2009.6.10
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第八十五回

 五郎劇を焼き直す


 向島(むこうじま)白鬚劇場の二の替りは、

一、三日月半次黒船由来 四場
二、恋飛脚大和往来・封印切の場

 それにつづいて三番目は、

三、喜劇・山の娘 一幕

作 平 ……… 尾上竹之助
娘 おとよ ……… 尾上音女
高野与一 ……… 沢村鉄三郎
池 田 ……… 坂東竹若
妻・お秀 ……… 市川福之助
村の青年 ……… 梅沢秀雄

 という芝居であった。私の日記には、狂言名と配役だけしか書かれていない。上演記録というようなものではなく、メモといった感じで書きつけられている。
 一番目狂言の「三日月半次」と同じく、この「山の娘」も、私には、なんの記憶もない。
 おそらく、曽我廼家(そがのや)系の喜劇ではなかったか、と思う。
 曽我廼家系の喜劇といっても、いまは知る人もすくないだろう。
 私は子供のころ、父に連れられて、よくこの喜劇を見にいった。
(まったく私の父ときたら、見境いのない芝居好きで、舞台で演じられるものだったら、どんなジャンルのものでも私を連れて見にいくのだった。そのたびに仕事を休むので、私の家はどんどん貧乏になっていく。だが、そんな父のおかげで、喉頭がんを病んだ座頭の曽我廼家五郎が最晩年、大阪から上京して東劇でやった芝居を見ている)
 私の手もとに「芸能辞典」という一冊の本がある。
 昭和二十八年に東京堂から刊行された、河竹繁俊監修・演劇博物館編の、重厚な布張り装丁の立派な本である。
 そこに「曽我廼家五郎」について、こう記されている。
 ホンの一部だけ、抜粋させていただく。
「……演技の基盤は歌舞伎におかれていたが、芸風としては油っこいところが特徴で、低俗な教訓の押売りに辟易させられることも屡々だった。」

 大阪の喜劇は、この曽我廼家劇から、渋谷天外、そしてその弟子の率いる松竹新喜劇の藤山寛美まで、伝統的に引き継がれていく。
「低俗な教訓の押売り」とあるが、藤山寛美の芝居を、私が最後まで好きになれなかったのは、引き継いでいるその「教訓の押売り」がイヤだったからである。
(イヤだなあ、と思いながらも、藤山寛美が東京の演舞場にくると、私はよく見にいった。寛美の芝居のうまさは、また格別だった)

 いや、私はここで、こういうことを書こうとしていたわけではない。
 ここで大阪喜劇の歴史とか批評めいたことを書いても始まらない。
「……曽我廼家劇は、歌舞伎を基盤にしていた」
 というところを、読んでいただきたかったのだ。
 つまり、歌舞伎を基盤にした喜劇であるがゆえに、歌舞伎役者である坂東竹若や、市川福之助、その他の役者たちが、さほどの抵抗もなく、違和感もなく「山の娘」を演じられた、ということである。
 曽我廼家系の喜劇は、人物の「出」つまり舞台へ登場するときと、「引っ込み」つまり退場するときに、ひときわ高く、歌舞伎芝居同様に、三味線と太鼓を鳴らす。唄も入る。
 この「山の娘」は、だから竹若も福之助も、その他の役者たちも、みんな着物、つまり和服を着て演技する芝居だったのだろう。
 だが、私の記憶の中に、この芝居のことはまったく残っていない。
 福之助の弟子である私は、私の親方である福之助が出演しているときには、かならず舞台の袖に正座して、きちんと見ていなければならない。
 私自身が舞台に出ているとき以外は、師匠の芸を見て、脳に刻みつけることが勉強であり、修行だった。
 福之助の出ていない「三日月半次」の記憶がないのは仕方がないにしても、「山の娘」をまったく覚えていないというのは、どういうことだろう。
 よっぽど印象に残らない、つまらない芝居だったにちがいない。あるいは、
(こんなつまらない芝居に、どうして福之助親方や、竹若親方のような腕のある役者が出なければならないのか)
 という、子供心にもくやしい思いが、当時の私の記憶を消し去ってしまったのかもしれない。
 私のこの癖は、いまでも続いている。
 つまらないものを見ると、すぐにきれいさっぱり忘れてしまう。いいものだけが、いつまでも記憶に残る。
 つまらない人間のことはすぐに忘れ、おもしろい人間のことはいつまでも覚えていて、おつきあいも続く。
 しかし、これはなにも私だけでなく、だれだってそうだろう。
 私の場合は、それがやや極端なだけである。
 そういえば、福之助が洋服を着て舞台に立ったところなど、私は一度も見ていない。
 舞台以外でも、福之助は女形らしく、常に凛とした和服だった。
 大森の自宅を出て、電車に乗って、常磐線南千住駅まできて、そこから歩いて向島の空にそびえたつ二つの大きなガスタンクを左に折れて、白鬚橋を渡り、すぐ左に折れて、白鬚劇場のある細い道を右に曲がるのだが、その通勤のときも、すべて和服だった。
 小芝居の役者といえども歌舞伎役者、という風貌とたたずまいを、すこしもくずさなかった。

 話はまたやや横道に外れるが、演劇博物館編集の「芸能辞典」の曽我廼家五郎の項に、
「……座長生活三十三年、一堺漁人の筆名で自作した脚本は全集にもなった。」
 とある。
 私の家に、その一堺漁人が書いた脚本全集があった。もちろん所有者は私の父である。
 上下二巻の分厚い本であった。
 曽我廼家五郎が実際に舞台で演じた人情喜劇の脚本集である。
 私はその中の数本を、敗戦後すぐの「平和日本」、流行語になった「デモクラシー日本」すなわち当時の世相に合わせて書きなおした。
 そしてそれを、遠山という、鶴亀劇場の奥役に見せた。
 奥役というのは、興行主の下にいて、楽屋、役者のことを全般的に取り仕切るプロデューサーのような役目の人のことをいう。
 楽屋のしきたりにくわしく、役者の裏事情などもよく知っていなければならない。
 興行主と座長の間に入って、上演する芝居をきめたり、配役を考えたりする役目もある。
 身上(しんしょう)の面にもタッチしている。身上とは役者の出演料のことである。
 役者側から見ると、興行主の側に立つ人間である。興行主に言いたいことがあれば、役者はまず奥役に言う。
 私は、この遠山という、四十歳前後の奥役のことを、終生忘れることができない。
 彼は、私がおそるおそる差し出した私の脚本を、まじめに両手でひろげ、ていねいに読んでくれた。
 十六歳の子供の私を、下に見ることもなく、軽蔑したり、ばかにすることもなく、ものを書く人間として、きちんと接してくれたのである。
 その脚本は、鶴亀劇場のつぎの興行から使われることになった。
「遠山さん、じつはこれは、一堺漁人作の焼き直しです。ためしに書いてみたんです」
 と、私は言った。
「すぐわかりましたよ。でも、いまの世相に書き替えてあるから、これでいいでしょう。使えますよ。曽我廼家五郎はまだ生きているはずだけど、まさか、ここまで見にこないでしょう」
 と、遠山はすこし笑って言ってくれた。
 曽我廼家五郎が喉頭がんで大阪の阪大病院で亡くなったのは、昭和二十三年(一九四八年)である。七十二歳。
 一週間後、遠山は私に、封筒に入った脚本料をくれた。正しくは、私の脚本の上演料である。
 私はびっくりし、ありがたく頂戴した。
 市川福之助の弟子になる前に、私は日立の広報劇団のために、「血煙り高田の馬場」とか、「御存知鈴が森」とか、その他数本の脚本を書いている。
 だが、脚本料などもらったことはない。
 日立製作所亀有工場、厚生部広報課から毎月給料が出ているので、脚本料など支払われるわけがない。
 鶴亀劇場奥役の遠山から頂戴した脚本料が、私が芝居を書いてもらった、はじめての脚本料ということになる。
 だが、その封筒の中に、いくら入っていたか、記憶にない。日記帳にも書いてない。
 いまになって思えば、記念すべき初脚本料の金額を、しっかり記録しておくできであった。
 お金のことをこまかく書いたりするのは、恥ずかしいことだ、卑しいことだ、という気持ちが、私にある。
 このへんの虚栄心が、親代々浅草生まれで浅草育ちの人間の、うすっぺらなところだ。

 よけいなことを書いてしまった。
 昭和二十年の、ボロボロになっている日記帳の中にメモしてある、鶴亀劇場と白鬚劇場で上演した狂言名だけを、この「おしゃべり芝居」に書いておこうと思っていたのだ。
 それだけでいいと思っていた。
 だが、生まれついてのおしゃべりで、軽薄な性格なので、ついつい、どうでもいいような、よけいなことを書いてしまった。

つづく

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