2009.9.26
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十五回

 「だんまり」の立ち回り


 鶴亀劇場の昭和二十一年(一九四六年)の正月興行は、十二月三十一日初日とある。
 前年の大晦日(おおみそか)を初日として一週間やったのか、それとも正月興行だから二週間つづけたのか、私の日記にはそれが書いていない。
 だが、前回につづいて、この興行のときのことも、私の記憶に濃い。
 まず、一番目狂言の「だんまり」である。
 私の日記には、ただ「だんまり 一幕」とあって、あとは、

 當國太郎……………坂東竹若
 上杉輝虎……………尾上竹之助
 荒武者太郎…………沢村鉄三郎
 その他多ぜい

 とだけしか書いていない。
 この「その他多ぜい」の中に、私も出ているのだ。
「だんまり」にも、いろいろある。
 暗闇の中で主要人物が無言のまま、ときには手探ぐりで立ち回りする一種の「黙劇」であり、あるいは舞踏劇のようでもあるので、漢字にあてはめると、「暗闘」と書いて「だんまり」と読ませる。
「時代だんまり」や「世話だんまり」などは、いまでも大歌舞伎でちょいちょい見られる。
「艶(つや)だんまり」とか「おかし味(み)だんまり」などというのもある、と「日本演劇辞典」に載っているが、私は見たことがない。
 本所の寿劇場で「おかしみだんまり」らしきものを、一度見たような記憶があるが、はっきりとはおぼえていない。
 鶴亀劇場の昭和二十一年正月興行で、坂東竹若座頭指導のもとにやった「だんまり」は、役名や衣裳などから察すると「時代だんまり」にきまっているが、このあと私は、當國太郎などという人物が出てくる「だんまり」を、どこの劇場でも見ていない。
 あるいは「小芝居」でしかやらない、めずらしい狂言の中の「だんまり」なのかもしれない。

 十月(二〇〇九年)に、東京・歌舞伎座、昼の部でやる「音羽嶽(おとわがだけ)だんまり」という狂言は、尾上松緑の長男が、「藤間大河」の舞台名で「初お目見得(はつおめみえ)」するもので、タイトルからみても、音羽屋一門の一種のデモンストレーション「だんまり」であろう。
 音羽屋の総帥(そうすい)である菊五郎が「音羽夜叉五郎(おとわやしゃごろう)」というヒーローに扮する。
 大河の父親でもある松緑も「奴伊達平(やっこだてへい)」という重要な(多分)役で出演。ただし私はこの狂言、見たことがない。
 あと、魁春、田之助、吉右衛門、富十郎などのお歴々も顔を出す。
 音羽屋一門のつぎの総帥・菊之助も、むろん出演。
 豪華絢爛たる「だんまり」となる。
 これはもう、この狂言名、役名からみても「時代だんまり」にちがいない。
 以前から伝わる「だんまり」に、音羽屋の新スター誕生の披露を合体させた、新作に近いような台本になっていることであろう。
 ありとあらゆるチャンスを生かして、伝統芸を守りぬこうという松竹の姿勢に、脱帽、である。

 そこへいくと、鶴亀劇場正月興行の「だんまり」は、ただ「だんまり」とあるだけで、なんの説明もない。
 もちろん、きちんとした台本がもらえるわけではない。
 いちばん年下の下ッ端役者である私は、
「これはどういう芝居の、どういうだんまりなんですか?」
 などと先輩たちに質問できる立場ではない。
 竹若座長が教えてくれたとおりに、体を動かすより他はない。
 開幕の拍子木が入ると、梅沢秀雄と私が扮する戦国時代の侍が二人、ドンジャカドンジャカ、戦場をイメージさせる鉦(かね)と太鼓のさわがしいお囃子にのって花道から登場。
 幕外の舞台中央で刀をぬき、いきなり立ち回りとなる。
 この殺陣(たて)は、片岡当兵衛がつけてくれた。
 日立の広報劇団のときの「血煙り田の馬場」や「ご存知鈴ケ森」その他の芝居で、私は当兵衛の殺陣師としての実力を知っている。
「梅沢くんと坊やには、ちょっと激しい立ち回りをやってもらおうよ。なんといったって二人とも若いんだから。ね、親方、いいでしょう?」
 ニコニコと竹若に笑いかけながら、当兵衛はその「だんまり」の幕外における立ち回りの演技をつけてくれた。
 当兵衛は、まだ私のことを、広報劇団のときのままの「坊や」と呼んでいた。
 はじめのうちは、ゆるやかな舞踏のような形のきまった立ち回り、途中から、新国劇の殺陣のような激しい動きとなった。
「おお、やるね、すごいね、たいした迫力だね」
 と、竹若はけいこのときからよろこんでくれ、梅沢と私の立ち回りを、目を細めて眺めていた。
 浅草で人気のあった剣劇王・梅沢昇はいつもより力をこめて、熱っぽくこの立ち回りをやった。
 その後も竹若は、「だんまり」の幕が下りてから、
「梅沢くんと福二郎さんの立ち回りは、火が出るようだね。お客さんもびっくりしているよ」
 と、声をかけてくれた。
 私はこういうときの竹若の笑顔が好きだった。
 鼻の両側に深いしわが寄り、そのしわが唇の下側までつづく。なんともあたたかい、柔和な笑顔だった。金歯がはまっていて、それがキラリと光った。
 この「だんまり」のことを、いまでも記憶しているのは、竹若からほめてもらったからだと思う。
 考えてみると、私の親方である福之助は、私のことを一度もほめてくれなかった。
 ほめてくれるどころか、あまり口もきいてくれなかった。
 いつも目を細めて、じいっと何かを考えているような表情で、静かに正座していた。
 無口な人であった。
 古いひいき客が、当時では貴重な食料などを持って楽屋まできてくれても、あまり笑顔を見せなかった。
 私はそこに、福之助という実力のある女形の、妥協をしない孤の姿をみて、ますます敬愛の念を深めた。
「だんまり」のつぎの二番目狂言は「野崎村」で、私は福之助の口添えにより、油屋娘お染に従う下女およしの役を与えられた。
 恋人の久松に会いたさに、大阪から野崎村にやってくるお染につきそうこの下女の役は、大歌舞伎でも名のある中堅の役者がやる。
 お染の役は福之助、ヒロインのお光は竹若で、得意の演(だ)しものであった。
 お染と下女およしは、花道から登場し、つぎのようなセリフを交わす。

お染 これ、およし、早よう久松に逢いたいが、久松の家はまだかや。
よし 寒い時分の野崎参りも、観音さまより久松殿が、ご信心でのお参りゆえ。いま舟の上がり場で、教えてもろうた目印の梅というは、大方あれでござりましょう。
お染 そんなら向こうの家かいのう。
よし たしかにそうでございましょうが、ちょっと聞いて参りましょう。
お染 あ、これ、静かにしやいのう。久松に逢いたさに、来ごとは来ても在所のこと、人目に立っては悪いゆえ、そなたは舟で待っていや。
よし イエイエ、大事のご寮人さま。どうしてお一人あげられましょう。
お染 ハテ、もうそこが家、何も案ずることはないわいの。
よし さようなら、門口までお送り申して参りましょう。
お染 イヤイヤ、それには及ばぬほどに、早よう舟へ行きゃいのう。
よし ハイハイ、かしこまりました。
   ここで義太夫が入り、
  「下女はとつかわ川端へ、引返してぞ急ぎ行く……」

 私だけが花道から退場するのである。
 この「野崎村」という狂言が忘れられないのは、私が舞台の上で師匠の福之助とセリフを交わした唯一の芝居だったからである。
「寺子屋」と同じように、これも私の好きな演目であり、この時代の男女のひたむきな恋愛心理がよく表現されているいい芝居なので、私はセリフのすべて、義太夫の文句までも忘れることなく、いまだに記憶している。
 そして、大歌舞伎で「野崎村」をやるときは、かならず見にいく。
「寺子屋」と同様に、大歌舞伎で上演される回数が多い人気狂言なので、これまでにずいぶん数多く、さまざまな俳優たちが演じるお染、久松、そして久作、お光を見てきた。
 この清らかな自己犠牲の悲劇に涙したいためと、同時に、在り日の市川福之助をしのび、十六歳の福二郎の姿、心があるような気がして、熱い思いになりたくて、私はくり返して「野崎村」を見にいくのである。

つづく

濡木痴夢男へのお便りはこちら

TOP | 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 | プロフィル | 作品リスト | 掲示板リンク

copyright2007 (C) Chimuo NUREKI All Right Reserved.
サイト内の画像及び文章等の無断転載を固く禁じます。