2009.6.12
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第八十六回

 川部サブローの登場


 私の日記の、この鶴亀劇場と白鬚劇場の部分には、たいせつなことが記されていない。
 それは、このときの毎日の上演時刻とか、一回の狂言立てで、何日間興行したか、そして市川福二郎、つまり私の給料はいくらだったか、などである。
(毎月きちんと給料をもらっていたことだけは、はっきりと覚えている。その金額を忘れている)
 一回の狂言立てで、半月間か十日間、あるいは一週間の興行だったのかもしれない。旅回りの一座ではないので日替わりということはない。いまの「大衆演劇」の一座は、日替わりで、しかも昼夜まったくちがう演(だ)し物をやる。これはもう超人的な、神技といってもいい位のものである。
「花形歌舞伎」である坂東竹若一座は、一興行十日間、芝居を替えて二十日間、つまり同じ劇場で二興行やったと記憶している。
 一日一回、夜だけの公演として、夕方何時から開場したのだろうか。
 東京の、とくに下町はアメリカ軍の空襲で焼け跡だらけになり、夜になると足もともおぼつかなくなるほど暗いのだ。
 街灯などはほとんど無い、戦後すぐの時代である。
 そういうこまかい記録が、私の日記には記されていない。
 夜だけの公演で、一興行十日間、よく客がきたものだ。土曜と日曜だけは昼と夜二回やったような記憶が、ぼんやりとある。
 入場料とか、客の数、客の反応とか、いま思うと、とても興味のあることなのだが、まったく書かれていない。
 やはり十六歳である。まだ子供である。
 歌舞伎役者の弟子という初体験は、毎日が多忙で、心の余裕もなく、日記に上演演目と配役をメモしておくことだけで、精いっぱいだったのであろう。
 敗戦直後という、何もかもが混乱して、明日のわからない時代でもあった。
(そんな時代の真只中にいたのだから、なおのこと、こまかく記録しておけばよかったと、いまになって思う)
 学校も戦火のために破壊されて、再建される噂もない時期である。私はいつのまにか、学校へもどることをあきらめていた。
 私の心は、いま想像するよりも、もっともっと不安定で、希望のない、いつも何かにおびえて動揺している、灰色の毎日だったにちがいない。
 しかし、演目と配役だけでも、こうして記録しておいてよかったと思う。
 たとえメモ程度の短い走り書きにせよ、当時の自分の心の在り方を、こうして思い出す手掛かりとなる。

 坂東竹若一座は、向島での興行を終えて、亀有の鶴亀劇場へもどってきた。
 交代して、それまで鶴亀劇場で芝居をしていた坂東鶴蔵一座が白鬚劇場へそのままそっくり移り、公演するというのが、興行主のやり方であり、無駄のないシステムだった。
 鶴亀劇場へもどってきた竹若一座の演し物は、つぎのようなものであった。

一、軽演劇・粗忽の使者 三景

殿様 ……… 梅沢秀雄
次郎右衛門 ……… 川部サブロー
右野珍五郎 ……… 山本ジュン
……… 川部春江
弟子 ……… 川部とんま

二、寿の門松・山崎浄閑住家の場 一幕

浄閑 ……… 尾上竹之助
与五郎 ……… 市川福之助
吾妻 ……… 尾上音女
治部右衛門 ……… 片岡当兵衛
きく ……… 坂東竹若

三、喜劇・山の娘 一幕

  役名、配役は前と同じ。

 前にも述べたが、この配役表は、舞台下手につくられた小さな花道の後ろの壁に、肉筆で、紙に書かれて貼り出されてあるのを、私がメモしたものである。
 プログラムをつくるための紙が無く、戦争で印刷屋も焼けてしまった時代である。
 たったこれだけの狂言名、配役表を記した文字どおりのメモにすぎないが、十六歳の私が、よく書いておいたものだと思う。
 紙どころか、食べるものもない、住むところもない、着るものもない欠乏だらけの時代に、こういう芝居の一座が存在していたというのは、いま考えると不思議である。
 だが、人間にとって、娯楽というものが、いかに必要かということを、私は身をもって実感している。
 アメリカ軍の飛行機が、編隊を組んで東京の上空へやってきて爆弾を落とすという日に、私は防空頭巾という、座布団を丸めて作ったものを頭にかぶって、黒沢明の「姿三四郎」や、片岡千恵蔵主演の「宮本武蔵」を見に行っていたのである。
 映画が上映されている最中に、「警戒警報」が鳴らされる。アメリカの爆撃機が関東地方へやってくるという合図のサイレンである。
 すると、映画はたちまち中止となる。
 客は椅子と椅子の間に小さくうずくまり、両耳を手でふさぎ、両眼のまぶたの上を指でおさえて、警報が解かれるのを待つ。
 そうしないと爆風で目玉がとびだし、鼓膜がやぶれてツンボになるというのだ。
 いま思うと、とても信じられない、ばかな話だ。だが、庶民はお上のいうことをよくきいて、みんなそんなことを大まじめにやったのだ。私はそういう時代を過ごしてきたのだ。
 や、また話が横道に外れてしまった。
 鶴亀劇場へいきなり川部サブローという、歌舞伎役者ではない俳優が、グループを引き連れて登場したことを、私は書かねばならない。
 一番目狂言の、「軽演劇」とわざわざ銘打った「粗忽の使者」という時代劇が、それである。
 殿様役の梅沢秀雄だけが竹若一座に所属し、あとは川部サブローをリーダーとするグループの男女たちが演じる講釈ダネのドタバタ喜劇であった。
 それは私の目にもまったく竹若一座にそぐわない内容の、底の浅い芝居だった。
 この「粗忽の使者」で私の記憶にあるのは、梅沢秀雄のきちんと大まじめにやった殿様の姿だけである。
 ついでに書けば、梅沢は当時浅草で人気があり、剣劇王あるいは剣戟王と称された梅沢昇に憧れて、芝居の世界に飛び込んできた青年であった。梅沢という芸名も、将来は梅沢昇のようになりたいという願望から、自分で勝手につけたものである。
 さらについでに書けば、昭和十年代、浅草で人気のあった剣劇の梅沢昇一座や、金井修一座の芝居も、私は父親に連れられてよく見にいった。
(まったく私の父親は、舞台で演じられるものなら、なんでも好きで、仕事をほうりだして見にいってしまう困った人間であった)
 とくに梅沢昇が好きだった父は、私の名前で梅沢昇の後援会に入っていたのだ。
 このへんの話になると、またまたとめどなく話は横道に外れてしまうので、もうやめる。きっかけが生じたときに、また書くことにする。

 興行主が、なぜそんなドタバタ喜劇をやるグループを竹若一座の中に組み込んできたのか。
 それはやはり客の入(い)り、つまり興行成績に影響されてのことだったろう。
 子供で下ッ端役者の私には、興行内部のそういう事情はわからない。
 だが、竹若や鶴蔵、福之助たちが演じる歌舞伎芝居では、多くの客が呼べないということはわかる。劇場内には、たしかに空席が目立つようになっていた。
 興行師側に立ってみれば、赤字になるのは困る。すこしでも利益をあげたいという気持ちがあって、何か新しい手段をとろうとするのは当然だったであろう。
 それが、川部サブローグループの登場となる。彼らの雰囲気も演じるものも、竹若一座とは、あきらかに違和感があった。
 たとえば、チョンマゲをつけ、商家の若旦那の衣装を着た人物が、ギターをかき鳴らし、唄を歌いながら登場したりする。
 しかし、竹若も福之助も、竹之助も音女も、そして当兵衛も、ギターやアコーディオンの音にひるむことなく、まじめに、本格的な芝居をやった。
 小芝居の役者にしかできないような、めずらしい歌舞伎狂言を、きちんとやった。
 素人芝居みたいなドタバタ喜劇につづく、二番目狂言の「寿の門松」がそれである。
「寿の門松」と書いて「ねびきのかどまつ」と読む。
 本名題を「山崎与次兵衛寿の門松」といい、近松門左衛門六十六歳のときの作である。
 大歌舞伎ではめったに上演されない、めずらしい狂言なので、東京創元者刊の名作歌舞伎全集・第二十一巻・近松門左衛門の二を手もとに置いて、その荒筋を紹介したいのだが、長くなりそうなので省略する。
 ギターを鳴らし、アコーディオンをひきながら、舞台の上ですべったり転んだりする「軽演劇」のすぐあとで、こういうまじめで古風な悲劇を演じるのは、小芝居ながらも誇り高い歌舞伎役者たちにとって、ずいぶんつらいことだったろう。
 だが、私は、竹若や福之助の口から、そういう愚痴をきいたことは一度もなかった。
 いま思うと、なんというけなげな、ひたむきな、純粋な人たちだったんだろうと、胸が熱くなる。

つづく

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