2009.7.7
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十回

 紅灯の巷で


 私の背中におぶさった片岡当兵衛扮する「よだれくり」が、
「赤い電気の下で、きれいなべべ着たおねえちゃんがいっぱい並んでいるところへ連れて行け」
 と、大声出して駄々をこねる、その紅灯の巷へ、私は勇気をふるいおこして、一人で出かけていった。
 常磐電車の踏切を渡って、亀有駅の向こう側へ出たときから、私は緊張していた。
 場所はすぐにわかった。
 暗い夜空の一角が、わずかに赤く染まっている。そこをめざして歩いた。
 ドブ川を背にして、いかにもバラック建てという安っぽいたたずまいで、それは並んでいた。
 なんの飾りもない、粗末な二階建ての長方形の木造家屋が、三戸ほども寄り添うようにして密着していた。
 削りっぱなしの白っぽい木の板を壁にして作られた小屋が、黒く流れるドブ川沿いに、ひっそりとたたずんでいる姿は、それ自体が妖しい女の裸身のように見えた。
 路地に面した側には、五十センチ四方ほどの大きさの窓が、ずらりと行儀よく並んでいた。あとは、のっぺら棒の建物である。
 窓の内側に女がすわり、その窓から手と顔だけ出して、外を通る男に声をかけるのだ。
 その窓は約一メートル置きに、同じ高さで並んでいた。
 つまり、一メートル置きに女がすわり、客をまねいているのだった。窓はぜんぶ合わせると、三十もあったろうか。
 なんの飾りもない、と書いたが、窓の上側に一つ一つ赤い小さな電灯がぶら下がっていて、見方によっては安っぽくてみじめなのだが、それが効果的な飾りになっていた。
 まさしく「紅灯の巷」であり、「飾り窓の女」だった。
 このときの私の目に、最も奇異に映ったのは、女たちの顔が並んでいる窓の外側の路地が、粗末な荒削りの板の塀で囲われていることだった。
 女の顔を近くではっきり見るためには、その板塀の内側の、せまい路地に足を踏み込まなければならない。
 つまり、その、手で押せばすぐに倒れそうな、うすっぺらな板の塀は、外の往来から女の顔を隠すための囲いだった。
 道行く人々に、大切な「商品」を、あからさまに見せないための「仕掛け」だった。
 板塀の外側は、暗いさびしい裏通りだが、内側は赤い電灯に照らされた妖しい別世界になる。その別世界を私はすこしのぞいた。
 少年の私は、女の肉体を売るための、そういう、単純だが巧妙な「仕掛け」に、まず、びっくりした。
 いま思うと、最も手早く、最も安価に設置された即製の売春窟にすぎない。
 だが、アメリカ軍の空襲で焼かれたあとの急拵えにしても、せまい空間に多くの女たちを並べ、それを男の目に魅力的に、官能的に見せるための、じつに効果のある舞台装置にちがいなかった。
 が、そんなことにおどろくより、窓から顔を出して男を呼ぶ女たちの情景を目の前にして、私は強くそれを「悲惨な姿」と感じ、その衝撃に心臓がおしつぶされそうになった。
 窓から男をまねく女たちに、私は「哀れ」だけしか感じられなかった。
 人間ではなく、身も心も奪われた「商品」にしか見えなかった。
 その哀れな環境にもめげずに、たくましい笑顔で媚を売る女たちに、私はやはり畏怖をおぼえた。哀れではあるが、おそろしい存在であった。
 私の好む古典的な遊女たちが奏でる恋物語のロマンティシズムなどは、ひとかけらも感じられなかった。
 私はべつに「良い子」ぶっているわけではないし、「モラリスト」ぶっているわけでもない。
(濡木痴夢男が、いまここでモラリストぶったところで、どうにもならない)
 子供とはいえ、十六歳になっている私は、すでに男の性欲を持っていた。
 だが、窓から男を誘う女たちの姿には、ひとかけらの欲望も感じられなかった。
 そういう女たちの媚態に刺激されて、欲情するのが、男として「正常」なのだろうと思う。
 窓にすわる女たちにエロティシズムを感じたり、性欲を刺激されることなく、悲惨さだけしか感じ得ない私という人間は、やはり、「異常」というべきなのだろうか。
 考えてみると、私は、最も多感な時期に、「軍国教育」を受けた人間だった。
 戦争に負けてから、てのひらを返したように「民主主義」とか「男女同権」などと、世間はわめきだしていたが、私は戦争中から、軍国主義が嫌いだった。

「……ぼくは軍人大好きよ、
 いまに大きくなったなら、
 鉄砲かついで旗立てて、
 お馬に乗って、ハイドウドウ……」

 という童謡みたいなものを子供のときに教わったが(ああ、こういう忌わしい歌を、いまでもこうやって覚えているというのは、どういうことか!)私は軍人になりたいなんて思ったことは、一度もない。
 荒々しいことは、嫌いである。
 体操の時間や運動会が、頭痛のするほど嫌いだったのは、体を動かすことがいやだったからである。
 体を動かすことが嫌いで、戦争や兵隊などを本能的に嫌悪している。
 戦争末期「一億一心火の玉だ!」と、政府が絶叫していた時期に、私は時代劇の舞台で、うっとりといい気分で、堀部弥兵衛の娘を演じていた。
 女の子より女の子らしいと、評判になった。軍国女学生たちには不人気だったが、私は内心得意だった(このへんのことは前に書いている)。
 私は生まれつき、いってみれば「男女同権」的な意識とか考え方を持ち、そういう性格だったような気がする。
 女性を、女だからといって、とくに軽蔑の目でみたことはなかった。
 むしろ、畏怖心のようなものを、子供のころから抱いていた。
 こういう性格は、父から受けついだような気がする。
 私の父も女性には臆病な性質だった。
 父は、母に対していつもやさしかった。
 母に対して手をあげたところなんて、一度も見たことがない。
 いや、やさしいという表現は、あいまいすぎるかもしれない。そうだ、いま思い出した。
 父は母のことを「お前」などと呼ばなかった。いつも「お前さん」と呼んでいた。
 父にくらべると、私は女性に対して、かなり冷酷なところがある。が、表面だけは、とりあえずやさしい。

 や、話がまただいぶ横道に外れてしまった。こんなところまで書くはずではなかった。
「よだれくり」から、どうしてここまできてしまったのか。
 終戦直後の「紅灯の巷」の話を、ここまで詳細にのべるつもりはなかった。
 鶴亀劇場の芝居から、ずいぶん離れてしまった。
 だが、書きたい気持ちがあったから、書いたのであろう。仕方がない。
 とにかく私は、女性が自分の肉体を、あのような姿で男に売るという現実を目の前にして、それを悲惨に感じ、衝撃を受けたのだ。
 その衝撃は重く、深かった。
 六十数年前の情景とか、自分の心情とかを、こんなにもこまかく記憶していて、いま書くことができるというのは、この夜、なみならぬ衝撃を心に受けた証拠であろう。
 私がこの夜、この「紅灯の巷」に立ちすくんでいたのは、十分か十五分、せいぜいその位の時間である。
 少年のセンチメンタリズムと言われればそれまでだが、人間が人間を金で買うという理不尽さと、悲しみに耐えきれず、私はその場から逃げ出していた。
 信じられないことだろうが、亀有駅へもどる途中で、私は本当に涙を流していたのである。
 いまでも私は、男が女の肉体を金で買うという行為が嫌いである。
 濡木痴夢男がこんなことを言うのは、おかしいだろうか。
 おかしいと思い、ウソだと思う人もきっといるだろう。いても不思議ではない。
 しかし、芝居とか、小説の世界に出てくるロマンティックに美化された遊女の物語は、大好きである。
(私自身がそういう話をいっぱい書いている)
 現実の遊女にはとても手を出すことはできないが、空想や妄想の世界の遊女たちとは、いくらでも大胆に、楽しく、淫らに抱き合うことができる。
 その夜の体験で、私は、もしかしたら自分は、他の男とは、女性への欲望がすこし違うのではないか、という思いを味わった。
 ああいう場所で、自分の欲望を恥知らずにむき出しにして、女の肉体を買い漁るような男を、軽蔑する気持ちが、私に湧いた。
 片岡当兵衛扮する「よだれくり」が、
「じいよ。駅の向こうの、きれいなおねえちゃんがいっぱいいるところへ、ぼんを連れて行け」
 と言って駄々をこねるとき、私は、翌日の舞台から、歌舞伎の「助六」に出てくる吉原・三浦屋店先の場を、頭に思い浮かべることにした。

つづく

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