2009.9.25
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十四回

 饅頭笠、犬、煙管


 これまでに何度か書いているように、私のメモの中には、鶴亀劇場と白鬚劇場で上演された狂言名と配役名しかない。
 だが、一つだけ、上演月日を記したメモがある。
 そこには
「鶴亀劇場・昭和二十年十二月二十日初日、二十七日千秋楽」
 と、記されている。
 そして、演目と配役は、つぎのようにメモしてある。

一、恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)・重の井子別れ……一幕

 乳人(めのと)・重の井………坂東竹若
 本田弥惣左衛門(赤爺)………沢村鉄三郎
 馬方(うまかた)三吉 ………坂東笑子
 息女・調姫(しらべのひめ)…坂東小竹
 腰元・一   …………………坂東咲子
 同・二    …………………市川福二郎

二、慶安太平記・丸橋忠弥・壕端(ほりばた)・捕物の場

 丸橋忠弥………………坂東竹若
 松平伊豆守……………市川福之助
 弓師・藤四郎…………片岡当兵衛
 燗酒屋勘助……………沢村鉄三郎
 中間・一………………梅沢秀雄
 中間・二………………有沢浩太郎
 中間・三………………市川福二郎
 捕方(とりかた)……多ぜい

三、二人の踏切番………………二景

 三吉………………片岡当兵衛
 金造………………沢村鉄三郎
 芸者染香…………尾上音女
 堀口新作…………坂東竹若
 三吉女房…………伏見洋子

 そして私のメモのつぎのページには、
「昭和二十一年・鶴亀劇場初春興行・十二月三十一日初日」
 とある。つまり、鶴亀劇場の二の替りは、正月興行となるのである。
 その狂言と配役名は、つぎのようなものであった。

一、だんまり 一幕

 當國太郎………………坂東竹若
 上杉輝虎………………尾上竹之助
 荒武者太郎……………沢村鉄三郎
 その他多ぜい
 
二、新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)

 百姓・久作………………尾上竹之助
 娘・お光 ………………坂東竹若
 丁稚(でっち)久松……尾上音女
 油家・後家お常…………坂東麗子
 娘・お染 ………………市川福之助
 下女・およし……………市川福二郎

三、喜劇・娘十八 二景

 お花 ……………坂東陽子
 藤五郎……………尾上竹之助
 清三郎………………尾上音女
 染香 ………………坂東咲子
 お花の母……………坂東麗子
 芳松 ………………市川福二郎

 昭和二十年(つまり敗戦の年である)の十二月の末から、翌二十一年の正月の半ばまで、私はまぎれもなく鶴亀劇場に出演していた。日付けが記してあるので、そのことがわかる。
 このときの舞台の記憶は、かなり鮮明にある。
 福之助の弟子になってから約三カ月がたち、幕内の生活にも慣れてきて、精神的にも肉体的にも、多少のゆとりがでてきたせいであろうか。
「丸橋忠弥」の幕あき、江戸城外壕端の場で、私と梅沢秀雄、有沢浩太郎は中間(ちゅうげん)に扮し、鉄三郎の燗酒屋のおやじとセリフのやりとりをしている。
 燗酒屋といっても屋台に近いようなよしず張りである。
 と、そこへ花道から主人公の丸橋忠弥が千鳥足で登場し、有名なセリフになる。
「ああ、いい心持ちだ。川岸通りの居酒屋でたった二っ銚子(ふたっちょうし)呑んだのだが、たいそう酔(え)いが出た。いや、出るはずでもあろうかえ。まず今朝家で朝飯に迎い酒に二合呑み、それから角の鰌屋(どじょうや)で、熱いところをちょっと五合、そこを出てから蛤(はまぐり)で二合ずつ三本呑み、それからあとが雁鍋(がんなべ)にいい生肌鮪(きはだ)があったというところから、また刺身で一升、とんだ無間(むけん)の梅ケ枝だが、ここで三合、かしこで五合、ひろい集めて三升ばかり、これじゃあしまいは源太もどきで、鎧を質に置かざあなるめえ。裸になっても酒ばかりは呑まずにゃあいられねえ……」
 耳の奥に竹若の歯切れのいいセリフ回しがよみがえり、つい長々と書いてしまった。
 このときの丸橋忠弥の衣装は、革色木綿(かわいろもめん)の着付けを高くはしょり、赤合羽を羽織って、朱鞘の刀を一本差し、饅頭笠ときまっていて、竹若のこの扮装が、まことに格好よかった。
 そして、セリフをやや臭めに、名調子を意識して唄うように言う姿は、まさしく「小芝居」の楽しさそのものだった。
 忠弥はいい機嫌で舞台へさしかかると、私と梅沢扮する中間を見て、
「おや、煮込みのおでんでやっちょろね」
 と声をかけ、燗酒屋のおやじともセリフをかわす。
 忠弥に酒をおごってもらった二人の中間は、頭を下げて礼を言い、舞台下手へ引っ込む。
 ここから、この狂言における私の大活躍が始まるのだ。
 舞台裏で、大いそぎで中間の衣装を脱ぐ。
 裸になって、犬のぬいぐるみ(現在は着ぐるみというのだろう)を着ると、四つん這いになって、すぐにまた舞台へ出る。
 つまり、こんどは私は、犬になるのだ。
 そして忠弥の芝居の相手をする。
 犬は忠弥にむかってワンワンと吠える。
忠弥「なんだ、ワンワンだと?時代なことを言うやつだ。ワンと啼くのは当たり前だ。赤犬には牛に味が似ているということだから、モウと啼け」
犬「ワンワン!」
 忠弥は犬とにらめっこしたりして、やがて石をひろい、投げつける。
 石は壕の中に投げ込まれて水音をあげ、忠弥は煙管(きせる)をぬいて構え、江戸城の壕の深さを測るのだ。
 忠弥は、じつは酔ってはいないのだ。
 徳川幕府を転覆しようと計る謀反人(むほんにん)由井正雪の一味なのである。
「饅頭笠、犬、煙管」――とくれば、丸橋忠弥、壕端の場だ。
 酔っぱらって花道で言う、
「……ここで三合、かしこで五合、ひろい集めて三升ばかり……」
 の河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)の名ゼリフと共に、この図は、明治、大正、昭和初期の時代の人口に膾炙(かいしゃ)している。
 いまは人口に膾炙どころか、影も形もない、ああ!
 水音と煙管で壕の深さを測っている忠弥の背後に、いつのまにか松平伊豆守が近寄り、無言のまま、忠弥の頭上に傘をさしかける。
 小雨が降っているのだ。
 幕府の要人・松平伊豆守に扮しているのは、私の師である市川福之助。
 やや細身にすぎるが、凛とした、気品のある武家役である。
 敵味方が、一つの傘の下で顔を見合わせ、歌舞伎独特のいい形にきまる。
 級幕閣の伊豆守が、市井無頼の徒で、しかも反逆者である丸橋忠弥に傘をさしかけている図が、なんとも格好いい。
「ご両人!」
 と、客席から声がかかる。
 忠弥に石を投げつけられた野良犬、つまり私は、キャンキャン鳴きながら、舞台裏へ引っ込む。
 そして私は、息つくひまもなく犬のぬいぐるみをぬぎ、つぎの場の捕方(とりかた)の衣装に着替えるのだ。
(この回、私つまり市川福二郎の活躍ぶりを書こうと思っていたのだが、つい芝居全体のムードに酔い、私のことなど、どうでもよくなってしまう)
 私は、忠弥を召捕る捕方の一人になる。
 無人の一座なので、三度も四度も忠弥に斬られ、引っ込んではまた出ていくという立ち回りシーンを演ずるのだが、犬から捕方に変身する時間がない。
 初日はなんとか間に合わせたが、手甲脚絆(てっこうきゃはん)はつけたものの、鉢巻を忘れたりして、どうしても無理だということがわかった。
 そこで私は、思いきって竹若に訴えた。
「親方、すみません、無理です。序幕の中間から犬、犬から捕方になるには、どうしても時間がたりません」
 すると竹若は、なんともやさしい微笑で、私の顔をじっと見て、
「そうかい、そうかい。まあ、ちょっと無理かもしれないねえ。でも、このとおりの、役者のたりない一座だ。なんとかがんばってやっておくれ。あんたの犬、とてもいいよ」
 と言うと、私に、石鹸を二個くれたのだ。
 昭和二十一年(一九四六年)の石鹸が、どれほど貴重なものか、それをいまここに書いたところで、だれも信じてくれないだろう。わかってくれないだろう。
 だから、書かない。
 石鹸は、魚油を固めて作られた黒いもので、鰯の臭いがした。
 それでも、貴重品だった。
 私は竹若の前で、その二個の石鹸を両手で受けておしいただき、あまりのありがたさに涙をこぼした。
 竹若のやさしさが、うれしかったのだ。

つづく

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