濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十一回
きゃいのう
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竹若一座は鶴亀劇場を打ち上げ、墨田区向島(むこうじま)の白鬚劇場へ移った。
交替して、それまで白鬚劇場で打っていた鶴蔵一座が、こんどは鶴亀劇場で演じることになる。
この時期、鶴蔵一座がどういう芝居をやっていたのか、いまの私はとても知りたいのだが、当時の私はいちばん下ッ端の新米役者だった。年も若い。
親方である市川福之助の身のまわりの世話や雑用に忙しく、鶴蔵一座の芝居を記録する心の余裕がなかった。残念である。
竹若一座と同じように、鶴蔵一座もまた、小芝居でしか見られない、めずらしい狂言を選んで、達者な芸を披露していたにちがいない。
竹若一座が演ずる芝居の外題と配役を、メモするだけで私は精いっぱいだった。
白鬚劇場における竹若一座の狂言は、
一、珍・金色夜叉(こんじきやしゃ)・二景
宮(みや)
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……………
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伏見洋子
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監督
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……………
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片岡当兵衛
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二、恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)・重の井子別れ……一幕
重の井
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……………
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坂東竹若
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赤爺
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……………
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沢村鉄三郎
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腰元・一
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……………
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坂東咲子
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同・二
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市川福二郎
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三、喜劇・借りた女房……一幕
西山良吉
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坂東竹若
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女房お蝶
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坂東咲子
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おきみ
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坂東陽子
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先妻おたか
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……………
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坂東春江
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芸者・桃子
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伏見洋子
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であった。
私は前に、脚本を書いて、鶴亀劇場の奥役である遠山に見せたことを、ここに記した。
それは、大阪の喜劇界の大御所である曽我廼家五郎一座が演じたもので、五郎自身が一堺漁人のペンネームで創作した台本である。
曽我廼家五郎喜劇全集と題されて刊行された脚本の中から、私が勝手に、背景を敗戦直後の市井の風俗にして書きなおした、早くいえば「盗作」に近いものであった。
しかし遠山はすぐ読んでくれて「おもしろい」と言って、私の手に、封筒に入った脚本料を渡してくれた。
私はうれしかった。そして、お金はありがたかった。
遠山は、以後私を年少者として軽く見ることなく、脚本家志望の役者の卵として接してくれた。
当時遠山という人は四十歳前だったと思うが、結核のために戦争へ行かずにすんだというのが人の噂だった。
いま思うと、いかにも文学青年といった感じの風貌をたたえていた人だった。
もっとこの人に近づきたい、接したいという憧れに似た気持ちが私にあったが、気難しそうな、近寄り難い雰囲気もあって、十六歳の私には、気軽に声がかけられなかった。
じつは「珍・金色夜叉」も、「喜劇・山の娘」も、それからあと、鶴亀劇場や白鬚劇場で上演された喜劇の中の何本かは、私が五郎劇の脚本から換骨奪胎して書きなおしたものである。
脚本料をもらって商業芝居の舞台にかけられた記念すべき作品のはずなのに、私は自分の書いたそれらの台本の中身を、すべて忘れている。
まあ、内容からいったら、親子や夫婦の古臭い情愛をモチーフにした、まったくうすっぺらな人情喜劇ばかりだったのだけれど。
コピー機などという便利な機械など、なかった時代である。
ガリ版刷りの台本でも残っていればいいのだが、それもない。
そもそも、台本というものが一冊ずつ役者に渡されるという、そういうしきたりのなかった時代である。
役者は、台本の代わりに、自分が登場してセリフを言うときの、その自分のセリフしか書いていない紙きれだけを奥役あるいは狂言役者から渡される。
いまの海老蔵や、菊之助や、染五郎や、勘太郎や、七之助や、松緑たちに、こんなことを言っても信じてもらえないだろう。
自分のセリフしか書いていない台本をもらったって、けいこのしようがないじゃないか、と。
だが、大歌舞伎でも以前はそうだったのである。
その証拠に、講談社発行の「歌舞伎ことばの辞典」(服部幸雄監修・赤坂治績執筆)にこのことが掲載されている。
「書抜」(かきぬき)
台帳(台本)から、一人の俳優が演じる役(複数の場合もある)のせりふだけを抜きだして、狂言作者が毛筆で書き、一幕ごとに一冊に綴じたものをいう。上方では、「せりふ書き」といった。俳優が「書抜」を受け取ることは、その役を承認することを意味しており、受け取ると書抜でせりふを覚えて演技プランをたてた。ただし、現代では、現代演劇と同様、ト書きも入り、text-regie(テキスト・レジー、台本に手を加えること)を終えたものを印刷して上演台本として用いており、俳優から特別に作成を依頼されない限り書抜は作らない。
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以上である。
このときの興行で私に与えられた役は、「恋女房染分手綱・重の井子別れ」の場に登場する、腰元・二だけであった。
腰元・一は、寿劇場時代からのベテラン女優である坂東咲子である。
奥役であり、そして狂言作者でもある遠山から私に手渡されたのは、半紙を四分の一の大きさに切った和紙に、肉筆の墨文字で書かれた、つぎの二行だけである。
腰元・二「出(だ)しゃいのう」
腰元・二「はじまり、はじまり」
これだけのセリフを、しかも腰元・一の坂東咲子と、声を揃えて同時に言うのである。
よく神社やお寺で売られているおみくじの半分ほどの大きさの和紙に書かれた、たった二行のセリフ。
話はちょっと違うが、「きゃいのう」というタイトルの古典落語がある。
私にはこの落語の主人公である下級役者の気持ちが、じつによくわかる。
「きゃいのう」の主人公を、とても他人事とは思えない。
(落語にくわしい方だったら、ここできっと笑ってくださるはずである)
この紙きれ一枚だけのセリフで「重の井子別れ」という結構長い芝居の内容がわかるはずはない。
だが、出演者が顔を揃えて、楽屋のせまい細長い廊下で、熱心にけいこをしているのを見ているうちに、芝居の段取りとか見せ場とかが、すこしずつわかってくる。
小芝居といえども、歌舞伎の伝統をきちんと踏まえたけいこ場の、ときに火花の出るようなきびしい雰囲気が、私は好きであった。
日立の広報劇団にはない、プロの妥協のない緊張感が見られ、私は酔ったようなうっとりした気分になった。
「ここは麗屋(こうらいや)のあれでいこう」
とか、
「あたしはここはどうしても、橘屋のこの型でいきたい」
とか、
「ここはひとつ、私の師匠の松島屋の型でいきたいんですけど」
とか、
「ああ、そうやりますか。それじゃ私はここでは、こう受けましょうか」
などと、なにか符丁のような、陰語のような言葉を、ひょいひょいとまじえながら、慣れた手つきや足取りでけいこがつづけられる。
それを末席の廊下の固い片隅に正座して眺めていると、焼け残った東京の片隅の、小さな芝居小屋の楽屋が、どこか途方もない、この世とはちがう異次元の世界のように思えてくる。
次元の異る鈍色(にびいろ)に包囲され、全身がすっぽりと甘苦い汁に浸食されているような錯覚におちいりながらも、
(ああ、自分はまだ生きているんだ。生きていてよかったな)
と、胸の中でつぶやいたりする。
つい三ヵ月前までは、空からの激しいアメリカ軍の爆撃を受け、焼けた死体ばかりを見て、いやな気分の日がつづいていたのに、どうしてまたすぐに、こんな甘いような気分に浸れる暮らしが、私の前に現われたのか、自分の運命の変転が、私には信じられないのだった。
(つづく)
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