濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十六回
木馬館の勝ち
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一九四〇年代のことばかり書いていると、なんだか、むかし話をなつかしんでいるジジイみたいな気分になってくるので、たまには現実にもどる。
すなわち、二〇〇九年秋の、濡木痴夢男の観劇事情である。
あいかわらず、芝居が好きで、よく見ている。
「雀百まで踊り忘れず」
芝居の合い間に、私の日常がある。
私の日常が、芝居そのものである、といっては、いささかキザに聞こえるか。
私の芝居好きが、Rマネに感染してしまい、いまでは私以上に彼女、芝居好きになっている。
ついきのうも、Rマネの誘いにのり、Rマネがたてた計画どおりに、一日じゅう芝居を見ていた。
Rマネのたてたその計画というのが、ちょっと凄い。常人には、あまり考えつかないものである。
浅草の木馬館の大衆演劇の昼の部を見てから、つづけざまに、東銀座へ移動して、歌舞伎座の夜の部の「松竹梅湯島掛額(しょうちくばいゆしまのかけがく)」を、幕見で見ようというのだ。
幕見といっても「吉祥院お土砂(きっしょういんおどしゃ)」と「櫓のお七」の二幕ある。
数日前に、同じく夜の部の「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」を、同じくRマネと一緒に、すでに見ている。
これも「鞘当(さやあて)」と「鈴ケ森」の二幕である。
歌舞伎座の昼と夜の興行を、一日で見たことは私にも何回かある。
木馬館の芝居を、一日のうちに昼夜見たこともある。
だが、木馬館と歌舞伎座の芝居を、同じ日に見るという経験は、初めてだった。
浅草から銀座へ移動することは、メトロを利用すれば、なんの苦にもならない。
もんだいは、芝居の中身の重量感である。運がわるいと、下痢をする。
だが、Rマネの強っての希望でもあるので、私はこの計画に同意した。
結果をいえば、見終わったあと(しっかり見た)、うんざり感もなければ、疲労感もなかった。
なんだか腹の底にずしりとくるような、それでいて頭の中にさわやかな風が吹く、充実感があった。
負けずにやらなければならない、という気力が、私の全身にみなぎった。
とくに、木馬館の舞台における役者たちの純粋な熱演には、まぶしいほどのオーラを感じ、エネルギーみたいなものまで、私はもらった。
小泉たつみ、小泉ダイヤ、小泉のぼるたち大衆演劇の役者が演じる「勘太郎夢枕」という時代劇を見ながら、私は、「おしゃべり芝居」の中で、私の一九四五年とそれから以後の数年を、もっとしっかり書かねばならぬと思った。
そして、あの時代の自分の心身の動きを、できるだけ正確に、素直に書くための記憶を、無意識のうちに頭の中で整理していた。
木馬館の芝居は、おもしろかった。
痛快であった。
思わず声に出し、体をゆすって笑ってしまうところが、何度もあった。
テレビでお笑いタレントたちが、しきりに「お笑い」を見せているが、あれはどうしても笑うことができない。
だが、木馬館の舞台は、思わず笑ってしまう。魅力的なセリフが目の前で生き生きと飛び交う。
「おもしろい!」
と叫んで手を叩いてしまう。
そのおもしろさについて、浅草から東銀座へ移動し、途中で軽い食事をとりながら、Rマネと楽しく、くり返して語り合った。
おもしろさの中に、確かな感動があった。
「いい仕事をすれば、お客はかならず認めてくれる」
というようなことを、私とRマネは熱っぽく語り合った。
木馬館は、満員だった。いつ行っても満員なのだった。
歌舞伎座の「松竹梅湯島掛額」を、私は過去に何度か見ている。八百屋お七をヒロインとした芝居である。
吉祥院の欄間の天女の像をはずして、そこへお七が代わりに入る場面があり、また、死んだ人間の硬直した体を「お土砂(どしゃ)」をふりかけて柔らかくするという民間伝承をギャグにして使っているので、この芝居を通称「天人お七」とも「お土砂」ともいう。
目先ばかりのおかしみをねらった深みのないギャグが連発されることを私は知っているので、Rマネに、
「いま見てきた木馬館の芝居のほうが、笑いの味はずうっと濃いよ」
と言った。
「え、それはどういうことですか?」
と、Rマネはふしぎそうにきき返したが、それを説明するのは面倒なので私は黙った。
「まあ、歌舞伎には、なんでもあるということだよ」
この芝居を、先代の吉右衛門はうれしそうに演じたというが、紅長(べんちょう)という名前のこの三枚目の番頭を、いまの吉右衛門にはあまりやってもらいたくない。
硬直した死体だけでなく、紅長が「お土砂」をかけると、だれでもかれでも、みんながぐにゃぐにゃになる。
調子にのって、舞台にいる者ぜんぶに「お土砂」をかけるのである。
舞台上手の隅に座っているツケ打ちにまで「お土砂」をかけ、意味もなくぐにゃぐにゃにしてしまう。
揚げ幕からスーツ姿の紳士客が、花道とは知らないで歩いてくる。それを制止しようとして、あとから案内嬢が追ってくる。
紅長はこの二人にも「お土砂」をかけ、ぐんにゃりさせてしまう。
そのあと、幕引きの係にまで「お土砂」をかけ、吉右衛門自身が幕を引いて引っ込み、この場は終わる。
歌舞伎芝居の中で、ホンモノの女性が洋服を着て登場するのは、他にはないと思う。
「鈴ケ森」の雲助たちが、白井権八に斬られるとき、さまざまな趣向を見せるのは、歌舞伎らしくて楽しいが、この「お土砂」はいかにも笑いのセンスが低い。
木馬館の芝居はなんのためらいもなく笑えるが、歌舞伎座の「お土砂」は笑えない。背筋が寒くなる。
まあ、昼の部では「馬盥(ばだらい)の光秀」で、悲愴感みなぎる沈痛重厚な役をやる吉右衛門が、夜になると、がらりと変わったこんな三枚目を演じる趣向を、よろこぶ客もいるのだろう。
ついでにいえば「櫓のお七」を人形振りでやる中村福助の動きも、中途半端のように思えた。
まだ十六歳の子供っぽい小娘が、恋人吉三郎を思う女の情念でおこす激しい行動を、すさまじい形相で表現するための人形振りなのであろう。
だが、福助のお七に、その念力が感じられなかった(十六歳の小娘の声をわざと作っているのも不自然だった)。
夜、火事でもないのに櫓によじのぼり、太鼓を打って町の木戸をあけさせれば、重罪となって捕縛され、首を打たれる。つまり、首を切られる。
「打てば打たるる櫓の太鼓」である。
それを覚悟でお七は梯子(はしご)をよじのぼり、髪をふり乱して太鼓を打ち鳴らすのだが、福助の人形振りには、その悲惨な運命を暗示させるものがあまり感じられなかった。
全体の演出が、どこか甘いようにも思えた。
伊藤晴雨が、八百屋お七の絵を何枚か描いている。
この「櫓のお七」もあるが、十字柱に縛りつけられ、火あぶりになっているお七の絵もある。
実際のお七は、天和元年、放火罪で火あぶりの極刑になった、と記録にある。
福助のお七は、晴雨の絵の迫力、なまなましさに遠く及ばない。
歌舞伎座の外へ出て、しかしRマネは、私に言ってくれた。
「本当に歌舞伎って、なんでもあるんですね。これはこれで、おもしろかったわ」
その言葉だけで、私は満足する。
伊藤晴雨の絵が、いかに歌舞伎と結びついているか、その例の一つを彼女は黙認してくれた。大きな成果である。
いまでいうところの「大衆演劇」の台本を、十六歳から十七歳当時の私は、何本か書いている。それらの台本は、すべて上演されている。
そのときのことも包み隠さず「おしゃべり芝居」の中に書こう、とRマネと別れたあとの電車にゆられて私は思った。
敬愛する市川福之助のもとを辞した原因の一つに、私がそのような台本を、いい気になって書いたがゆえもある。そのことが、師の不興を買ったのだ。師とすれば、当然の怒りであったろう。
私にとっては、あまり気持ちのいい思い出ではない。
しかし、書かねばなるまい。
決心したとき、拍子木の音が、チョーンと私の耳もとで鳴りひびいた。
それは歌舞伎座のものではなく、木馬館の拍子木の音色だった。
小泉のぼる扮するあの堂々たる貫禄の国定忠治の姿が、私の脳裏から、まだ離れないのだった。
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追記。
しばしば述べているように、この私の原稿は肉筆、つまり手書きである。
書きあがったものをRマネのところへ送り、それをRマネが読みやすいように校訂してパソコンに打ち、ホームページに載せている。
今回この原稿を送った翌日、Rマネから電話があった。
「先生の原稿の中に出てくる小泉のぼる、あれは、先生が十年前によく見た小泉のぼるではなくて、べつの人らしいですよ」
私は思わず、ええッ!と叫んだ。
手足の指先まで舞台に馴染んでいる貫禄、堂々たる押し出しの国定忠治の姿を見た瞬間、私はかつて、その達者きわまる芸で私を楽しませてくれた小泉のぼるだと思いこんでしまったのだ。
しかも、この劇団名が、小泉たつや、小泉ダイヤを中心とする「たつみ演劇BOX」とある。
私は木馬館の入口の古い木製の階段をのぼるとき、すでに、小泉たつやや、小泉ダイヤが、あの小泉のぼるの血筋の役者にちがいないと信じこんでいた。そうあって欲しいという気持ちもあった。
なぜなら、彼らの子役時代の舞台を、親愛の情をもって私は見ているからである。
ところが、Rマネが調べたところによると、小泉のぼるは数年前に亡くなっているという。
えええッ!と私はまた声をあげた。
木馬館の舞台で演じられる小泉のぼるの芸に感嘆して、かつて私は二日続けて彼を見に行ったことがあった。
若葉しげる、梅沢登美男と並んで、私に衝撃を与えた役者が、小泉のぼるだった。
その役者は、すでに亡くなっていたのだ。
それでは、私が小泉のぼるだとばかり思っていたあの国定忠治役はだれだったのか。
「なんとか調べてみましょう」
と、Rマネは言ってくれたが、歌舞伎座に出演している俳優諸氏とちがって、そういうことがすぐにはわからないのが、日本国中、旅から旅をゆく大衆演劇の人たちの、またいいところでもある。
なにもかも統一され、規格され、形式的になっているこの無味乾燥の世に、そういうことがよくわからない人たちの暮らしこそ、そのまま「詩」ではないか。以上、私を感嘆させた小泉のぼるは、すでにこの世を去っていたということを、追記させていただく。
(つづく)
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