濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第八十九回
寺子屋フリーク
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竹若の松王丸、福之助の千代、竹之助の武部源蔵、音女の戸浪による鶴亀劇場の「寺子屋」のすばらしさは、その後五十年間、つまり現在に至るまで、私を「寺子屋マニア」あるいは「寺子屋フリーク」にさせている。
小芝居の最後の砦であった「かたばみ座」が、やがて解散し、消滅してしまったあとも「寺子屋」が上演されるとあれば、歌舞伎座でも、新橋演舞場でも、国立劇場でも、その他の劇場でも、私は見に行っている。
(私はいつも貧しかったので、もちろん一番安い席での観劇であったが)
大歌舞伎で演じられる「寺子屋」は、もちろん一級品の味があり、いつも私を陶酔させ、恍惚とさせてくれる。
あらゆる歌舞伎狂言の中で、私はこの「寺子屋」が最も好きで、さまざまな俳優たちの松王丸を数多く見ている。
その発端は、やはり坂東竹若の松王丸のすばらしさに触れたからであろう。
(竹若の前に、本所寿劇場で松本麗之助の松王丸を見ている。このときの武部源蔵は実川延松で、これがまたおもしろかった)
といって私には「寺子屋」の中に描かれている主君への忠義とか、忠誠心というようなものは、まったくない。
親とか子供に対する愛情も、きわめて希薄である。兄弟愛なんていうものもない。
自分はなんという非情な、非人間的な性格であろうかと、ときどきぞっとする位に、肉親への愛情に乏しい。
肉親よりも、自分のことを理解してくれる他人との信頼関係のほうを大切にする。
「血は水よりも濃い」だなんて、ときどき調子にのって言ったり書いたりしているが、書きながら私は、(ウソつけ)と自嘲し、苦笑している。
「浅草生まれの浅草育ち」は本当だとしても、私は「血なんて水よりもうすい」と思っているエゴイストだ。
私が「寺子屋」という芝居が好きなのは、主君への忠誠心、親子の情愛を前面に押し出しながら、その実、エゴイズムに充ちた非倫理性、非合理性、「美しい義理人情」に見せかけた人間の不条理な行動を描いているからである。
残酷きわまる人間の心理と行動を、抒情的なオブラートに包んだ、完ぺきなドラマだからである。
私はそこに感動し、その感動を、十六歳のときから、いまだに持ちつづけている。
思えば、竹若一座の「寺子屋」は、演技の面からも、全体的な演出の面からも、完ぺきだったのだ。
そのへんのことを、いまここでこまかく述べると、また話が横道に外れてしまいそうだ。
鶴亀劇場における竹若一座の「寺子屋」は一週間だったと記憶している。
土曜と日曜だけ昼夜二度やったとすれば、計九回の上演である。私もまた「よだれくり」の「じい」の役を、九回つとめたことになる。
この短い興行のあいだに、私は「寺子屋」の登場人物のセリフも、動きも、すべて覚えてしまった。
歌舞伎役者(たとえ新米の端くれでも)として当然のことだが、浄瑠璃(義太夫)の文句まで覚えてしまった。
段切れ(ラストシーン)の「いろは送り」は、詞、曲ともに哀切きわまりなく、ここへくると私の陶酔度はまり、肺腑えぐられる思いで、ほとんど恍惚状態になってしまう。
「……門火を頼み頼まるる、御台若君もろともに、しゃくり上げたる御涙。冥土への旅へ寺入りの、師匠は弥陀仏、釈迦牟尼仏、六道能化(ろくどうのうげ)の弟子となり、賽の河原で砂手本、いろは書く子はあえなくも、ちりぬる命、是非もなや。あすの夜たれか添乳せん、らむ憂い目見る親心、剣と死出の山けこえ、あさき夢見し心地して、跡は門火にえひもせず、京は故郷と立ち別れ、鳥辺野さして。……」
ああ、書いてしまった。
こんな義太夫の文句なんか、ここに書くつもりはなかったのに、私の耳の奥で、太棹の三味線が鳴り出し、その音に乗せられて、つい書いてしまった。
つまり「寺子屋」の脚本を、丸暗記してしまったということになる。
十六歳の少年の脳味噌はやわらかい。
覚えよう、覚えなくてはいけない、と思って覚えたのではなく、舞台で演じている俳優たちの芝居をみつめているうちに、しぜんに頭の中に入り、一語一語が脳味噌の皺に浸透し、忘れることができなくなってしまったのだ。
そして、そんな状態が、六十年近くたった現在でも、つづいている。
ちょっと恥ずかしい話だが、私はいまでも俳優として、年に数回舞台に立つ(ただし歌舞伎ではない)。
ところが、いまの私は、どうしてもセリフが覚えられない。頭脳が老化しているのだ。
そこで、あの手この手でカンニングしながら、どうやら舞台を勤めている。
二時間以上にも及ぶ「寺子屋」の、全登場人物のセリフを、六十年間忘れないでいるのに、一時間の芝居の、わずかな自分のセリフを、どうしても覚えることができない。
片岡当兵衛扮する「よだれくり」が、花道の際で、自分を迎えにきた「じい」に向かって、駄々をこねる。
「駅の向こうの、赤い電気の下で、きれいなべべを着たおねえちゃんがいっぱいいるところへ連れて行ってくれなけりゃ、家へ帰らないやい」
そして、「じい」に扮した私は、
「子供のくせに、なにをバカなことを言う。そんなわがまま言わずに、早よ、家へ帰ろ、帰ろ」
と言って、「よだれくり」をなだめすかすのだ。
「寺子屋」が始まって、三日目か四日目の夜、芝居がはねて、福之助親方を亀有駅までお見送りしたあと、私は勇気をだして、その、
「赤い電気のついた、きれいな女の人がいっぱい並んでいるところ」
へ一人で行った。
当兵衛から、
「まだ若いんだから知らなくてもいいんだけど、芝居の中であんなに言って客を笑わせているんだからな、外からのぞくだけでいいから、一度見ておいたほうがいいかもしれないよ」
という忠告があったのだ。
だが、私は、そういう場所へ近づくことが、本当に苦手だった。
(いまでも苦手だ、ということは前回にも書いた)
異性への興味は人一倍あり、十六歳の少年の性欲も、それなりに十分にあったはずなのだが、女性の肉体を金で買うという行為に対して、なぜか私は極端に臆病だった。
そのくせ、芝居や映画や、小説の世界で展開するその種の色事の世界には、ロマンティックな、強い憧れを抱いていた。
現実に、そういう「肉をひさぐ場所」とか、そこに働く女性に対しては、おぞましい思いしかなかった。
そういうおぞましさが漂う現実に触れることに、私には恐怖感があった。
(いま私の陰になりひなたになって寄り添ってくれるRマネは好奇心が強く、私をときどき、そういう場所へ案内させる。私はいくじなくおびえ、その種の匂いをなまなましく発生させている地帯を、さっさと足早に通りすぎる。私に恐怖があるからである)
私にとっての女性は、あくまでもロマンティシズムのかたまりであった。
甘美なセンチメンタリズムに包まれた、情緒ゆたかな存在であった。
そういう「夢」をこわされることを、私は漠然と予感し、おそれていたのかもしれない。
私は、亀有駅の東側に、江東区亀戸から焼け出されて移転してきて営業しているというその場所へ出掛けた。
町の中央の通りからはずれた裏側の暗いドブ川沿いに、いかにも急拵えといった感じのバラック建てが並ぶその一角が、売春地帯であった。
赤い色のついた電灯が、たしかに軒につらなり、男たちがその電灯の下を、ぞろぞろ歩いていた。
その男たちの群れに混じる勇気は、私にはなかった。
外側からではあったが、私は生まれてはじめて、売春の巷(ちまた)というものを見た。
私が予想していたとおりの、悲しい、おぞましい現実の光景をそこに見て、私は衝撃をうけた。
(つづく)
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