2009.5.13
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第八十三回

 白鬚劇場のこと


「島千鳥月白浪」は、正しくは「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」である。
 河竹黙阿弥・作の明治物、いわゆるざんぎり物である。
「鳥居前」とは、九段の招魂社、つまり、いまの靖国神社の鳥居前の場、ということである。
 因果応報の長い物語の中の、この場だけやるというのもめずらしく、いかにも「小芝居」らしい。
 数年前、国立劇場で、この「鳥鵆」の通しをやった。亡くなった市村羽左衛門(十七代目)が、背広(スーツ)姿で、革靴をはいて、コーモリ傘を片手に、さっそうと登場したとき、一瞬客席がざわめいた。
「喜劇・身替奴(みがわりやっこ)」のストーリーは、こうである。
 あまり性格のよくないお殿様が、新しく刀を買った。その新刀の切れ味を試すために、自分が雇っている奴(やっこ、中間、奉公人のこと)を、友人の武士のところへ、手紙を持たせて使いに出す。
 その手紙には、この奴を斬って、刀の切れ味を試してくれと書いてある。
 奴は、自分を斬り殺す刀を持って、その武士のところへおもむくという残酷なお話である。
 相手の武士は一計を案じて奴の命を助け、話は喜劇となって終わる。この人情家の武士を、座長の坂東竹若がやった。
 私は、主役の奴駒平(尾上竹之助)の朋輩の中間(ちゅうげん)で、セリフのない役であり、これが鶴亀劇場における私の初舞台であった。
「川中島合戦・輝虎配膳(てるとらはいぜん)」は、これはもう堂々たる古典の義太夫物である。
 本名題(ほんなだい)は「信州川中島合戦」だが、いまはこの「輝虎配膳」の場しか演じられない。それも、いわゆる「小芝居」でしかやらない。いってみれば、めずらしい、貴重な一幕物である。
(先年、東京歌舞伎座で一度やったような記憶があるが、私はこのとき残念ながら見に行けなかった)

 以上、きわめて大ざっぱに、私がはじめて竹若一座の舞台に(というより舞台の端っこに)立ったときの三演目について書いてみた。
 この三演目だけでも、思い出がいっぱいあって、書きたいことは山ほどある。
 だが、それを書くと、キリがなくなる。
 たとえば「鳥居前」についての思い出。
 主人公である明石の島蔵は、同じ悪党仲間の松島千太を善人にたちかえらせようとして説得するときのセリフ。
 いかにも黙阿弥らしい名調子のこの部分のセリフが私は大好きで、後年、両国回向院にある速善信士(そくぜんしんじ、怪盗鼠小僧のこと)の墓へお参りに行ったくらいである。そのセリフは、
「……鼠小僧は闇の夜に、向こうが見えたということだが、同じ盗みをしていながら、あんまり向こうが見えねえやつだ。速善信士の墓へ参り、樒(しきみ)の水でも飲んでおけ。なんだ、脅しに短刀を抜いて、それで手前は切る気か。石碑の角はかけようが、己の頭はかけねえぞ。さあ、切るなら切ってみろ」
 というのだ。
 鼠小僧という盗賊は賭博に強かったという伝説があり、むかしから賭け事好きのマニアたちが、石碑の角を欠き、その石片をお守りにしている。
 いまはその墓にすっぽりと金網がかぶせられ、触れられないようになっている。
 そのかわり、その石碑のすぐそばに、賭け事好きの参詣者のために、欠くための石の墓が、わざわざ用意されているところが、なんだかおかしい。
 私は競馬もパチンコもやらないが、回向院のとなりに、シアターΧ(かい)というホールがあり、そこへ観劇に行ったときに、鼠小僧の墓へ寄る。身替りの石の欠けぐあいを見るのが楽しみなのである。
 江戸時代から伝わるそんなばかばかしい迷信が、いまもなお生きているということが楽しい。
 ……と、まあ、こんなぐあいに、関連した思い出話を書き出すと、キリがなくなる。
(考えてみると、この「キリ」というのも歌舞伎用語で、切り狂言、あるいは大切のキリである)
 うっかりしていると、際限もなく話は横道に外れ、ひろがりつづける。
 原稿を書きながら、無意識のうちに声に出して、歌舞伎口調で、
「ねずみ小僧は闇の夜に、むこうが見えたということだが……」
 などと唸っている。六十数年前の坂東竹若の声色(こわいろ)を使い、うっとりと、いい気分になってしまう。
 Rマネは、
「うっとりしても、話がひろがってもいいからお書きなさい。とにかく書きなさい。この時代の、こういうことを知る人は、いまは濡木先生しかいないんだから、ためらわずにせっせとお書きなさい」
 と言う。真正面から私を見据え、断固とした表情で言う。
 私も、思い出すことをだらだらと書きながら、追憶に浸りたい。
 だが、そうもいかないでしょう。
 やはり、全体のバランスというものを考えてしまう。
 そこで、感傷的な気分はできるだけ排除して、あるいは省略しながら前へ進める。

 昭和二十年(一九四五年)十月から十一月にかけて、竹若一座は葛飾区亀有の鶴亀劇場から、墨田区向島の白鬚劇場へ移動して公演した。
 一座の立女形(たておやま)である市川福之助も、その弟子の福二郎、つまり私も、当然、白鬚劇場に出演することになる。
 このときの演目。

一、島千鳥月白浪 鳥居前 一幕
主役の明石の島蔵は、当然竹若だが、相手役の松島千太は、紀三郎から、新加入の沢村鉄三郎に変わっている。
紀三郎の姿は、この興行から見えなくなってしまった。つまり、竹若一座を退座したのだ。その理由は私のような下ッ端の新米役者にはわからない。
私にわかるのは、紀三郎の代わりに、沢村鉄三郎が入座したということだけである。
私は本所寿劇場時代から、紀三郎という役者が好きだった。
柄が大きく、顔も立派で、敵役(かたきやく)専門の、口跡のいい、歌舞伎役者らしい風格があった。
どんなに憎たらしい悪人をやっていても、どこかに愛嬌があって、客席から愛されていたように思う。
紀三郎が登場すると、すかさず客席の女性たちから、
「紀伊国屋!」「きのくにや!」
という華やかな声がかけられた。
(いま思うと、寿劇場における客席からの掛け声は、ほとんど若い女性ばかりであった)
沢村鉄三郎という役者は、その後しばらくのあいだ竹若一座にいて活躍するのだが、わたしはあまり好きではなかった。柄も顔も小さく貧弱で、口跡もひびきの悪い、しわがれ声でよくなかった。だが鉄三郎は一座の重要な敵役を、つぎつぎにやるようになる。

二、喜劇・身替奴 三場
主役であり、重要な適役でもある黒田左京という殿様を、新加入の沢村鉄三郎がやった。他の配役はすべて鶴亀劇場で上演したときと同じである。
私は黒田家の奴(やっこ)の一人で、梅沢秀雄扮する先輩が、
「お殿様が新しい刀をお買いなさった。あんまり近くへ寄らねえほうがいいぜ」
というセリフを受けて、
「そりゃまた、なにゆえに?」
と返すのが私のセリフだった。この一言だけである。

三、石井常右衛門 六場
この六場というのは、塀外(へいそと)、常右衛門宅、高尾の間(ま)、吉原外、揚屋(あげや)、塀外、である。配役は、
  石井常右衛門 ……… 坂東竹若
  高尾太夫 ……… 市川福之助
  芸者 ……… 尾上音女
  仲居 ……… 坂東れい子
  中間市助 ……… 尾上竹之助
  一刀佐忠太 ……… 片岡当兵衛
  門弟・1 ……… 梅沢秀雄
   〃 ・2 ……… 有沢浩太郎
   〃 ・3 ……… 市川福二郎
 である。
 この配役表も、舞台下手に短い斜めの花道がついており、その後ろに貼り出してあった手書きのビラを、私が写し取ったものである。
 白鬚劇場のある一角も、アメリカ軍の空襲による焼失から、かろうじてまぬがれた、東京下町の軒の低い、黒っぽく煤けた木造建ての小さな家々が並んでいる地域だった。
 焼けのこった場末の映画館をすこしばかり改造して、芝居のできる小屋にしての、かなり無理のある興行だった。
 劇場の表も裏も、楽屋も、みるからに貧しかった。プログラムとか、筋書とか、印刷されたビラ、ポスター類など、まったくなかった。とにかく敗戦直後の、すべての物資が欠乏していた時代であった。
「石井常右衛門」という芝居を、私は知らなかった。古い演劇の本、歌舞伎の雑誌にも書かれていない、いかにも「小芝居」でしかやらないような芝居だった。
 華やかな吉原の遊郭を舞台にして、紺屋高尾とか、助六とか、佐野次郎左衛門の話を、ミックスしてごちゃごちゃにかきまわしたような芝居だった。
 しかし明かるくてわかりやすい話で、喜劇味も濃い。
 三番目の切り狂言に「輝虎配膳」のような重苦しい義太夫物はやめて、単純明快な「石井常右衛門」に変えたのは、おそらく興行主の注文だったにちがいない。
 遊女屋の仲居に、坂東れい子とあるのは、女優である。このれい子は、本所寿劇場にも出演していた。筋書に名前ものっている。
 つまり、「小芝居」というのは、役者の数がたりないときは、歌舞伎の中に、女優も出演させるのである。こののち、竹若一座には、数人の女優が出演することになる。
「大歌舞伎」の舞台には、子役はべつとして、女優は出演できない。女の役は、どんな端役(はやく)でも女形が演じる。
 この約束事をやぶると、歌舞伎は歌舞伎でなくなる。

つづく

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