ドサ回りが好きだ!
一九四五年(昭和二十年)の十月ごろから、翌一九四六年の三月ごろまでの、鶴亀劇場と白鬚劇場における竹若一座の上演記録は「学生日記」(昭和十五年・皇紀二千六百年と印刷されている)の空きページに、私がメモしたものである。 その「学生日記」と印刷され、製本されている布張りの日記帳は、昭和十四年十月に、大阪市南区安堂寺橋通三丁目の田中宋栄堂という出版社から発行されたもので、定価は六十銭となっている。 現在も年末になると、書店や文具店の店頭に並べられる、月日や曜日までがこまかく印刷されている、あの日記帳である。 昭和十四年に編集され、印刷された「学生日記」を、私は昭和二十年になってから使っていたのだ。 つまり、その「学生日記」は、すでに古本になっている。 というより、ほとんどが空白である。 その空白のページを、私はメモ帳として使っていたのだった。 このとき私がメモしていた、狂言名と配役だけを書いたものが、六十数年後になって、このように陽の目をみるとは、思いもよらないことである。 あとあとの資料にする心構えがあったら、もうすこしくわしくメモしておいたであろう。 狂言名や役者の名前を書いただけで、それを上演した月日とか、入場料とか、観客数などを記録しておかなかったことがくやまれる。 それをこまかくメモしたところで、のちのち、なんの役にも立たないだろうというのが、十六歳の私の見通しであり、予感だったのである。 こまかく記録しておくほどの価値があるとは思えなかったのだ。 それでもこうして狂言名だけでもメモしてあるのは、やはり私の、芝居に対する愛着心の強さだったのであろう。 前述のように、私はこのときすでに、五郎劇の模倣とはいえ、喜劇の脚本を書いていたのである。 単なる試作品ではなく、書けばすぐ上演される台本を書き、上演料までもらっていたのだ。 とはいえ、将来、脚本家で食べていこうなどという大それた考えはなかった。 さきの見通しというものが、まったく立たない時代であった。 きょうはどうやら生きているけど、一カ月後には餓死しているかもしれないという不安が、いつもつきまとっていた。 なにもかもアメリカ軍に占領されてしまって、歌舞伎の将来などどうなるかわからないという時代の中にあって、坂東竹若や鶴蔵や、市川福之助たち「小芝居」役者の、それでも舞台で演じたい、客に見せたいという執念と気迫が、少年の心をとらえていたのだ。 役者たちの芝居への情熱は純粋であり、それが毎日の舞台の効果となって、私を感動させた。 「寺子屋」も「封印切」も「野崎村」も、「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」の「河庄(かわしょう)」も、「時雨の炬燵(しぐれのこたつ)」も、私は舞台の袖から本当に涙を流しながら見ていたのだ。 客がすくないときでも、彼らは手をぬかなかった。きちんと、歌舞伎を演じた。 このとき、彼らが私を感動させてくれなかったら、私はこんなに息の永い歌舞伎ファンになっていなかったように思える。 いってみれば、彼らは、「ドサ回り」の歌舞伎役者である。 いや、「ドサ回り」などといっては申しわけない。 「ドサ回り」とは何か。 旺文社発行の「国語辞典」の中に「ドサ回り」が載っているかどうか、調べてみた。 あった。 「どさ回り……常設の小屋を持たない地方回りの劇団。いなか回り。さかり場などを歩き回るよたもの」 「よたもの」とは、ひどい。「よたもの」とは「与太者」である。 同じ辞書で「与太者」を引いてみた。 「不良。役に立たない人。なまけもの」とある。ますますひどい。 竹若一座に、なまけものなんて、一人もいなかった。 みんな勤勉で、凛としていた。矜持があった。 芸に対して、きびしい姿勢があった。 第一、映画館を改造した劇場とはいえ、都内に常設の小屋が二軒もあった。 「ドサ回り」と、うっかり書いてしまったことを、私は撤回する。 もともと彼らが「ドサ回り」の範疇に入るとは、私は思っていなかった。 というより、そもそも「ドサ回り」の一座を軽蔑するような意識が、私にはない。 軽蔑どころか、白状すると、私には「ドサ回り」の芝居に、憧れに近い気持ちがあるのだ。 「ドサ回り」……なんというロマンティックな、自由で奔放で、快楽的な夢をいっぱい孕んだ言葉だろう。 「ドサ回り」という、妖しいほどに魅力的な、普通人とはかけ離れた物語性に充ちあふれた異境に、つよく心をひかれる気持ちが、文字を知り、小説を読みはじめた子供のころから、私にはあったのだ。 私が最もつよく影響されたのは、長田幹彦という明治期の作家の「零落」という小説であった。 この作家には「零落」の他に「扇昇の話」という、ドサ回りの歌舞伎役者を主人公にした小説があり、私は全文を書き写し、声に出して読むほど魅了された。 いまこの原稿を書きすすめるために、書棚から、昭和三年、春陽堂から出版された、明治大正文学全集の中から「長田幹彦・野上弥生子編」の一冊を引きぬいてきた。 そしてページをひらき「零落」を読み始めた。 すると、もうやめることができない。 漂泊流浪の旅役者一座の情緒情感の世界にぐいぐい引きずりこまれていく。 そうだ。またまた、わき道に外れることになるかもしれないが、この本の、長田幹彦について紹介、解説されている欄の中から、すこしだけ、ここに書き写してみよう。 考えてみると、鶴亀劇場時代の前に、私にはこの「零落」という小説に溺れた時期があり、それがその後の人生に、運命的な影響を与えたと、いえなくもない。 もし私が、最も多感な少年期に、この「零落」に出会わなかったら、私の歩いてきた道は、もうすこし違ったものになっていたかもしれない、などといってしまうのは、ややオーバーか。 まず、「長田幹先生小傳」とある。 (この長田幹の、いまでは「彦」という文字が、昭和の初期では「」なのだ。これが古い活字なのだ。 「彦」と「」の違い、わかるかな。 Rマネよ。 「私の使っているパソコンには、どんな古い字でもあります」 と、日頃豪語しているが、「」という字は、さすがにないであろう。どうだ。 私は、ないと思う。 もしあったら、私の負けとして、またあの江戸川区の猥雑な町の片隅で、一日じゅう大衆演劇をやっている歓楽郷へ行き、共に朝から夜まで、大衆芝居や踊りを見て、退廃的で甘美な、あのドサ回りの雰囲気に浸るとしよう) 話がわき道どころか、さらに外れて、細い路地に入りこんでしまった。 では、「長田幹先生小傳」 明治二十年三月一日、東京市麹町區九段中坂に生る。(父足穂は熊本縣出身の醫師、祖父は同地菊池神社の社司にて歌人の聞えあり。)麹町富士見小学校、東京高等師範學校附属中學校を卒業の後、早稲田大學英文科に入學、専ら英佛露の文學を學ぶ。明治四十二年より漂泊的生涯に入り、北海道にて遂に旅役者の群に投ず。歸來、出世作「零落」を中央公論に寄せ、一躍して文名擧がる。後又京阪の地に流寓、爾來十七年間に著書八十九巻。 このあと、こまかい年譜がつくが、それは省略する。 早稲田大学で、イギリス、フランス、ロシア文学を学んだあとで、北海道をさすらい歩き、ついに旅役者の群れに投ず、というところが凄い。 つまり、「零落」も「扇昇の話」も、そういう意味では、長田幹彦自身の私小説みたいなものなのである。 (つづく)
(つづく)