芝居」の六十八回目に、私は以上のことを書いた。
そのつづきにこれからとりかかろうと思ったが、記憶が拡散していて、どこから手をつけていいかわからない。
数日間、迷った末に、そうだ、当時の日記を、そのまま書き写そうと思いついた。
それだったら楽に前へ進めるにちがいない。
私は腹ばいになって、古い本や資料ばかりが詰め込まれている押入れの中に頭からもぐりこんだ。
体じゅう埃だらけにしながら、いちばん奥の暗い隅に押し込んだままになっている段ボールの箱を、苦労して引きずり出した。
ふたをあけると、六十数年前の日記帳(ああ、もう六十数年もむかしになるのだ!)が三十数冊、ぎっしりと息をひそめて詰め込まれている。
(そう、私にはその日記帳が呼吸しているように感じられた)
しかし、六十年も前のことを、いま書いてどうなるというのか、という思いに、またなった。
そういう思いと、書かねばならないという思いが、私の中で、つねに交錯している。
が、とにかく、坂東竹若一座が公演した演目をメモしてあるはずの一冊を探がした。
なかなかみつからない。両手が埃だらけになった。押入れの前にすわりこみ、時間をかけて、ようやくその一冊をみつけた。
角がすり減って、ボロボロになっている日記帳である。
ページをひらくと、六十数年前に、私が書いたペンの文字が、そこにあった。
市川福之助の弟子であり、坂東竹若一座の座員である六十数年前の自分が、まぎれもなく、そこにいた。
芝居の演目だけでなく、当時の私の日常と、そして心が刻みこまれていた。青インクの文字は、確かに呼吸していた。
ひらいたページから、思わず読みふけった。
いまの私ではない私が、その文字の中にあった。
私の記憶の中の私は、この時代、もっと楽しい、明かるい毎日を送っていたはずだった。
日記の中の私は、毎日を不安と懐疑の中で過ごし、迷い、苦悩し、そして飢えていた。
思春期に悩みの多いのは、だれしものことだが、無残なくらいに痛ましい少年の姿が、そこにあった。
自分のことを痛ましいなどというのは、甘ったれているが、六十年以上たつと、自分のことも他人のように客観的に見えるものだ。だからゆるしてもらいたい。
飢えていた、というのは、精神的なものの他に、実際に、生理的に飢えていたのだ。つまり、空腹だったのだ。
戦争は終わり、アメリカ空軍の爆撃はなくなったが、食糧難が襲いかかっていた。
空腹感に苦しみ、つねに餓死の意識と背中合わせにいた。
その死の不安は、アメリカ軍の東京上空からの爆撃よりも身近に、鮮明に、四六時中存在した。
骸骨のように私は痩せていた。
(いまの私はどうだ。おそろしいほど醜く、だらしなく太っている。日々、抑制することなく飽食しているせいだ。ぜい肉が腹にだぶだぶとつき、背は低くなり、足は短く、鏡に向かって正視することのできないほどの醜悪さだ。喉もと過ぎれば熱さを忘れるのだ)
六十数年前、私は傷つきやすい、ひ弱な心を持った、痩せた少年だった。
だが、いま、あの時代の私をふりかえるとき、戦争が終わった直後の明かるい希望に充ちた、楽しい日々を送る少年の姿しか浮かんでこない。いまの私にあるのは、甘美な追憶ばかりである。だからこの「おしゃべり芝居」の中には、快楽的な思い出ばかりが綴られる。
私はいい気になりすぎている。気持ちのいいことばかり書こうとしている。
長い歳月のうちに、不安も苦悩も忘れ果て、快楽の感覚だけが心身に残っていたのだ。
だが、六十数年前の日記は、当時の不安や苦悩の日々を、なまなましい実感をもって私の心によみがえらせた。一字一句を、肉筆で書き刻んだ少年の文字の力かもしれない。
が、ここでそれらの不安や、迷いや、懐疑や苦悩をこまかく述べるのはやめよう。
いまはともかく、無理にでも気分を明かるくして、竹若一座のやった芝居の演目を書かねばならない。
そうしないと、この「おしゃべり芝居」は前へ進まない。そうだ、まず、竹若一座の芝居の演目だけでも書きならべてみよう。そして、なんとかこの文章を先へ進めよう。
鶴亀劇場
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一、島千鳥月白浪 鳥居前 一幕
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松島千太
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沢村紀三郎
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弁天お照
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市川福之助
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徳 蔵
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梅沢秀雄
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明石島蔵
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坂東竹若
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二、喜劇・身替奴 三場(大川端、黒田邸前、黒田邸内)
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黒田左京
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………
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沢村紀三郎
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奴・駒平
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………
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尾上竹之助
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竹 庵
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………
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市川福之助
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黒田の奴
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………
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梅沢秀雄
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同
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市川福二郎
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高岡竜之介
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………
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坂東竹若
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三、川中島合戦 輝虎配膳の場
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母 唐衣
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………
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尾上竹之助
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娘 勝
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………
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市川福之助
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輝 虎
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………
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坂東竹若
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という、メモ書きのような記述がある。
その他のことは書いてない。これは昭和二十年(一九四五年)十月、私、十五歳のときの日記帳の余白に書きつけられてあるものだ。
正確な上演月日、上演時刻、時間、入場料、観客数などを、もっとこまかく記録しておけばよかった、といまは思う。
が、考えてみると、十五歳の子供に、そんな資料めいたことを正確に記述する心の余裕など、あるはずはない。
当時の私は、気分のままに、情緒のままに書きつけていたのである。
気分のまま、情緒のまま、というのは、これらの文字が、見様見真似(みようみまね)の勘亭流で書かれているからである。ペンと青インクによる、かぼそい勘亭流である。
この外題(げだい)と配役表は、鶴亀劇場の舞台の下手花道の後ろの壁に貼り出してあったビラを書き写したものである。
そのビラも、劇場のだれかが書いたらしい、墨一色のきわめて粗末なものだった。
敗戦直後の、東京都内は焼け跡だらけの、あらゆる物資が欠乏していた時代である。
筋書とか、プログラムめいたものも一切無かった。
印刷された宣伝ポスターなども無かった。
やはり墨一色の小さな手書きのビラが、街なかの電信柱に貼り出されているだけの宣伝だった。
それでもお客はきてくれた。娯楽というものが、他に何もなかった時代であった。
(つづく)
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